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2013/12/07

[改] アンジニチェーの時代

 与論の按司時代を象徴するのに、アンジニチェーの右に出る者はいないでしょう。彼はアージニッチェーともアージンチェーとも呼ばれ、島で最も名高い伝説上の人物でもあります。

 アンジニチェーは、「長い髪の白髪の老人」の夢を見た女が身ごもって産んだ子で、生まれた時から、髪は真っ黒で目を開き、歯も生えそろっていたため、鬼の子と恐れられ、埋められてしまいます。けれど、夜になると、埋めた場所から稲光がして泣き声も聞こえ、それが七日も続きます。そこで、これは鬼の子ではなく神の子に違いないとして、大事に育てられることになりました。というように、アンジニチェーはその出生からして、英雄らしい伝説の衣裳をまとっています。

 ニチェーは弓が得意でした。島の東側の大金久の沖を通る「マーラン船」を目がけて矢を放って帆網を射落とし、以来、船は島の西側の沖にまわって通るようになったほどです。

 ニチェーは、長じて琉球王に仕えようと首里に向かいます。首里で、たくさんの兵が城を幾重にも取り囲んでいるなかを、「お湯がわくよりも短い時間で城に忍び込み、王様の前にきちんと座って見せ」ます。王は、ニチェーで生まれた彼に、「ニチェー」と名づけ、こう言います。

 王様は、お前のようなすぐれた家来をもつことは、王としてたいへん嬉しいことであると仰せられ、座をもうけてご馳走してくださいました。
 また、
 「与論島から以北をお前に治めさせるので、按司という位を与える」
 という有難い言葉を賜りました。それからあと、アンジ、ニチェーとよぶことになりました。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 ニチェーは琉球王から按司という位階を授けられたことになっていますが、重要なのは、彼が与論の豪族としての按司に他ならないこと、また、ニチェーという名が根人(ニーチュ)を暗示していることです。アンジニチェーという名前は、按司にして根人であるという象徴的な意味を負っています。

 ニチェーはある日、暇乞いをします。王は、形見を残すことを命じ、ニチェーは妹のインジュルキから借りた弓を置いて与論に帰るのですが、その弓は妹が大切にしていたものでした。妹が嘆くので、ニチェーは桑から代わりの弓を作りますが、気持ちはやわらぎません。

 困ったニチェーは献上した弓を取り戻すしかないと、ふたたび城へ忍び込み、弓を取り返して島へ戻ってきます。

 妹は喜びましたが、弓を床の間に飾り、毎日眺めていた王は怒り、「与論のアンジ、ニチェーのしわざに違いない」と断じて、与論に兵一千をさし向けるのです。

 琉球の軍船が現れたのは、西の茶花の沖でした。島の東側から駆けつけるので時間がかかったのでしょう、ニチェーが茶花に着いた時には、既に兵は上陸していました。が、ニチェーは奮闘して斬りまくったので、兵は恐れをなして船に逃げ込みます。

 ニチェーは、茶花の浜の岩の上に立ち、船に向かって叫び、威嚇します。が、ちょうどそのとき、一本の矢が飛んできて、ニチェーの頭上に突き刺さってしまいます。その流れ矢は、船のご飯炊きの老人が、天に向けて放ったものでした。

 こうしてあえなく、ニチェーは最期を迎えてしまいます。

 この後も物語は続いて、ニチェーの死を信じない王は再び、与論に兵を送りその死を確認します。そしてそれでも治まらず、一族を生かしておくわけにはいかないと、翌年に再び兵を送って、妹インジュルキの首をはねます。その時、インジュルキの首は宙に踊り上がり、東に西に飛びまわりながら、「ニリャバイシリ、ハネーラバイシリ」(海の神さまが 早い流れに)と呪いをかけるのです。

 すると、にわかに天がかき曇り、大暴風になって、船は一隻も残らず沈没してしまい、琉球に帰りついた者は、一人もいなかった、というのが物語の顛末です。

 まさに英雄伝説ですが、アンジニチェーには、彼のものとされる立派なチンバー(積石墓)もあって、実在の人物であるとも言われています。

 空想の人物なのか実際にいた人物なのか、はっきり分かりません。でも、与論で広く語り継がれてきた伝説が歴史の何かを物語っているのは確かでしょう。

 すると一番気になるのは、アンジニチェーが活躍したのはいつだったのかということです。按司と呼ばれるからには、按司世から那覇世にかけてのことなのは間違いありません。

 そして物語には首里やマーラン船が出てきて、王はニチェーに、「与論島から以北をお前に治めさせる」と言うところを見ると、琉球王朝の最盛期のような雰囲気を持っています。

 けれど、もしそうであれば、沖縄島から島を統治のために与論にやってきた存在がいるはずですが、アンジニチェーには島で仕える者はおらず、直接、沖縄島の王を訪ねています。だから、その頃としてみるのはどうも怪しいのです。

 何より、アンジニチェーの拠点は朝戸から東にかけての古い集落が中心で、アンジニチェーの上位に位置する者だけでなく、15世紀に北山出身の王舅が作ったと言われる与論城の気配すら物語にはありません。ニチェーが弓矢で船を狙うのは東の海に対してですが、これもニチェーの拠点からは東の海は眺望できても、西の海は与論の最高峰にある与論城を頼りにしなければなりません。アンジニチェーの伝承には、北山であれ中山であれ、琉球王国の力が及んで以降の、ある意味で殺伐とした緊張感のない、どこか牧歌的な雰囲気が漂っています。

 そこで、ここでは、首里やマーラン船、王の「与論島から以北をお前に治めさせる」という台詞などは、伝承の過程で、時の都や船の呼称に置き換えられ、脚色も加わったものと仮定してみます。
すると、与論城を作ったという王舅以前だということになります。

 では、按司世にして王舅以前だとしたら、いつなのか。それは船の航路に暗示されているのかもしれません。

 はじめニチェーは、島の東側を航行する船の帆を射落とし、以降、船は西側を航行するようになります。そしてニチェーに憤った王が差し向けた軍船は西側を航行していて、上陸するのも、西の茶花です。ということは、ニチェーが活躍したのは、与論を横切る船の主流が東側から西側に移る時代に当たるのではないでしょうか。

 こう考えると、物語の琉球とは、那覇港を使った浦添の王たちかもしれません。与論への近さから言えば、本部港のある今帰仁の按司である可能性も残るでしょう。そうすると、時は13~14世紀頃が浮かび上がってきます。

 与論に三度も兵を向けた琉球の王は執拗で、単に島の按司を滅ぼすというより与論を支配下に置くことを目指しているようにも感じられます。つまり、アンジニチェーとは、与論の按司時代の隆盛と琉球への服属によるその終りを民話として封じ込めたものなのではないでしょうか。

 また、「兄のキャーラドキは百姓が好きで農業をやり、妹のインジュルキは海が好き」で、ニチェ-は武に秀でるということは、ニチェーの一族が島を統治する時期があったことを示唆しているかもしれません。妹は呪言を放つことができますから、兄が政治を、妹が宗教を司る古代の政治形態の痕跡も感じられます。ニチェーが、王との関係よりも妹との関係を重視ているのも、ヲナリ神の島にふさわしいものです。

 物語には色んなヒントが埋め込まれている気がしますが、ぼくたちはまだ充分に汲み取れていません。でも、アンジニチェーの物語がこれだけ島で愛されているのは、与論生まれの人物が、按司を名乗ることができた短い間の記憶を伝えているからではないでしょうか。

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