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2013/12/31

与論ヤーナー(童名)は、ウシ多し

 Facebookとツイッターで、ヤーナー(童名)調べをしたところ、53名の方の回答を得られました。とーとぅがなし。

 与論のヤーナー(家名)は、ウシが圧倒的に多い。マニュ、ハナ、ハニがそれに続く。こうした名付(ナーチキ)にも、島の人の想いは込められている気がします。

 また、フイクというヤーナーは初めて知りました。女の子に付けるのでしょうか。教えてくださって、とーとぅがなし。

 アンケートは引き続き行っているので、与論出身の方は、下記URLからご協力いただけると嬉しいです。3秒で済みます。


 【ヤーナー(童名)調べアンケート】


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2013/12/30

童名 タラ

 タラもサブルと同様で、男の子につけるヤーナーだ。太郎と同じ。

 東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)では、「太良」、「達魯」などの漢字が見られる。

 ただの偶然だが、おもろそうしには、ぼくの叔父と同じ名前が出てきて面白い。

一 山内太郎(やまきたら)兄部(すさべ)
  良(よ)かる太郎兄部(たらすさべ)
  御顔(おかう) 下垂(したた)りやが 清(きよ)らや
(巻二十、1337)

 

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2013/12/29

童名 サブル

 サブルは、音からして三郎を連想するが、やはり男の子につける童名の系列に属するようだ。東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)では、おもろそうしの「さふろこ」によって知ることができる。

 ところが、琉球本島の童名としては、サンダー、サンルー、サンラーと撥音化して展開されている。漢字は、三良、三魯、三郎など。

 映画『ウンタマギルー』のサンラーもこの系列だったわけだ。

 

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2013/12/28

童名 ヤマ

 「最も普通の童名」とあるが、「山戸」と、ヤマトゥとなることもあるようだ。東恩納は「戸」は附加語であるとしている。与論の場合は、ヤマのままだ。

 「椰馬度」と遣明使の名前も童名の場合があったことも分かる(p.403)。(東恩納寛惇「琉球人名考(1924年)」『東恩納寛惇全集 6』

 意味を示す漢字は、やはり「山」だと思える。


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2013/12/27

童名 ハナ

 言うまでもなく、カナに同じ。「本来、思ひ愛する意味の語から来てゐる為に、最も汎く用ひられている名の一である(p.497)」。

 また、「後世、カナとカニとは別種の童名の如く取扱はれて居るが、親愛の意味なるカナシより出た同根の語であることは云ふまでもない(p.399)」(東恩納寛惇「琉球人名考(1924年)」『東恩納寛惇全集 6』)としていて、男性のハニも同じだと分かる。

 ぼくもいちばん好きなヤーナーだ。


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2013/12/26

童名 ウトゥ

 ウトゥは「専ら女子に限られて居る」が、男子にないわけではない。また、ウトゥは、「虎」の意であるかもしれない、としている。当てられた漢字は、「於戸」。

 東恩納は、「虎」と「於戸」は、「威権(ちから)を表す語」だとしている(p.410)。

 もうひとつ、興味深いことも書かれていた。

 接頭美称を冠して思於戸とすれば、オミオトと唱える筈であるが、通例音約に従ってオミトと発音される。それからして、別に美戸(みと)または美登(みと)と云ふ童名を生じて居る(p.394)。(東恩納寛惇「琉球人名考(1924年)」『東恩納寛惇全集 6』

 すると、パンタミトゥガニ、国垣ミトゥガニなどのミトゥは、ウトゥと同じだということになる。


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2013/12/25

童名 ハマドゥ

 ハマドゥは、カゼ(風)がハディになるように、k音がh音化したもので、「カマドゥ(蒲戸)」と同じだ。

 この童名もカマー、カマアドゥ、カマダー、カマデーとバリエーションも多い。

 東恩納は、「大島の鎌(カマ)、宮古の加真(カマ)、八重山の加茂(カム)」等も同一だとしている。もともとは「カマ」で、「戸(ト)」は一種の附加語だとも(p.390)。(東恩納寛惇「琉球人名考(1924年)」『東恩納寛惇全集 6』

 カマは「釜(窯)」から来たのだろうか。ナビ(鍋)があるから、同様の存在として「釜(窯)」が連想される。


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2013/12/24

使者としての王舅名

 東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)では、古書に登場する人名にも検討が加えられている。道すがら、王舅の名についいてもヒントがあるので、メモする。 

12.1403年、03月09日、攀安知、善佳古耶、臣、方物、鈔・襲衣・文綺
13.1404年、03月18日、攀安知、亜都結制、__、方物、銭・鈔・文綺・綵
14.1405年、04月01日、攀安知、赤佳結制、__、馬・方物、鈔錠・襲衣
(cf.「王舅とは誰か」

 「佳」は、「カ」ないし「ガ」の音で表記されている。「赤」は用例が見つからないが、「亞嘉尼施」(遣暹羅国使、1507年)が「アカニシ」と表記されているので、「赤佳」は「アカ(ガ)」としてみる。

 「結制」(ウッチ)は、「掟」の意味ではないかとしている。職位名ということだ。

 「亜都」は、「アトゥ」。「ウトゥ」の可能性もある。
 
 これらは童名ではなく、家名ないしは家名と位階、官名と見なされいると思える。ただし、琉球弧には、「アカト」という童名があるから、「亜都」、「赤佳」は、アカト系の可能性もあるかもしれない。

 「善佳古耶」は、表記があったので引用。その他は上記から。 

「善佳古耶」(ジンカ・グヤ)
「亜都結制」(アトゥ・ウッチ)
「赤佳結制」(アカ(ガ)・ウッチ)


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2013/12/23

童名 ウシ

 ヤーナー、ウシもポピュラーだが、これは「おもろそうし」にも美称をつけて登場するし、分かりやすい。あの護佐丸の童名も、「真」の美称辞をつけて、「真牛」、「まうし」、「もーし」だ。

 字は「牛」が当てられるが、実際、開墾に不可欠で身近な存在であった牛に由来するのではないだろうか。東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)でも、「極めて普通の名」(p.398)であるとしている。

 漢字のバリエーションは、「牛・真牛・真牛金・思真牛金」。

 護佐丸ではないが、頼りになる、無くてはならない存在という印象を受ける。


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2013/12/22

童名 マニュ

 ぼくのヤーナーはマニュだ。もう数十年前だと思う。何かの資料で、眞仁勇という文字を見つけ、この漢字を当てて使っている。けれど、これは新しく当てはめた文字で古形をとどめたものではないと思う。そもそもどんな含意を持っているかは知らない。与論の男性ではポピュラーなヤーナーでもある。

 残念なことに、東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)でも、そのものは見当たらない。「真」は接頭美称だとすると、士族、貴族の童名ということになるから、ポピュラーさとは不釣り合いな気がする。「真」を抜かすとすると、近しく思えるものに、「如古(ニューク)」がある。「真」をつけると、真如古(マニューク)になる。

 後世ヌクーと呼ばれることもあった(p.396)。15世紀の尚清王の童名が真仁堯樽金(まにきよたるかに)で、ニキヨの例は挙げられている。マンクという例もある。

 ニュークがニュになるためには、美称「真」を付けて「マニューク」になった上で、「ク」が脱落する必要があると思う。ポピュラーな割には接近しにくい童名だ。


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2013/12/21

琉球本島の童名一覧

 東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)を手がかりに、与論のヤーナー(童名)に対する理解を深めてみたいと思う。

 まず、東恩納が「琉球本島」のほとんど全てを網羅したという童名から、接頭美称のつかない平民のものを音をカタカナ表記で列記する。うち、単純に与論と同じと分かるものに印をつけてみる。


トゥク ○
グラ ○
マツー ○
ジラ 
タルー ○
カナー ○
カミ ○
カニマチ
シュタルー
イダルー
サカイ
ウトゥ ○
タマー ○
ンター
メーヌー
シュミ
ンダルー
グズィ
カマドゥ ○
ヤマトゥ
サンダー
イチ
マカルー
ニウシ
タマチ
イクサ
チルー
ミチー
ウシ ○
マカー
ナビィ ○
ジニー 
ニュクー
グジ
マンチュー
シブー
カルミ
カバルー
マチフー
クルミ
マシチィ
タチー
ボー
ニョー
ヒャクー
フィゾー


