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2013/12/17

与論人(ゆんぬんちゅ)はいつ、どこからやってきたの?

 花のつぼみを高速映像で見ると、花びらがしなやかに開いていく様がよく分かって見入ってしまいますね。あんな風に島を眺められたらって思います。グーグル・アースのように宇宙視点から与論に照準して、島が海面から姿を現した頃から時間を高速化させるのです。いつ、どこから、どんな舟に乗って与論島に人はやってくるのか。動物はどうやってやってきて、鳥や蝶はどう行き交って、植物はどんな風に生い茂っていくのか。そして、島人はどこに住み、どこに住居域を拡大して、開墾地を増やしていったのか。そんな映像を眺められたら、どんなに楽しく胸躍ることでしょう。

 それは空想するしかないことかもしれません。けれど、せめて島人の到来をシミュレーションすることくらいはしてみたい。自分たちはどこからやってきたのか。与論人(ゆんぬんちゅ)はどうやって形成されたのか。

 与論をサンプルにそれをやろうとすると、幸いなことがひとつあります。それは、シニグ祭を構成するサークラ(沖縄の門中に似た氏族を基本にした集団)の住居域から、与論到来の順番を類推できることです。

 その順番と、島での言われや歴史の知見などを手がかりに、大胆な仮説であることをお断りして、描いてみます。

 第一次(三千年前、千八百年前)
 1.ショー、アキマ、キン、アダマ(サークラ名)
 南からやってきたオーストロネシア語族。言語学者、崎山理の説を参照すれば、与論が該当するのは、三千年前の第二期北上と千八百年前の第三期北上です。島の最古に近い遺跡が約三千年前であり、二期と三期のオーストロネシア語族が運んできた「ユニ(砂)」と「アマン(ヤドカリ)」という言葉は与論でも重要な言葉です。

 第二次(11世紀~15世紀)
 2.プカナ(サークラ名)。11~12世紀。
 北からやってきたアマミク(キヨ)あるいはそれと関わりの深い集団。
 プカナは、島の始まりの兄妹始祖神話を持っていること、神話のなかの移住経路が北から南を指していること、稲作農として栄えた時期を持つこと、などを根拠にします。
 奄美大島が、文献からも考古学資料からも姿を消すとされる11世紀を想定。

 3.ニッチェー(サークラ名)。12~13世紀。
 北からやってきた移住集団。琉球弧という経済圏ができ、人口が増え人骨も変化したというグスク時代の始まりを象徴する人たち。
 人口規模の大きいこと、武に秀でていること、伝説のアンジ・ニチェーを生み出していることなどが理由です。

 4.サトゥヌシ(サークラ名)。13~14世紀。
 南からやってきた士族集団。英祖王統に由来する人たち。
 もうサークラ名が出身の何たるかを物語っています。彼らの来島は島内の按司世の終わりを物語るのかもしれません。

 5.プサトゥ(サークラ名)。15世紀。
 南からやってきた官吏集団。勝連勢力に由来する人たち。
 プサトゥからウプサト(大里)が復元できること、第一尚氏時代の勝連勢力の影響が与論に及んだ時期に該当させることができることが理由です。

 6.ユントゥク(サークラ名)。15世紀。
 プサトゥと時期を前後するが、第二尚氏の到来以前であることから、時期は15世紀。
 ただし、ユントゥクについては、その名の由来が分からなく、だから北と南、どちらから来たのか、はっきりできません。
 彼らはアマミク、シニグクではなく、アイスヌ、マクロクという女神、男神を祀っているので、その特異性は何か大きなことを物語るのかもしれません。

 第三次(16世紀初頭)
 7.グスクマ(サークラ名)。
 ここでやっと来島の時期は、16世紀初頭とはっきりさせることができます。尚真王から官吏を授けられた父を継いだ花城真三郎をはじめとした集団。グスクマの通り、外間に由来する人たち。

 本当は、グスクマまで、第二次に含めていいかもしれませんが、実質、この後、明治維新になるまで島の統治は彼らの舞台になりますし、この集団を軸に島内の集落も広がっていったので、画期を示すものとして区別してみます。

 この後、薩摩直轄領の時代も、薩摩の役人が集団を形成するほどにはなっていないので、元になる与論人(ゆんぬんちゅ)を形成した人々はこれで辿れることになります。

 やってきた方角から言えば、南北北南南南、です。
 もちろん、この間には、椰子の実のように漂着した人、貝交易が盛んな頃にうっかり住みついた人、サークラには属していない人々の点々とした来島、難破したヨーロッパ船が残した子孫(実際、遭難したヨーロッパ人が身を置いたというオランダ・イョー(岩穴)が島にはあります)、薩摩役人の子孫など、さまざまな人たちがいることは忘れてはいけないでしょう。でも、歴史的な出来事を手がかりにしているから当たり前ですが、与論人(ゆんぬんちゅ)の形成は、琉球弧の歴史をコンパクトに反映しています。そして、沖縄島とのつながりが深いのは、どうやら山原や北山とだけではないのに気づきます。

 こうしたシミュレーションを、琉球弧の各島で持ち寄ったらさぞ楽しいことでしょう。

 ところで、近代以降は、新たな移住者が第四次の層を形成して現在に至っています。彼を旅人(たびんちゅ)と呼びますが、こうやってみると、もとをただせば、みんな旅人(たびんちゅ)だったんですよね。 

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