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2013/12/02

アンジニチェーの時代

 与論の按司時代と英雄時代を象徴するのは、アンジニチェー(アージニッチェー、アージンチェー)であり、島で最も名高い伝説上の人物と言っていい。
 アンジニチェーは、「長い髪の白髪の老人」の夢を見た女が身ごもって生まれ、生まれた時から、髪は真っ黒で目を開き、歯も生えそろっていたため、鬼の子と恐れられ、埋められてしまう。けれど、夜になると、埋めた場所から稲光がして泣き声も聞こえる。それが七日も続くので、鬼の子ではない、神の子に違いないとして、大事に育てられることになった。
 アンジニチェーはその出生からして、英雄譚のそれを背負っている。

 ニチェーは弓が得意だった。

 それからときどき、荷物を積んだマーラン船が、島の東側の大金久の沖を通ると、船の帆網を射落とす者がいました。
 ニチェーの射放した矢だったのです。
 それを恐れた船は、島の西側の沖にまわって通るようになりました。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 長じて、琉球王に仕えようと首里に向かう。首里で、たくさんの兵が城を幾重にも取り囲んでいるなかを、「お湯がわくよりも短い時間で城に忍び込み、王様の前にきちんと座って見せ」た。王は、ニチェーで生まれた彼に、「ニチェー」と名づけ、こう伝える。

 それから、王様は、お前のようなすぐれた家来をもつことは、王としてたいへん嬉しいことであると仰せられ、座をもうけてご馳走してくださいました。
 また、
 「与論島から以北をお前に治めさせるので、按司という位を与える」
 という有難い言葉を賜りました。それからあと、アンジ、ニチェーとよぶことになりました。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 ここでは、琉球王から按司という位階を授けられた格好になっているが、重要なのは、彼が与論の豪族としての按司に他ならあかったこと、また、ニチェーが根人(ニーチュ)を暗示していることだ。ニチェーという土地の者であれば、その下に名が付くはずだが、按司にして根人を暗示するのであれば、英雄化された象徴を帯びた名であると言える。

 ニチェーは王に仕えるが、ある日、暇乞いをする。王は、形見を残すことを命じ、ニチェーは妹のインジュルキから借りた弓を置くことにし、与論に帰る。
 ところが、その弓は妹が大切にしていたもので、ニチェーは桑から代わりの弓を作るが、妹の気持ちはやわらがない。

 困ったニチェーは献上した弓を取り戻すしかないと、ふたたび城へ忍び込み、弓を取り返して島へ戻ってくる。
 妹は喜んだが、弓を床の間に飾り、毎日眺めていた王は怒り、「与論のアンジ、ニチェーのしわざに違いない」と断じて、与論に兵一千をさし向ける。
 琉球の軍船は西側の海に現れる。ニチェーが茶花に着いた時には、既に兵は上陸していたが、ニチェーが斬りまくったので、恐れをなし船に逃げ込む。

 ニチェーは、茶花の浜の岩の上に立って、船に向かって叫ぶが、ちょうどそのとき、一本の矢が飛んできて、ニチェーの頭上に突き刺さる。その流れ矢は、船のご飯炊きの老人が、天に向けて放ったものだった。
 生き残った者たちは帰還し、報告するが、王はニチェーの死を信用せず、ふたたび兵を与論に向ける。茶花の沖から浜を伺うと、ニチェーは死んだ時のまま、直立で軍船を睨みつけるように見え、これで琉球の兵は上陸する気が失せてしまう。

 王は、ニチェーの死に安堵するが、一族を残しておいては、やがて何があるか分からないと、翌年、再び兵一千を与論に送りこむ。
 妹のインジュルキは奮戦するも、多勢に無勢でついに切られてしまう。

 不思議なことに、インジュルキの首が切り落とされると、首は宙に踊り上がり、東に西に飛びまわりながら、
 「ニリャバイシリ ハネーラバイシリ」(海の神さまが 早い流れに)
 と歌いました。のろいの歌でした。
 琉球兵は、このありさまを見てたいへん驚き、われさきにと船に乗り戦軍を引きあげました。
 ところが、にわかに天がかき曇り、大暴風になりました。船は一隻も残らず沈没してしまいました。
 琉球に帰りついた者は、一人もいなかったということです。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 伝説のアンジニチェーであれば、より詳細な民話もあるわけだが、ここでは、主要なプロットはあり、脚色の少ないものとして、昭和41年の前、西区の源治熊、源島保から採取したものに依る。

 アンジニチェーが活躍したのはいつの時代だろう。按司の呼称が生きていることからも、按司世のなかにあり、第二尚氏の統治者がやってくる以前だということはすぐに絞りこめる。

 その間のなかの時期は、船の航路がそれを暗示しているのではないだろうか。はじめニチェーは、島の東側を航行する船の帆を射落とし、以降、船は西側を航行するようになる。そしてニチェーに憤った王が軍船を向けるは西側を航行しており、上陸するのも、西の茶花である。ということは、ニチェーが活躍したのが、船の航路が東側から西側に変わる時代に当たることを示唆するように思える。「マーラン船」が出てくるが、これは伝承の過程で、後代の船の名称に置き換えられたものと見なせる。