 与論のヤーナー(童名)は、『与論方言集』(菊千代)に頼ってピックアップすると、

男性
マニュ、ウシ、マサ、トゥク、マチ、ジャー、ハニ、トゥラ、ヤマ、サブル、グラ、ダキ、ハマドゥ、カミ、タラ

女性
マグ、チュー、ウシ、ナビ、カミ、ハナ、ムチャ、ウトゥ、タマ、マチ、ウンダ、クル

 上記との単純比較でも、当てはまらないものが、マニュ、ジャー、マサ、トゥラ、ヤマ、サブルー、ダキ、マグ、チュー、ムチャ、ウンダ、クルと結構ある。これらの中の同じものと、当てはまらないものを腑分けしたい。その過程で、ナータイジレーのジレー、ミトゥガニのミトゥ、パマタイマジュマのマジュマへも理解を届かせられたらと思う。

 

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2013/12/20

家名・童名・学校名

 東恩納寛惇の「琉球人名考」(1924年)によると、「家名は公称しては、苗字又は名字と云ふが、普通俗称では、家(や)の名(な)(ヤ-ンナー)と云ふのである」(『東恩納寛惇全集 6』)とある。「平民には元来家名はない」とも。

 ついで、「童名」。「ここに童名と云ふのは、方語に「ワラベナ」と称せられるもので、表向の名以外に、家族若しくは親しき間柄で通用される呼称を意味するのである。尤も名乗を有しない階級にあつては、童名が即ち公私の呼称である事は云ふまでもない(p.364)。」

 と、いうことは、与論でヤーナーと通称しているのは誤用で、もともとは童名というのが正しいというわけか。いつの頃からか、「童名」を「家名」と呼ぶことになったということか。

 昭和のある時期までは、戸籍にある名を、ヤーナーに対して「学校名」と呼んだけれど、この対比のなかでは、ヤーナーは、家のなかでの名前、童名として矛盾を感じずに使うことができる。社会の場での名を「学校名」と言ったところが面白い。たしかに、子供にとって学校は最初の社会だ。

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2013/12/19

与論人の祖先はヤドカリだったって本当?

 「人間(ミンギヌ)ぬ始(パジ)まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」

 人間はオカヤドカリからなったそうじゃないか。これは与論の郷土史家、野口才蔵が子供の頃、叔父から聞いた話です。
 

子どものころ、潮待ちで浜辺のアダンの下で休んでいて、何げなしに側の叔父に「人間の始まりは何からなったのだろう」と問うた。叔父は、前をコソコソ這うて行く子ヤドカリを見ながら「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」と、にっこりと言われた。それが今だに忘れられない。
 その後、壮年期になって、入墨の話を聞いたり読んだりしているうちに、われわれの遠祖の先住民とのかかわりのあることに触れ、あの叔父の言われたことが冗談ではなかったこと、しかも重要な伝承であったことに改めて深い関心を持った。((野口才蔵『与論島の俚諺と俗信』1982年、p.253)

 人間の祖先がヤドカリだって?そんな馬鹿な、と思うかもしれません。そう思うのも自然なことです。でも、これは本当のことだと思います。本当って、人類の進化は辿っていけばヤドカリになるということではなく、そう信じられていたことが本当だということです。

 証拠はあります。野口も書いているように針突(ハジチ)がそれです。与論でも少し前までは、ハジチを入れたウバ(沖縄のおばぁ)に出会うことができました。まだ、島のどこかにはいらっしゃるかもしれません。あれは、自分の祖先を描いて、そのつながりを示したものでした。1960年代にはまだその言い伝えを覚えている方もいて、沖永良部島では、先祖は「アマム」から生れてきたから、その子孫である自分たちも「アマム」の模様を入墨をしていると答えたという聞き取りがあります。

 どうしてそんな風に思えたのか?人間と他の存在を区別することに慣れているぼくたちはうまく理解することができませんが、これは、昔、人間は動物や植物などの生き物と自分たちを区別しなかったということです。そんなに遠い存在ではなかった。

 島に最初に辿り着いた島人たちが、海岸近くの洞窟に住み始めたとき、自分たちよりもはるかに多く生息しているヤドカリを目にしたことでしょう。ぼくも子供の頃、海近く住んでいましたがありましたが、魚釣の餌のために、夜、家のまわりを一周しただけで、バケツ一杯のヤドカリを簡単に取ることができました。アマンが祖先であるという考えは、そんな共生のなかから生まれたのではないでしょうか。

 与那国島や八重山にも、同じ伝承は残っています。与那国島では、はじめヤドカリを弓矢で島に放ってしばらくしてから再び訪れてみるとヤドカリ繁殖していたので、人も住むことにしたという言い伝えがあるのも、自分たちとヤドカリをあまり区別していなかった観念の延長にあることを示唆しています。

 でも、信じられないと言っても、ペットを飼っている人には犬や猫の気持ちがよくつかめる人がいるし、樹の状態がよく分かる人もいて、人はそういう感覚を身体のどこかに残していて、最近では憧れてすらいるように見えます。ぼくの祖母も動物たちが自然に近づいてきて、まるで会話ができるように見えたものです。そう、昔は誰でも交感しあえたのではないでしょうか。

 そういう目でみたら、浜辺のアダンの下で、叔父からその話を聞けるって、最高の経験です。

 琉球弧では、大昔のことをアマン世ということがありますが、それはヤドカリ時代のことで、その意味は祖先をヤドカリと信じていた時代ということではないしょうか。

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2013/12/18

「ゆんぬ」はなぜ、「与論」になったの?

 与論の謎のひとつは、なぜ「与論」という漢字の島名になったのか、ということです。

 考えてもみてください。島では与論のことは、「ゆんぬ」と呼んでいるのですから。他島からもそう呼ばれていたし、沖永良部とセットのときは「ゆんぬえらぶ」と呼ばれていたわけです。それが、なぜ漢字では「与論」と記されるようになったのか。

 もちろん、琉球語に漢字を当てはめているのですから、多少のぶれは止むを得ないと言うもの。でも、そのぶれの大きい「ききゃ」の「喜界」、「ふぼー」の「久高」、「どぅなん」の「与那国」も、なんとなく分かるという余地を残しています。ところが、「ゆんぬ」と「与論」は、似ていないと言わざるをえません。もともとの地名音との隔たりは琉球弧屈指ではないでしょうか。

 でも、これは逆に「ゆんぬ」に漢字を当てはめようとすると、少し分かってきます。
 当てはめる漢字がない。

 このことは、きっと、「ゆんぬ」という音を知っていて、初めて文字を手にした琉球王府の人たちも悩んだのではないでしょうか。いや、悩んだはずです。
ぼくたちの知る限り、「ゆんぬ」が初めて漢字になったのは、1431年、第一尚氏の公文書に「由魯奴」と出てくることです。これは「ゆるぬ」と読めますが、ここでは、なんとか「ゆんぬ」を漢字にしようとした努力の跡をみることができます。

 ちなみにこの公文書には、与論の沖で船が風に会い打破して船員七十四名が亡くなった事故についての記録で、島にも死体が流れついたとあります。そういうこともあったのですね。

 また、1614年のこととして琉球人の書いた文書には、「輿留濃」という字が当てられています。これも、琉球語読みをすれば「ゆるぬ」と読めるものです。

 どうやら当時の琉球人たちは、「ゆんぬ」に近い音で漢字にしようとしていました。

 ところで、「与論」という漢字が初めて公表されたのは、1471年、朝鮮の『海東諸国記』の「琉球国之図」においてで、そこに地図の島名として、はっきりと「輿論島」と書かれることになるのです。

 ここでポイントになったのは、「ゆんぬ」を何とか漢字に表記にしようとして、「ゆるぬ」と読める「由魯奴」という表記があったことではないでしょうか。「ゆるぬ」を元にすると、最後の「u」の母音が抜けて、「ゆるぬ」から「ゆるん」へと変化しやすくなるからです。「ゆるん」ができてしまえばこれを五母音化して「与論」になるのはすぐのことです。

 この地図の作成には、琉球人と日本人(博多の商人)が関わったと考えられています。日本人が関与したことも、「ゆるぬ」から「ゆるん」、そして五母音化して「与論」とする結果を生みやすくしたと思います。琉球人であれば、「ゆんぬ」という島名を知っているわけですから、それに近い「ゆるぬ」音の漢字に収めたかもしれませんが、それを知らなかったら、思い切ったこともしやすいと考えられるのです。

 こうして『海東諸国記』の「輿論島」は、薩摩直轄以降という、やはり大和側の手になる代官記で、「與論」へと引き継がれ、現在の「与論」に至ったのでした。

 また、1721年の清の文書では「由論」という字が当てられていて、琉球語読みで「ゆるん」と呼んだこともあったのではないかと想像されます。

 これらそれぞれの時期の表記をつないでゆくと、「ゆんぬ」が「与論」に変身するのに、「ゆんぬ」、「ゆるぬ」、「ゆるん」、「よろん」という三段変化を経たと想定できそうです。

 ところで、もし仮に、琉球人が「由魯奴」、「輿留濃」と書いた努力が報われて同様の漢字が当てられていたとしたら、「よろん島」は、「ゆるぬ島」あるいは「よるの島」となっていたのかもしれません。「よるの島」だったら、夜のイメージになったことでしょう。でも、与論になったことで別のイメージも浮かびます。「与論」となったことで、ぼくが小さい頃は、テレビのニュースで「世論調査によれば」という台詞を聞く度に、島で調査があったんだろうかとどきどきしたものでした。

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2013/12/17

与論人(ゆんぬんちゅ)はいつ、どこからやってきたの?

