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2013/12/05

「瀧家文書」解説への注記 2

 昨日の続きで、「瀧家文書」について先田が加えた解説への注記(『与論島の古文書を読む』)。


5.派遣藩士の接待と仮屋(在番所)の入用品

 代官の視察の際、過剰接待の禁止。


6.琉球との交易

 1659年記録の与論島の舟。
 5枚帆 1艘
 3枚帆 1艘
 刳舟 43艘

 下記は、琉球への渡航申請にある舟型と乗員名。1830年代。

 刳舟壱組
 船頭 玉江(50才)、幸富(58才)、新村(45才)、佐郷勝(34才)、富重(30才)、嘉陽熊(38才)。全員麦屋。

 「刳舟壱組」。「刳舟を二艘横に並べて括り合わせて固定した組舟のようである」。

 渡航の目的は、農具の購入。
 与論島から琉球への渡航について通手形申請の「差出」。船頭→掟→与人→諸所船改所。最終的に許可するのは与人。

 「本来、通手形は(中略)代官名で許可されていたのであるが、与論島の場合は沖永良部島代官所へ提出するまでの時間を省略して簡素化したのであった」(p.248、先田)

メモ

 「刳舟壱組」の場合、山原の例を引いた解説によると、片方の刳舟に五名、もう片方に牛二頭。牛はさぞ怖かっただろう。牛は泳げるから、途中で飛びこんだこともあるんじゃないだろうか。

 それに片方に牛を載せてもう片方だけで漕ぐのは相当、難しいのではないか。もしかしたら、牛一頭ずつ、人は二と三人に分かれて漕いだのかもしれない。


7.与論島の享保検知

 上見(うわみ)。年毎に収穫高を検査すること。
 

 上見は詰役にとっては最も重要な任務であった。あらかじめ島役が予備調査をしておき、代官附役が再度実施検査を行って収穫高を決定していたが、二人の横目が派遣されるようになったので、一人は直ちに与論島へ渡り、詰附役と共に上見を行うように仰せ付けられている。(p.251)

 人口。
 1727年 2331人
 1783年 2720人
 1800年 3357人
 1815年 3530人
 1824年 4247人 遠島人1人
 1831年 3180人 徳之島遠島人1人、徳之島借島人1人
 1838年 3203人 徳之島遠島人1人
 1845年 3699人
 1852年 3888人 沖永良部島借島人1人
 1859年 4358人 借島人3人
 1866年 4972人 借島人5人
 1870年 5316人 借島人3人

 1824年から1831年の大幅な人口減少は、1826年、「春・夏、与論島疱瘡流行、其の上大飢饉にて死亡人夥しく、一統衰微計り申すなき候」(代官系図)。

 御蔵は赤佐。唯一の交易港は赤佐湊。


メモ

 人口推移は、143年で倍以上。21人/年で増加している。ただし、文政の疱瘡・大飢饉前は、20人/年、後は55人/年と、後半の上昇は著しい。また、これを見る限り、明和の大津波(1771年)の影響を受けているかは分からない。1783年の人口の増加幅は小さいので、その可能性はあるが、壊滅的な影響ではない。

 また、19世紀には、蔵も湊も西の赤佐(茶花)になっている。「唯一の交易港は赤佐湊」とあるが、他港は禁じられていたということか?

 徳之島、沖永良部島からの遠島の受け皿になっていたことも分かる。借島人は遠島人とどう違うのだろうか。
 


 

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