 そう考えれば、アンジニチェーとは、与論の按司時代の隆盛と琉球への服属によるその終りを民話として封じ込めたものではないかと思える。そして琉球は、「与論島から以北をお前に治めさせる」と言うように、ついで与論の北を狙う者たちだった。この場合の琉球は、浦添かもしれないが、今帰仁である可能性も持つ。時は、13世紀頃。これは、ニチェ-のものとされるチンバー(積石墓)を調べればより分かるだろう。

 また、「兄のキャーラドキは百姓が好きで農業をやり、妹のインジュルキは海が好き」で、ニチェ-は武に秀でるということは、ニチェーの一族が島の統治を行うことを示唆した神話化の契機も見ることができる。妹は、呪言を放つことができるのであれば、兄が政治を、妹が宗教を司る形態も痕跡として残されている。ニチェーは王との関係よりも妹との関係を重視ているのも、ヲナリ神の島にふさわしい。

 総じて、ウプドーナタ(大道那太)に比べて、実在を確かめる根拠は少ないものの、伝説化の要素はナタに比べて格段に多い。それは、ニチェーがナタ以前の人物であるとともに、ナタ以上の存在感を持っていたことを示している。
 
 ところで、アンジニチェーを生み出したのは、ニッチェー・サークラだが、島への来島の順番から言えば、ニッチェーの次には、サトゥヌシ・サークラが来る。サトゥヌシ・サークラが、与論の琉球王朝への服属を機にやってきた集団なのかもしれない。

 ぼくは以前、こう考えている。

 サトゥヌシとニッチェーの前後関係について野口は一部、混乱した記述を見せているが、『与論島―琉球の原風景が残る島』で高橋誠一は、「分布の面で見る限り、両サアクラの構成員の移住は、先後をつけがたいほどに重複して行われた可能性が高いと言わざるを得ないのである」(p.122)としている。思うに、両サークラはその初期に按司の座を巡って激しく対立した時代を持ったのではないか。ニッチェーは与論の英雄譚、アージニッチェーの物語を持ち、サトゥヌシは「里主」の意味である。両者は対立の後に、ニッチェーが勝者となる。サトゥヌシ・サークラはスーマ・サークラという別称を持つが、それは敗れたことにより、サトゥヌシという名称が抑圧された結果、生まれたのではないだろうか。(「与論シニグ・デッサン 2」

 しかし、アンジニチェー伝承の成り立ちから見ると、ニッチェー・サークラは与論の按司時代を象徴し、サトゥヌシ・サークラは、琉球服属を象徴しており、サトゥヌシがスーマという地名名称を別称を持つのは、その後の王舅、花城勢力による抑圧を意味するものではないかという仮説が立てられる。

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コメント

おはようございます。
なかなかにいい展開ですね。
ウッコーに集まるきっかけが欲しい。
三権分立みたいなのがあったのだろうか・・・?
島内を統一する基礎ができたのであろう。
西区の田畑を中心にして城が形成されたであろうと、高橋は見ていたと思う。城壁は自然の石垣であり、石積のパンタが重要なカギがある。
遺跡の発掘が待たれる。
夢見は迷信と思うが なぜか魅かれる。

投稿: 泡 盛窪 | 2013/12/02 08:38

 弓を大事にするというニチェーの妹は高級神女でしょうか。

 沖縄島北部の「シヌグ・シニグ」のクライマックスでは、神女が弓矢でイノシシを仕留めるシーンがありますが、与論にもあるでしょうか?
 これは、曲玉などと同じく祭具ですから、命より大事かもしれません。

以下は、辺野古に伝承されている神歌『嘉陽ガマのオモイ』です。
*** むかしよに きさしよに(昔世に 昔世に)
    あたるぐと しちやるごと(あったように したように)
    さすのろが びまのろが(さすノロが びまノロが)
    だしちやまゆみ くわぎまゆみ(ダシチャ真弓 桑木真弓を)
    このみようち たくみようち(企みなさって 巧みなさって)
    やここのことを いぬつれて(八つ九つ十の犬を連れて)
    しばたまい ふてじしや(舌の反った太猪を)
    はよがまに おいこめて(嘉陽穴に追い込めて)
    ぬきころし さしころし(貫き殺し 刺し殺し)
    あかちたらし くろちたらし(赤血を垂らし 黒血を垂らし)
    おおかみへい しまがみへい(大神ヘイ 島神ヘイ) ***

投稿: 琉球松 | 2013/12/02 13:59

盛窪さん

城以前のグスク、明らかにしたいですね。

ウッコーに集まるのはサークラ間の融和の意味は大きいですよね。農耕祭儀、アマミク信仰、諍いが背景に控えているとして、きっかけにつながるものにアプローチしていきたいです。


琉球松さん

アンジニチェーの伝承は童話仕立てなので、言及されていませんが、妹は祝女的存在とみて間違いないと思います。

神歌をありがとうございます。嘉陽の場所、調べてみます。与論シニグは、農耕祭儀化されているので、弓が当てるのは的で、イノシシではありません。

けれど、最古の集落であるショーのサークラでは、「うくやま ぴどやまぬぬ ししぬ まーまんなー(奥山辺戸山の猪の真中)」と唱えて、山原に向かって弓を引きます。面白いですよね。

投稿: 喜山 | 2013/12/02 18:23

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