 花のつぼみを高速映像で見ると、花びらがしなやかに開いていく様がよく分かって見入ってしまいますね。あんな風に島を眺められたらって思います。グーグル・アースのように宇宙視点から与論に照準して、島が海面から姿を現した頃から時間を高速化させるのです。いつ、どこから、どんな舟に乗って与論島に人はやってくるのか。動物はどうやってやってきて、鳥や蝶はどう行き交って、植物はどんな風に生い茂っていくのか。そして、島人はどこに住み、どこに住居域を拡大して、開墾地を増やしていったのか。そんな映像を眺められたら、どんなに楽しく胸躍ることでしょう。

 それは空想するしかないことかもしれません。けれど、せめて島人の到来をシミュレーションすることくらいはしてみたい。自分たちはどこからやってきたのか。与論人(ゆんぬんちゅ)はどうやって形成されたのか。

 与論をサンプルにそれをやろうとすると、幸いなことがひとつあります。それは、シニグ祭を構成するサークラ(沖縄の門中に似た氏族を基本にした集団)の住居域から、与論到来の順番を類推できることです。

 その順番と、島での言われや歴史の知見などを手がかりに、大胆な仮説であることをお断りして、描いてみます。

 第一次(三千年前、千八百年前)
 1.ショー、アキマ、キン、アダマ(サークラ名)
 南からやってきたオーストロネシア語族。言語学者、崎山理の説を参照すれば、与論が該当するのは、三千年前の第二期北上と千八百年前の第三期北上です。島の最古に近い遺跡が約三千年前であり、二期と三期のオーストロネシア語族が運んできた「ユニ(砂)」と「アマン(ヤドカリ)」という言葉は与論でも重要な言葉です。

 第二次(11世紀~15世紀)
 2.プカナ(サークラ名)。11~12世紀。
 北からやってきたアマミク(キヨ)あるいはそれと関わりの深い集団。
 プカナは、島の始まりの兄妹始祖神話を持っていること、神話のなかの移住経路が北から南を指していること、稲作農として栄えた時期を持つこと、などを根拠にします。
 奄美大島が、文献からも考古学資料からも姿を消すとされる11世紀を想定。

 3.ニッチェー(サークラ名)。12~13世紀。
 北からやってきた移住集団。琉球弧という経済圏ができ、人口が増え人骨も変化したというグスク時代の始まりを象徴する人たち。
 人口規模の大きいこと、武に秀でていること、伝説のアンジ・ニチェーを生み出していることなどが理由です。

 4.サトゥヌシ(サークラ名)。13~14世紀。
 南からやってきた士族集団。英祖王統に由来する人たち。
 もうサークラ名が出身の何たるかを物語っています。彼らの来島は島内の按司世の終わりを物語るのかもしれません。

 5.プサトゥ(サークラ名)。15世紀。
 南からやってきた官吏集団。勝連勢力に由来する人たち。
 プサトゥからウプサト(大里)が復元できること、第一尚氏時代の勝連勢力の影響が与論に及んだ時期に該当させることができることが理由です。

 6.ユントゥク(サークラ名)。15世紀。
 プサトゥと時期を前後するが、第二尚氏の到来以前であることから、時期は15世紀。
 ただし、ユントゥクについては、その名の由来が分からなく、だから北と南、どちらから来たのか、はっきりできません。
 彼らはアマミク、シニグクではなく、アイスヌ、マクロクという女神、男神を祀っているので、その特異性は何か大きなことを物語るのかもしれません。

 第三次(16世紀初頭)
 7.グスクマ(サークラ名)。
 ここでやっと来島の時期は、16世紀初頭とはっきりさせることができます。尚真王から官吏を授けられた父を継いだ花城真三郎をはじめとした集団。グスクマの通り、外間に由来する人たち。

 本当は、グスクマまで、第二次に含めていいかもしれませんが、実質、この後、明治維新になるまで島の統治は彼らの舞台になりますし、この集団を軸に島内の集落も広がっていったので、画期を示すものとして区別してみます。

 この後、薩摩直轄領の時代も、薩摩の役人が集団を形成するほどにはなっていないので、元になる与論人(ゆんぬんちゅ)を形成した人々はこれで辿れることになります。

 やってきた方角から言えば、南北北南南南、です。
 もちろん、この間には、椰子の実のように漂着した人、貝交易が盛んな頃にうっかり住みついた人、サークラには属していない人々の点々とした来島、難破したヨーロッパ船が残した子孫(実際、遭難したヨーロッパ人が身を置いたというオランダ・イョー(岩穴)が島にはあります)、薩摩役人の子孫など、さまざまな人たちがいることは忘れてはいけないでしょう。でも、歴史的な出来事を手がかりにしているから当たり前ですが、与論人(ゆんぬんちゅ)の形成は、琉球弧の歴史をコンパクトに反映しています。そして、沖縄島とのつながりが深いのは、どうやら山原や北山とだけではないのに気づきます。

 こうしたシミュレーションを、琉球弧の各島で持ち寄ったらさぞ楽しいことでしょう。

 ところで、近代以降は、新たな移住者が第四次の層を形成して現在に至っています。彼を旅人(たびんちゅ)と呼びますが、こうやってみると、もとをただせば、みんな旅人(たびんちゅ)だったんですよね。 

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2013/12/16

ユントゥクが読み解けない

 ユントゥク・サークラをプサトゥ・サークラの後、グスクマ・サークラの前と位置づけると、その来島の時期は、15世紀後半、ということになる。勝連間切になったとしてそれ以降から、花城来島までの間だ。

 この間に訪れたとしたら、考えやすいのは、阿麻和利の没後に尚巴志が、官吏として送り込んだ存在があるのではないかということ。プサトゥ、グスクマに倣って出身の地名を背負って名づけをすると見なすのだが、ユントゥクにつながるような地名を見つけられない。

 一方で、ユントゥクは、官吏には関わらないと思わせることもある。サトゥヌシ、プサトゥ、グスクマは、ぼくの仮説に従えば、島の統治に関わる者として来島している。このうち、サトゥヌシ、プサトゥについては、それぞれスーマ、パンタという別称を持っている。スーマにしてもパンタにしても、地名名称だけれど、この2サークラについて別称があるのは、グスクマ・サークラが背景とする第二尚氏による抑圧ではないだろうか。サトゥヌシにしても、プサトゥにしても、第二尚氏にしてみれば、打ち倒した敗者の由来を、その名称が持っている。それが、地名名称による別称化を促した。

 この側面からいえば、ユントゥクは別称を持っていない。それは、サトゥヌシ、プサトゥ、グスクマとは異なり、琉球王朝の権力を背景にしていないのではないかと思わせる点だ。

 もうひとつ、考えられることがある。ユントゥク・サークラは、アイスヌ(女神)、マクロク(男神)と、アマミク、シニグクとは異なる神を祀っていることだ。シニグには参加するので、これは矛盾しないということなのだろうが、特異な、強い信仰集団であることをうかがわせる。アマミク、シニグクとの連想から言えば、勝連ゆかりの視点とは逆に、北方からやってきたのではないかと思わせる。野口才蔵の『南島与論島の文化』には、ユントゥク・マチャンは、寺崎(p.85)とあり、それも北方経由の暗示に見立てたくなる点だ。

 ユントゥクから連想される語は、「言」、「弓」、「徳之島」、「トゥク系の童名」。

 ユントゥクが読み解けない。

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2013/12/15

1614年の輿留濃地頭職

 与論が「輿留濃」と記されたことがあったのを知る、「姚姓又吉系譜伝」の記述。

輿論島  沖永良部島より南西約十七浬、沖縄島の北端より約十浬の海上にあり、周圍約三里、方一里に充たず。方音「ユンヌ」輿留濃に作り明人繇奴に作る。沖永良部と連稱して「ユンヌエラブ」と云ふ。古へ國頭並輿論永良部等の地方、共に「奥渡より上の扱理」の専管たり。姚姓又吉系譜伝、「萬暦年間、叙築登之座敷、敍黄冠、而後任惠良部島地頭職。萬暦四十二年甲寅、任輿留濃地頭職。」主邑茶花島の西端に在り、赤佐又赤座に作る。茶花は謝花と同格の地名なるべし。(『南島風土記―注釈 沖縄・奄美大島地名辞典』(1974年)

 萬暦四十二年、つまり1614年に与論の「地頭職」に着いた者がいる。「又吉系譜伝」のなかに出てくる記述だから、花城一族ということになるが、「基家系図」を見ても、これが家系図みたいなものだからか、誰か判然としない。でも、1609年以降に首里近傍から着任した者がいたということだ。与論の前に「惠良部島」の地頭に着いているから、沖永良部島を調べれば分かるだろうか。

 もとは、「叙築登之座敷、敍黄冠」とある。「築登之座敷」は、里主であり一般士族に当たる。親方、親雲上より格下ということだ。しかし、「黄冠」は中級士族で親雲上(べーちん)を表すから矛盾している。「築登之座敷」だったが、親雲上(黄冠)に昇格したということだろうか。

 与論に来た時、黄冠、着けてきたんですかね?

