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2013/12/14

ピッチャイプドゥン

 盛窪さんに示唆されて、「辺後地築城伝」(沖家寿『ムヌガッタイ』)を読んでみた。ピグチ築城伝。

 ハキビナの沖に光る物が浮かび、岸まで曳いてくると、舟の中に武士八人の遺体が横たわっていた。中でも大将らしき人物が口に巻物をくわえ、光はその巻物から発していた。霊媒(ヤブ)の口寄せにより「私を琉球の見える丘に埋葬し、家来を私の近くに弔ってほしい。そうすれば、この島の繁栄を末代まで見守って上げよう」と告げられたので、辺後地の丘とその崖下に手厚く葬り、巻物を開けてみると《嶋中安穏》《五穀豊穣》《無病息災》と書かれていた。

 これが物語の核心、ピッチャイプドゥン(稲光)の個所だ。

 「辺後地築城伝」では、なんとアージニッチェーは北山王怕尼芝に仕え、出身地を治めるために帰島した者として描かれる。その他、ウプドーナタとサービマートゥイも、幼い王舅を支えるために随行した者たちになっている。与論の英雄勢揃いだ。王舅をピグチに葬り、その崖下で臣下であるウプドーナタとサービマートゥイは自害する顛末は墓の位置が符号していて興味深い。

 けれど、王舅とは中国への使者の職名であり、朝貢の経験を持つと見なしてきたので(「王舅とは誰か」「王舅とは誰か 2」)、王舅がアージニッチェー、ウプドーナタ、サービマートゥイに守護され成長したストーリーは、そのまま頷くわけにいかない。

 「辺後地築城伝」から、ぼくが歴史の真として受け取るのは、華々しい英雄活躍ではなく、北山滅亡後、中山の時代になり、与論にもその統治者がやってくるなかで、王舅の子孫が、それと知らされることもなく、しかし、王舅に手を合わせ供養し続ける手段として、「ピッチャイプドゥン」の逸話を語ったという母の想いの部分だ。

 それを、ウプドーナタとサービマートゥイと、もう一人の側近、スーマハナヨバン(白馬華世蕃)が、ピグチの神衹官と関わるなかで伝承されてきたことは心を動かされるものがある。

 花城の一族を語る史料はいくらかあるのに対して、王舅のそれは圧倒的に少ないのは、歴史の敗者の宿命を背負わされているのを感じるが、逸話「ピッチャイプドゥン」には、それでも伝えたいものはある想いを感じさせるからだ。

 書き手の沖家寿は、スーマハナヨバン(白馬華世蕃)第二十七代としている。これをそのまま受け取って、代替わりを20~25年で取ってみると、年代は1326~1461年になるが、王舅の時代はそこに入っている。


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