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2013/12/14

ピッチャイプドゥン

 盛窪さんに示唆されて、「辺後地築城伝」(沖家寿『ムヌガッタイ』)を読んでみた。ピグチ築城伝。

 ハキビナの沖に光る物が浮かび、岸まで曳いてくると、舟の中に武士八人の遺体が横たわっていた。中でも大将らしき人物が口に巻物をくわえ、光はその巻物から発していた。霊媒(ヤブ)の口寄せにより「私を琉球の見える丘に埋葬し、家来を私の近くに弔ってほしい。そうすれば、この島の繁栄を末代まで見守って上げよう」と告げられたので、辺後地の丘とその崖下に手厚く葬り、巻物を開けてみると《嶋中安穏》《五穀豊穣》《無病息災》と書かれていた。

 これが物語の核心、ピッチャイプドゥン(稲光)の個所だ。

 「辺後地築城伝」では、なんとアージニッチェーは北山王怕尼芝に仕え、出身地を治めるために帰島した者として描かれる。その他、ウプドーナタとサービマートゥイも、幼い王舅を支えるために随行した者たちになっている。与論の英雄勢揃いだ。王舅をピグチに葬り、その崖下で臣下であるウプドーナタとサービマートゥイは自害する顛末は墓の位置が符号していて興味深い。

 けれど、王舅とは中国への使者の職名であり、朝貢の経験を持つと見なしてきたので(「王舅とは誰か」「王舅とは誰か 2」)、王舅がアージニッチェー、ウプドーナタ、サービマートゥイに守護され成長したストーリーは、そのまま頷くわけにいかない。

 「辺後地築城伝」から、ぼくが歴史の真として受け取るのは、華々しい英雄活躍ではなく、北山滅亡後、中山の時代になり、与論にもその統治者がやってくるなかで、王舅の子孫が、それと知らされることもなく、しかし、王舅に手を合わせ供養し続ける手段として、「ピッチャイプドゥン」の逸話を語ったという母の想いの部分だ。

 それを、ウプドーナタとサービマートゥイと、もう一人の側近、スーマハナヨバン(白馬華世蕃)が、ピグチの神衹官と関わるなかで伝承されてきたことは心を動かされるものがある。

 花城の一族を語る史料はいくらかあるのに対して、王舅のそれは圧倒的に少ないのは、歴史の敗者の宿命を背負わされているのを感じるが、逸話「ピッチャイプドゥン」には、それでも伝えたいものはある想いを感じさせるからだ。

 書き手の沖家寿は、スーマハナヨバン(白馬華世蕃)第二十七代としている。これをそのまま受け取って、代替わりを20~25年で取ってみると、年代は1326~1461年になるが、王舅の時代はそこに入っている。


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2013/12/13

四十にして惑々。五十にして天命を知る、か?

 十年に一度の区切りだから書いておこう。

 四十代が終わるのだけれど、それが嬉しいときている。

 四十になる直前は、ジョン・レノンより年上になってしまうことをうまく受け入れられずにいた。浮かない感じで始まったわけだけれど、次第にそれでは済まずきつくなっていった。

 自分で長期の呪いをかけてしまったのかもしれないが、四十代はきついと呟くやうになっていった。そして、実際、きつかった。

 思えば、四十代のどこかで、無条件の肯定力を持っていた祖母と父を亡くした。それもきつさが増し、続く理由にもなったろうが、このブログもそういう目でみれば、それをしのぐために書いてきたようなものかもしれない。そもそも書きはじめたきっかけが、天寿を全うしかけて眠る祖母の横で、与論のためになることを何もしていないのにうろたえて、あわてて立ち上げたことだった。これから書いていきます、という所信表明のようなことがせめてもの報告だった。

 不惑どころでは全くない。惑惑だった。その四十代が終わろうとしている。

 何の根拠もないのだけれど、終わるというだけで、ことの他嬉しい。劇的に何かが変わるわけでもなく、引きずるものは引きずると分かっていても、ただ終わるという、そのことにほっとする。四十代はきつかったと、先取りして言ってしまう。

 四十を前にして不惑の予感はまるでなかったのに比べ、天命を知ることは、不惑よりは分かるところがあるような気がするのも救いだ。

 長かった。

 さようなら四十代、さようなら色をなくした日々。

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2013/12/12

プカナの盛衰

 野口才蔵の『南島与論島の文化』のなかで、「シージタル」の意味が分からなかったのだが、お袋や菊千代さんに頼って、やっと分かった。

 なお古昔は、大資産家であったようだ。そして現在のサークラの所には、貢納米を納める倉があったという。それで次のようなことばが残っている。「プカナトゥ・パマタイヌ・シークジリタクトゥ・ヰンジョー・シージタル。」また、プカナは、プカナ・マチャンというマチャン(魚のよく通る、いわば魚の道)を所有していたとのこと。その昔は、パマタイなども大峰山を所有しその東に広い土地を持っていた。また、プカナも東方に広く所有していたといわれる。それを補強するように、龍野系譜を見ると、当間の祖先に「外皆養子」との記事がある。プカナの竹菊政氏の言によれば、氏の家には昔から男が二人生れたことがないそうである。それでその男が早死にすると養子をとらねばならなくなる。氏によると、当間(東家)から二回も養子をもらったと話された。当間から二回も養子をもらうくらいだからその繁昌の程がうかがえる。なお、屋敷の南西端にはプカナダークラのシニュグ神の依石がある。(p.73『南島与論島の文化』)
シージュン
(シージランヌ、シージティ)< し出る。働き出して進歩する。最初貧乏だったり、または仕事に失敗した者が発展する。(菊千代『与論方言辞典』

 プカナとパマタイがしくじってしまったので、ヰンジャは発展した。しくじったとは何のことだろう。また、発展、ことをなした、とは。片方の失敗がもう片方の成功につながることとは。それは土地所有や政治に関わることを思わせる。そのことが、「貢納米を納める倉」に影響を与えた、というような。けれど、口にするのははばかれるとでも言うように、ことは暗示にとどめられている。ともかく、野口は、哀惜を込めてプカナの盛衰を語っているわけだ。

 プカナ・サークラを、アマミキヨ、あるいはそれに深く関わった集団だと見なす者にとっては、「貢納米を納める倉」があったということが重要な点になる。ぼくの見立てでは、与論に稲作技術を持ち込んだのは、プカナということになるからだ。彼らがかつて資産家であったことは、その傍証になるのではないだろうか。


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2013/12/11

与論節

 『沖縄の古謡 沖縄諸島編 下巻』 で、「与論(ゆんぬ)節」を聴いた。国頭は与那の七月舞の曲だ。


いらぶとぅ ゆんぬとぅ ゆんて ちるり
だきぬふし あふさだき ゆんて ちるり
ソーラ ユンテ チルリ スリ

くんじゃんさちから ふにぬ みゆんど
しらふや ささぎてぃ まえんかてぃ
ソーラ ユンテ チルリ スリ

あはから うふしま さんにりえ
あはぬうふがに はして かきてぃ
ソーラ ハシ カキティ スリ

[訳]
永良部島と与論島とは同じ距離にある
竹の節も安富祖竹は同じ長さである
ソラ 同じ長サダ

国頭の岬(赤丸岬)から船が見えるよ
白帆を揚げて真南に向かって(走っている)
ソラ 真南二向カッテ
安波から大島(辺戸名)までは三里も二里もあるが安波の大川に橋を架けて(近くなった)
ソラ 橋ヲ架ケテ

※「赤丸岬は奥間の西方に突き出した半島」


 短いけれど、島々の近さ、行き交いを思わせてくれる曲を聴くのは心やすまる。与那も行ってみたい。

 CDには、安田のウシデークで歌われる曲たちも入っている。ハリバコー節のドライブ感が愉しかった。


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2013/12/10

ヨナ系地名の与論

 東恩納寛惇は、「大日本地名辞書」のなかで、「ヨナ(yuna)」系の地名について、書いている。

ヨナ(yuna)の名辞類系極めて多し。 与那、与那原、与那覇、与那覇堂、与那城、世名城、与那嶺、与那川、与那升、与那堀、与那田、与那地(宮古郡下地村字川満の小字)、与那浜、与那良(八重山郡古見の小字)、与那国、与論(NがRに代る)、与路(NがRに代る)等其主なるもの也、而して此種の名辞は各地に散在して一所に限らざる事勿論とす。如上の地名は現在海岸地かもしくは曾つて海岸地たりし所に存在する点に於て凡て一致す。今ヨナの類語を求むるに、

ヨナ木 yuna-gi 海岸地植物(Hibscus sp.)
ヨナジ yuna-ji 米水の腐敗したるもの
ヨナーメー yuna-me 一種の変化(略河太郎に同じ)

混効験集云、よね、米の事也、又砂をよねともいふ事あり、元三の旦、内裏の御庭に砂置をよねまくといふ也。

庭に砂置くを、よねまくと云ふ事、砂の白きを米に因みて目出度く言ひ表したるにもよらむ。されどヨナ又はヨネの本義、米を先とすべきか、砂を後とすべきか、一概に定め難し。仮に如上の地名より帰納する時には、ヨナは砂の義とも云ひ得ん。されば、ヨナ木もヨナ地(砂地)に生ずる木の意にして、ヨナーメーといへるも亦海洋に因む語とも解し得んか。(p.35『東恩納寛惇全集 6』

 ありがたいことに、与論も視野の外に置かれることなく含まれている。ところが、東恩納は、与論がヨナ系であるのを、「ゆんぬ」からではなく、「与論」から推論してしまっている。「与論(NがRに代る)」、というのだ。この推論もありうるのかと考える前に、東恩納でさえも、漢字表記から地名の語源を探る手続きをやってしまっている。

 与那、与那原、与那覇と、漢字が方音を保存しているものが多いから、勢い、与論もその手と見なしたということなのだろう。東恩納が過たず、「ゆんぬ」を元に考察しても、ヨナ系の「類系」に入れたかどうかが気になるところだ。

 ところで、これを読むと、18世紀の「混効験集」において、「よね、米の事也、又砂をよねともいふ事あり」という認識があったことが分かる。東恩納は、「ヨナ又はヨネの本義、米を先とすべきか、砂を後とすべきか、一概に定め難し」とあるが、現在にいるぼくたちは、これを、「砂」が先と言うことができる(cf.「砂州としてのユンヌ(与論島)」)。ただ、東恩納の時代でも、それは類推可能ではないだろうか。少なくとも「米」より先に「砂」はあるのだから。

 「庭に砂置くを、よねまくと云ふ事、砂の白きを米に因みて目出度く言ひ表したるにもよらむ」というのは、自分たちもしてきたことだから、懐かしい。


 

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2013/12/09

勝連間切よろん村

 伊波普猷が、与論は勝連に属したことがあるとして挙げていた『琉球地名辞典』の記述は、確かにあった。(cf.「プサトゥ・サークラの出自」

 勝連間切はもと、南風原・西原・與那城・平安名・平敷屋・安勢理・屋慶名・濱・平安座・伊計・高江洲・見里(今作宮里)・饒邊・やぶつ・おそこ川・よろん・いけた・はんた・宮城の十九村を含み、與勝半島及びその海上に散布せる諸島に亙つてゐたが、延賓四年折半して二間切とし、その北半を與那城間切とし、又高江洲・宮里二村を具志川間切に割き、津堅を西原間切より入れ、内間・濱崎・小舎覇・比賀・神谷の五村を新設し、後又おそこ川・よろん・いけた・はんた・濱崎・小舎覇・神谷の七村を廃し、現在南風原・平安名・平敷屋・濱・比嘉・内間・津堅の七字を以てその所管とす。(『南島風土記―注釈 沖縄・奄美大島地名辞典』1974年

 東恩納寛惇のこの記述は、ずっと前にも見た気がするが思い出せない。その時は重要なこととして認識できなかったということだろう。

 「よろん」を廃したのは、「延賓四年」、つまり1676年だから、ずいぶん後のことだ。この「よろん」がわが与論のことだとしたら、実質、間切には存在しなくなったが、滅多にない間切の変更までは放っておかれたということか。

 「よろん」音の地名は、与論島以外に聞いたことがないので、伊波の言うとおり、「よろん」=「与論」である可能性はあるのだろう。ただ、間切を「よろん」とした時期は気になる。仮に伊波の言うように、阿麻和利が与論に関与したとして、それは15世紀なかばになるが、1431年の中山が「由魯奴」と表記する段階で、「海東諸国記」が「與論島」と記すまでまだ時間がある。間切り変遷の記録を書く元になった史料自体が、与論通称になった後であれば、自然だということになる。いや問題はそういうことではなく、「属島の与論島が、慶長役後割かれて、大島諸島中に加えられた」ということであれば、又吉大主は、勝連間切の総地頭として官位を授けられ、花城も勝連間切の地頭としてやってきたことになる。そうなのか?

 もう少し言えば、慶長の役後の領土交渉で、最初、与論は琉球に含まれていたという認識を、伊波は持っていた。伊波の考えの流れでいえば、与論は勝連間切に属しているから、最初、琉球の領土になったということになる。これも、本当かどうか、分からない。けれど、とても刺激的だ。


 ところで、ぼくは最初、1979年に発刊された『東恩納寛惇全集 6』で、該当箇所を読んだ。そこでは、1950年の『南島風土記―注釈 沖縄・奄美大島地名辞典』(1974年)の該当箇所は次のようになっている。

勝連間切はもと、南風原、西原、与那城、平安名、平敷屋、安勢理、屋慶名、浜、平安座、伊計、高江洲、見里(今宮里)、饒辺、屋富慶、おそこ川、与論、池田、半田、宮城の十九村を有せしが其後西原等九村を与那城間切に割き、高江洲、宮里二村を具志川間切に割き、津堅を西原間切より入れ、内間、浜崎、小舎覇、比賀、神谷の五村を新設し、後又おそこ川、与論、池田、半田、浜崎、小舎覇、神谷の七村を廃し、現今南風原、平安名、平敷屋、浜、比嘉、内間、津堅の七字を以てその所管とす。

 全集では、漢字にはルビが振られ、読みやすくなっている他、旧字体は新字体に改められている。でもそれだけではなく、一部、ひらがなは漢字に改められ、そこで「よろん」も「与論」と漢字表記になっている。その他、文章も編集が加えられた個所がある。

 全集にした段階で、編者たちが、「よろん」を「与論」にしたということは、これが与論島を指すという認識があっただろうか。それとも、これ以外の漢字はあり得ないと見なしてそうしたものだろうか。

 1947年、伊波が『沖縄歴史物語―日本の縮図』を書いた段階では、東恩納の記述は、「与論」ではなく「よろん」であったはずだが、伊波はこれに漢字を当てて引用したことになる。

 ところで、全集の段階での編集は編集過剰ではないだろうか。漢字にルビを当てるのは親切だとしても、表記を変えたり編集を加えたりするのは、受け取る側の認識の仕方が微妙に変わってしまう。

 こう思うのは、全集には奄美の地名のところに、与論島はないのだが、『南島風土記』では、「與論島」とある。全集の編集の段階で割愛されたということだ。残念なことだと思う。

 ともあれ、気を取り直すと、与論は、勝連に属したことがあり、それは阿麻和利の支配下だったという伊波の説の根拠を辿ることができた。


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2013/12/08

佐渡山豊、山之口貘をうたう

 昨夕、新宿中野の古民家レストラン、モモガルデンに、山之口貘の詩にメロディを添えて歌うアンプラグド・ライブに行ってきた。

 歌うは、シーサーズ、山下由、佐渡山豊。シーサーズの「座布団」は二重唱が心地よく、山下由の「紙の上」はご当人のパフォーマンスも楽しく、佐渡山豊の「会話」、「紙の上」、「弾を浴びた島」などは、パーカッション、サックスも加わり、音色も豊かだった。

 モモガルデンは住宅街にあるから、時間も遅くなれないし、音量を抑えめにしなきゃいけない。佐渡山豊も、「インクに乾いたのどをかきむしり 熱砂の上にすねかへる その一匹の大きな舌足らず だだ だだ と叫んでは」と歌う、もうその頃には、歌い手も叫びたいのだが、いや叫ぶのだが、そこを抑えめに歌うのだった。でも、その抑制は、山之口獏の詩に適っていた。音も抑揚もパフォーマンスも存分にできていたら、山之口獏の詩より歌が勝ってしまう気がしたのだ。だから、ゆうべはモモガルデンの制約が、控えめな音楽家たちのパフォーマンスが、山之口獏の詩を、詩として味わう余地を残してくれていたように、響いてきた。

 聴いているうちに、山之口のあの一見、たどたどしい言葉の運びは、フォーク・ソングに乗せやすいのに気づいた。これはひょっとしたら音楽家の力量がそうさせるので、勘違いかもしれない。山之口の詩にメロディを付けるのは難しそう。でもいったんメロディを決めると、フォーク・ソングにはまってしまう。それも70年代のフォーク・ソングに。これは言い替えると、音楽家にとっては課題になるのかもしれない。70年代のフォーク・ソングに回収されてしまっていいのか、という。

 ライブでは、山之口貘にまつわるトーク・セッションや彼の肉声、数少ない映像の披露もあって、それもよかった。本人による「妹」の朗読。

なんといふ妹なんだらう
ーー兄さんはきつと成功なさると信じています。とか
ーー兄さんはいま東京のどこにいるのでせう。とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた、六・七年振りに手紙を書かうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思ふのです
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のやうにものほしげな顔しています
そんなことも書けないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなって
とひつめられているかのやうに身動きも出来なくなつてしまひ
満身の力をこめてやつとのおもひで書いたのです
ミナゲンキカ
と、書いたのです。

 たとえば、この詩を読んでいると、自然に生まれてくる抑揚があると思うのだけれど、それそのままの語り口で、これが聞けただけでも甲斐があった。

 山之口貘の「会話」や、沖縄への帰郷の際、沖縄口に飢え、沖縄口で語りかける彼に、共通語で返す沖縄の人々に戸惑い、躓く。そういう姿は大なり小なりぼくたちの近代というものだ。その佇まいのなかで、山之口貘の詩はまだ生きている。そのうえ、続けて曲に耳を澄ますうちに、特定秘密保護法への抵抗歌に聞こえてくるのだった。

 蛇足。「ぼくの生まれは琉球なのだ」。彼のこの台詞は、ぼくにもしっくりきた。

「がじまるの木」

ぼくの生まれは琉球なのだ
そこには亜熱帯や熱帯の
いろんな植物が住んでいるのだ

がじまるの木もそのひとつで
年をとるほどながながと
ひげを垂れている木なのだ

暴風なんぞにはつよい木なのだが
気だての優しさはまた格別で
木のぼりあそびにくる子供らの
するがままに身をまかせたりしていて
孫の守りでもしているような
隠居みたいな風情の木だ

 ところがそのがじまるの木は姿を見せなくなって
 島は暴風にめっぽう弱くなってしまって
 気だての優しさや隠居は
 人に任されてしまっているのが心もとないのだ

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2013/12/07

[改] アンジニチェーの時代

 与論の按司時代を象徴するのに、アンジニチェーの右に出る者はいないでしょう。彼はアージニッチェーともアージンチェーとも呼ばれ、島で最も名高い伝説上の人物でもあります。

 アンジニチェーは、「長い髪の白髪の老人」の夢を見た女が身ごもって産んだ子で、生まれた時から、髪は真っ黒で目を開き、歯も生えそろっていたため、鬼の子と恐れられ、埋められてしまいます。けれど、夜になると、埋めた場所から稲光がして泣き声も聞こえ、それが七日も続きます。そこで、これは鬼の子ではなく神の子に違いないとして、大事に育てられることになりました。というように、アンジニチェーはその出生からして、英雄らしい伝説の衣裳をまとっています。

 ニチェーは弓が得意でした。島の東側の大金久の沖を通る「マーラン船」を目がけて矢を放って帆網を射落とし、以来、船は島の西側の沖にまわって通るようになったほどです。

 ニチェーは、長じて琉球王に仕えようと首里に向かいます。首里で、たくさんの兵が城を幾重にも取り囲んでいるなかを、「お湯がわくよりも短い時間で城に忍び込み、王様の前にきちんと座って見せ」ます。王は、ニチェーで生まれた彼に、「ニチェー」と名づけ、こう言います。

 王様は、お前のようなすぐれた家来をもつことは、王としてたいへん嬉しいことであると仰せられ、座をもうけてご馳走してくださいました。
 また、
 「与論島から以北をお前に治めさせるので、按司という位を与える」
 という有難い言葉を賜りました。それからあと、アンジ、ニチェーとよぶことになりました。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 ニチェーは琉球王から按司という位階を授けられたことになっていますが、重要なのは、彼が与論の豪族としての按司に他ならないこと、また、ニチェーという名が根人(ニーチュ)を暗示していることです。アンジニチェーという名前は、按司にして根人であるという象徴的な意味を負っています。

 ニチェーはある日、暇乞いをします。王は、形見を残すことを命じ、ニチェーは妹のインジュルキから借りた弓を置いて与論に帰るのですが、その弓は妹が大切にしていたものでした。妹が嘆くので、ニチェーは桑から代わりの弓を作りますが、気持ちはやわらぎません。

 困ったニチェーは献上した弓を取り戻すしかないと、ふたたび城へ忍び込み、弓を取り返して島へ戻ってきます。

 妹は喜びましたが、弓を床の間に飾り、毎日眺めていた王は怒り、「与論のアンジ、ニチェーのしわざに違いない」と断じて、与論に兵一千をさし向けるのです。

 琉球の軍船が現れたのは、西の茶花の沖でした。島の東側から駆けつけるので時間がかかったのでしょう、ニチェーが茶花に着いた時には、既に兵は上陸していました。が、ニチェーは奮闘して斬りまくったので、兵は恐れをなして船に逃げ込みます。

 ニチェーは、茶花の浜の岩の上に立ち、船に向かって叫び、威嚇します。が、ちょうどそのとき、一本の矢が飛んできて、ニチェーの頭上に突き刺さってしまいます。その流れ矢は、船のご飯炊きの老人が、天に向けて放ったものでした。

 こうしてあえなく、ニチェーは最期を迎えてしまいます。

 この後も物語は続いて、ニチェーの死を信じない王は再び、与論に兵を送りその死を確認します。そしてそれでも治まらず、一族を生かしておくわけにはいかないと、翌年に再び兵を送って、妹インジュルキの首をはねます。その時、インジュルキの首は宙に踊り上がり、東に西に飛びまわりながら、「ニリャバイシリ、ハネーラバイシリ」(海の神さまが 早い流れに)と呪いをかけるのです。

 すると、にわかに天がかき曇り、大暴風になって、船は一隻も残らず沈没してしまい、琉球に帰りついた者は、一人もいなかった、というのが物語の顛末です。

 まさに英雄伝説ですが、アンジニチェーには、彼のものとされる立派なチンバー(積石墓)もあって、実在の人物であるとも言われています。

 空想の人物なのか実際にいた人物なのか、はっきり分かりません。でも、与論で広く語り継がれてきた伝説が歴史の何かを物語っているのは確かでしょう。

 すると一番気になるのは、アンジニチェーが活躍したのはいつだったのかということです。按司と呼ばれるからには、按司世から那覇世にかけてのことなのは間違いありません。

 そして物語には首里やマーラン船が出てきて、王はニチェーに、「与論島から以北をお前に治めさせる」と言うところを見ると、琉球王朝の最盛期のような雰囲気を持っています。

 けれど、もしそうであれば、沖縄島から島を統治のために与論にやってきた存在がいるはずですが、アンジニチェーには島で仕える者はおらず、直接、沖縄島の王を訪ねています。だから、その頃としてみるのはどうも怪しいのです。

 何より、アンジニチェーの拠点は朝戸から東にかけての古い集落が中心で、アンジニチェーの上位に位置する者だけでなく、15世紀に北山出身の王舅が作ったと言われる与論城の気配すら物語にはありません。ニチェーが弓矢で船を狙うのは東の海に対してですが、これもニチェーの拠点からは東の海は眺望できても、西の海は与論の最高峰にある与論城を頼りにしなければなりません。アンジニチェーの伝承には、北山であれ中山であれ、琉球王国の力が及んで以降の、ある意味で殺伐とした緊張感のない、どこか牧歌的な雰囲気が漂っています。

 そこで、ここでは、首里やマーラン船、王の「与論島から以北をお前に治めさせる」という台詞などは、伝承の過程で、時の都や船の呼称に置き換えられ、脚色も加わったものと仮定してみます。
すると、与論城を作ったという王舅以前だということになります。

 では、按司世にして王舅以前だとしたら、いつなのか。それは船の航路に暗示されているのかもしれません。

 はじめニチェーは、島の東側を航行する船の帆を射落とし、以降、船は西側を航行するようになります。そしてニチェーに憤った王が差し向けた軍船は西側を航行していて、上陸するのも、西の茶花です。ということは、ニチェーが活躍したのは、与論を横切る船の主流が東側から西側に移る時代に当たるのではないでしょうか。

 こう考えると、物語の琉球とは、那覇港を使った浦添の王たちかもしれません。与論への近さから言えば、本部港のある今帰仁の按司である可能性も残るでしょう。そうすると、時は13~14世紀頃が浮かび上がってきます。

 与論に三度も兵を向けた琉球の王は執拗で、単に島の按司を滅ぼすというより与論を支配下に置くことを目指しているようにも感じられます。つまり、アンジニチェーとは、与論の按司時代の隆盛と琉球への服属によるその終りを民話として封じ込めたものなのではないでしょうか。

 また、「兄のキャーラドキは百姓が好きで農業をやり、妹のインジュルキは海が好き」で、ニチェ-は武に秀でるということは、ニチェーの一族が島を統治する時期があったことを示唆しているかもしれません。妹は呪言を放つことができますから、兄が政治を、妹が宗教を司る古代の政治形態の痕跡も感じられます。ニチェーが、王との関係よりも妹との関係を重視ているのも、ヲナリ神の島にふさわしいものです。

 物語には色んなヒントが埋め込まれている気がしますが、ぼくたちはまだ充分に汲み取れていません。でも、アンジニチェーの物語がこれだけ島で愛されているのは、与論生まれの人物が、按司を名乗ることができた短い間の記憶を伝えているからではないでしょうか。

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2013/12/06

プサトゥ・サークラの出自

 伊波普猷の最後の著書になるという『沖縄歴史物語―日本の縮図』(1947年)は、与論島に触れた個所がある。

 これらの神歌は、沖縄島の東岸といわゆる道の島との関係を歌ったもので、百姓一揆の頭となって、勝連の暴君望月按司を殺し、勝連の城主となって、後に尚泰久王位の駙馬となった阿麻和利が「沖渡より上」の航海権を握ったことを物語るもので、勝連半島の古老が、阿麻和利が道の島(おくとより上)を支配したと語っているのとよく吻合する。東恩納君の『琉球地名辞典』勝連の項に、昔はその十九村中に、与論という村があったが、後世廃された、ということを見えているのは看過すべからず事実で、現在この半島内にその痕跡の遺っていないところから考えると、これはかつて存在していたのが廃されたのではなく、属島の与論島が、慶長役後割かれて、大島諸島中に加えられた、と見るのが、真相に近い。人あるいは「おくとより上」の与論島が、かくもかけ離れた勝連の管轄であったことはちょっと受け取れない、と言うかもしれないが、しかし、それは交通上もしくは歴史的関係から考えられないこともなく、似通った例は古今東西に多いから、そのかみの例の委任統治時代の痕跡と見てよい。それはまた同一八六初北風がふしに、

一 与論こいしの(神女)が
  まとく浦(徳之島)に通て、
  島かねて
  按司襲にみおやせ
又 離島こいしのが

にも現れているが、阿麻和利はおそらく沖縄から大島諸島に渡る足溜りなるこの小離島(こはなれ)に吏員(さばくり)を置いて、「おくとより上」に関する事務を司らしめたことも、例の神女が徴税に関係したことから容易く類推されよう。(p.83)『沖縄歴史物語―日本の縮図』

 なんと阿麻和利が与論に関与したというのだ。その可能性はあるだろうか。毎度のことながら、検証するための材料に乏しい。

 ただ、「人あるいは「おくとより上」の与論島が、かくもかけ離れた勝連の管轄であったことはちょっと受け取れない、と言うかもしれない」ことについては、伊波以上に確信を持つことはできる。勝連と与論は遠くない。遭難したナータイジレーは平安座島に漂着し、花城は与那原の港から舟を出し与論を目指す。潮と風を母体に描かれる船の流線は距離を縮めるのだ。

 王舅のあと、与論に支配権を振るったのは護佐丸だと思える。護佐丸が座喜味城築城のため、島人を駆り出したのは、北山監守をしていた1416年から1422年の間のどこか。阿麻和利は与論に支配権を振るったとしたら、1422年以降、没する1458年までの間だということになる。

 間に挟めば、1431年、中山王の尚巴志が明に当てた公文書に、「本国も海上の小山、地名、由魯奴なる地方に至り」とあるが、「由魯奴」は、「ゆるぬ」と読め、いかにも「ゆんぬ」に当てた漢字だ。護佐丸の伝承が残り、1431年の公文書の記録があるということは、北山滅亡後は、中山の支配下という形で琉球王国に組み込まれていたと見なしてよいと思える。

 後半に焦点を当てれば、あの1471年の「琉球國之圖」が作図された時期に近いということも言える。与論こいしのおもろの他、勝連おもろ群を見れば、勝連の勢力圏内に与論があったとしてもおかしくはない。(cf.「玉の御袖加那志の与論」

 ここで、与論島内に根拠を求めようとすれば、浮上するのはプサトゥ・サークラだ。プサトゥ・サークラの与論への来島は、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシの後だから、年代としては14~15世紀が想定される。そして、プサトゥは、ウプサトゥの「ウ」が脱落したものとみなせば、大里が復元できる。「小離島(こはなれ)」としての与論を「足溜り」として利用した際の「吏員(さばくり)」がプサトゥだと考えれば、彼らを勝連近くの大里に出自を持つものだと見なすことができる。それは花城一族の形成したサークラが、グスクマ(外間)であるのと同じことだ。

 しかし一方、北山監守の存在や、なんと言っても「琉球國之圖」の北部に巨大に描かれる国頭城の存在が気になる。ただ、どちらにせよ王舅、護佐丸以降、花城来島までの与論は、首里、勝連、国頭、今帰仁をはじめとした勢力が行き交い、落ち着かない日々だったのではないだろうか。

 ところで、これが書かれたのはもう60年以上も前のことになるから、歴史学は既にこの考えを退けているかもしれない。が、与論の島人が歴史をつくろうとすれば、辿るべき想像と検証の素材にせざるをえない。そうするしかないのだから。



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2013/12/05

「瀧家文書」解説への注記 2

 昨日の続きで、「瀧家文書」について先田が加えた解説への注記(『与論島の古文書を読む』)。


5.派遣藩士の接待と仮屋(在番所)の入用品

 代官の視察の際、過剰接待の禁止。


6.琉球との交易

 1659年記録の与論島の舟。
 5枚帆 1艘
 3枚帆 1艘
 刳舟 43艘

 下記は、琉球への渡航申請にある舟型と乗員名。1830年代。

 刳舟壱組
 船頭 玉江(50才)、幸富(58才)、新村(45才)、佐郷勝(34才)、富重(30才)、嘉陽熊(38才)。全員麦屋。

 「刳舟壱組」。「刳舟を二艘横に並べて括り合わせて固定した組舟のようである」。

 渡航の目的は、農具の購入。
 与論島から琉球への渡航について通手形申請の「差出」。船頭→掟→与人→諸所船改所。最終的に許可するのは与人。

 「本来、通手形は(中略)代官名で許可されていたのであるが、与論島の場合は沖永良部島代官所へ提出するまでの時間を省略して簡素化したのであった」(p.248、先田)

メモ

 「刳舟壱組」の場合、山原の例を引いた解説によると、片方の刳舟に五名、もう片方に牛二頭。牛はさぞ怖かっただろう。牛は泳げるから、途中で飛びこんだこともあるんじゃないだろうか。

 それに片方に牛を載せてもう片方だけで漕ぐのは相当、難しいのではないか。もしかしたら、牛一頭ずつ、人は二と三人に分かれて漕いだのかもしれない。


7.与論島の享保検知

 上見(うわみ)。年毎に収穫高を検査すること。
 

 上見は詰役にとっては最も重要な任務であった。あらかじめ島役が予備調査をしておき、代官附役が再度実施検査を行って収穫高を決定していたが、二人の横目が派遣されるようになったので、一人は直ちに与論島へ渡り、詰附役と共に上見を行うように仰せ付けられている。(p.251)

 人口。
 1727年 2331人
 1783年 2720人
 1800年 3357人
 1815年 3530人
 1824年 4247人 遠島人1人
 1831年 3180人 徳之島遠島人1人、徳之島借島人1人
 1838年 3203人 徳之島遠島人1人
 1845年 3699人
 1852年 3888人 沖永良部島借島人1人
 1859年 4358人 借島人3人
 1866年 4972人 借島人5人
 1870年 5316人 借島人3人

 1824年から1831年の大幅な人口減少は、1826年、「春・夏、与論島疱瘡流行、其の上大飢饉にて死亡人夥しく、一統衰微計り申すなき候」(代官系図)。

 御蔵は赤佐。唯一の交易港は赤佐湊。


メモ

 人口推移は、143年で倍以上。21人/年で増加している。ただし、文政の疱瘡・大飢饉前は、20人/年、後は55人/年と、後半の上昇は著しい。また、これを見る限り、明和の大津波(1771年)の影響を受けているかは分からない。1783年の人口の増加幅は小さいので、その可能性はあるが、壊滅的な影響ではない。

 また、19世紀には、蔵も湊も西の赤佐(茶花)になっている。「唯一の交易港は赤佐湊」とあるが、他港は禁じられていたということか?

 徳之島、沖永良部島からの遠島の受け皿になっていたことも分かる。借島人は遠島人とどう違うのだろうか。
 


 

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2013/12/04

「瀧家文書」解説への注記 1

 『与論島の古文書を読む』から、「瀧家文書」について、先田光演が加えた解説に注記する。


1.表題と作成年

 瀧家文書の表紙は欠落。35pに、「天保七丙申 八月 萬集 持榮」とある。「よろずあつめ」。

 天保四年から八年にかけて記録したものと思われる。(1833~1836年)


2.藩役人の派遣

 1691年。沖永良部島、代官設置。代官1名、附役3名。
 附役の内2名が1名交代で与論島に勤務。御仮屋に居住。代官は、1回/在任中に視察。
 1745年、横目2名。1名は与論島詰。

メモ

 与論島には、代官在任中に一回の視察だから、滅多に来てないということ。常駐は、1年交代の附役。1745年以降はそれに横目が加わる。18世紀目前から1名、18世紀半ばからは2名。横目の在任期間は分からないが、代官は滅多に来ず、附役も一年交代という意味は大きい。代官不在ということは、大和世の象徴の姿を見ることはなく、附役が一年交代ということは、与論に子孫の系列を作りにくいということだ。


3.島役人

 島役人。
 与人(1名/間切)、横目(1名/間切)、掟(1名/村)。
 1727年 12名
 1833年 21名
 1837年 15名(「瀧家文書」内の記載)

 与人、横目、掟以外には、作見廻、溜池見廻、筆子がある。
 この他、島独特の下級役職名として、枡取、屋子貝当、棕梠当、御蔵番、役所番、御高札当、定船頭、船筑、濱居番、垣邊名泊、東泊り・磯瀬戸、案内、検者、村乙名・老者、さばくり。

メモ

 夜光貝の担当までいる。ご大層なことだ。臨時職もあるということか。お役所よろしく仕事を増やしていったということか。

 与論の島役人は、数十人規模か。1831年の人口は、3180人。1833年の島役人数21名を取ると、人口の0.7%。「一八〇〇年前後の大島の島役人の制度上では、概略、人口の約三%、一一〇〇人程度であった」(p.44 弓削正巳「近世奄美諸島の砂糖専売制の仕組みと島民の諸相」2011年)に比しても、とても少ない。

 「垣邊名」。ハキビナに当てた漢字だろう。


4.祭役と祭事

 与論主の他に首里主の記載(「基家系図」)それぞれの役割を推し量ることはできない。与人とは別役だから、これは祭祀に関わる職名ではないか(先田)。

 大掟 集落代表
 親時 日柄見
 堂守 観音堂と弁天堂の管理人
 宮守 東寺や神山などの管理人

 城籠当り シニグ祭の統括者
 高屋当り 聖地高屋の管理人
 城之百(ヒャー) 聖地城の管理人
 嘉陽之百 聖地嘉陽の管理人

 係は全て男性。

メモ

 沖縄北部の集落でもシニグ祭が伝承されている。これも集落の祭祀であり、与論島におけるサークラごとのシニグ祭りや沖永良部島のアタイシニグに相当するものであり、より古層の祭祀であろう。この古層の祭祀の上に、新たな全島の豊年祈願の祭として組み立てられたものが、与論島と沖永良部島ではなかったか。即ち二段階のシニグ祭を想定してみた。(p.242)

 これはその通りだろう。与論シニグは、仮面仮装の来訪神儀礼、豊穣祭、氏族の祭儀としての側面を持つ。それを農耕の共同祭儀として編成したのは、島の統治者である。与論シニグの仮面仮装は、まるで植物を盗まれたみたいに形骸しか残されておらず、起源像からはるかに遠ざかってしまっているが、歴史を物語るものはこれしかないと言ってくらい貴重であるには違いない。

 「嘉陽」は、何の聖地なのだろう。

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2013/12/03

安田とのシニグつながり

 安田シニグと与論シニグが共通しているのは、仮面仮装の来訪神儀礼という点で、これは両島のみでなく、シニグ全体に通じるものだ。

 ただ、安田シニグが、「半裸の上にワラのガンシナ(鉢巻状の輪)と帯をし、それに山のシイなどの木の枝や羊歯の葉をさして頭から身体まで緑の葉で被う。特に頭にはその頃に赤い総状の実をつけるミーハンチャ(和名ゴンズイ)の枝をさして飾る。身の丈より高い木の柴枝をもつ」(小野重朗「シヌグ・ウンジャミ論」)と、本格的なのに対し、与論シニグは、「実の多くなったヤマブドウの蔓をたすきのように身にまとう」と仮面仮装の側面は薄れてしまっている。ただ、前日にウガン(御願)での夢見によって、豊作の如何を告げられ、シニグ神として迎えられるという、化身の側面は残している。

 また、来訪神を迎えるという形態も共通しているが、与論シニグでは、来訪神としてのパル・シニグをムッケー・シニグが迎えるのに対し、安田シニグでは、山を降りてきた男たち、来訪神を「それぞれの組の主婦たちが飲物を持ってサカンケー(坂迎え)をする」ように、スタイルは違っている。安田の場合、以前は祝女が迎えていた。

 安田シニグでは、山を降りる過程、集落を廻る過程で、柴竹を持って、男の子を前に列をつくり、「エーヘーホー」と唱えるが、与論シニグでは、男の子が唱えるのは、「フーベーハーベー」と違っている。ただ、どちらもお祓いの意味を持っている。

 神送りの後、安田シニグの広場では、田草取りの模擬行為「田草取り」、船を走らせる模擬行為「ヤーハリコー」、輪をつくり踊る「ウスデーク」が余興のように行われる。与論シニグでは、これらの決まった模擬行為や踊りはないように見える。

 豊穣祈願という意味では、谷川健一と松山光秀の考えを援用すれば、これはスクの予祝祭に起源を持ち、生産形態の変更に伴い稲を始めとした濃厚祭儀に転化する。ただし、与論シニグのショー・サークラでは、「うくやま ぴどやまぬぬ ししぬ まーまんなー(奥山辺戸山の猪の真中)」と唱えるように、狩猟時代の豊穣の意味を失わず持っており、シニグが農耕祭儀を起源にするものではないことも物語っている。

 また、伊平屋島、伊是名島、沖永良部島、与論島、本部、伊計島、宮城島、平安座島、浜比嘉島というシニグの分布をみると、これはアマミキヨ、シネリキヨの南下によってもたらされたものだと思える。

シヌグは始祖神アマミキヨが出現してシマを祓う行事であることがわかる。安田では柴をもとって山を下る男たちを「アマン世の姿」だというが、それは始祖たちの姿の意であろう。(p.154小野重朗「シヌグ・ウンジャミ論」)

 小野はこう書くが、「アマン世の姿」は、アマミキヨのそれではなく、アマン(ヤドカリ)を始祖を見なした時代のそれだと思える。

 安田シニグにない要素としては、与論シニグが、沖縄の「神拝み」の側面を持ち、祖先が移住した経路を示す神路(カミミチ)を辿る過程を持つことだ。ここで、来訪神儀礼は、祖先儀礼へと接ぎ木される。また、パル・シニグとムッケー・シニグは、沖縄の門中に似た氏族集団サークラが行っており、かつサークラ全体で行う共同祭儀となっている点も新たに加えられた質になっている。

 最大の相違点は、安田シニグでは来訪神は山に降りるのに対し、与論シニグは海からやってくる点だが、ここでは、地勢の条件により垂直的なものの水平的なものへの転化であると見なしておく。

 安田シニグとの比較でいえば、仮面仮装の来訪神儀礼と豊穣際のは古層に属し、共同祭儀は新しいということになる。言い換えれば、狩猟・漁労の祭儀が農耕の祭儀となった時に、シニグ名称は与えられ、カミミチが発生し、共同祭儀化されたということだ。

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2013/12/02

アンジニチェーの時代

 与論の按司時代と英雄時代を象徴するのは、アンジニチェー(アージニッチェー、アージンチェー)であり、島で最も名高い伝説上の人物と言っていい。
 アンジニチェーは、「長い髪の白髪の老人」の夢を見た女が身ごもって生まれ、生まれた時から、髪は真っ黒で目を開き、歯も生えそろっていたため、鬼の子と恐れられ、埋められてしまう。けれど、夜になると、埋めた場所から稲光がして泣き声も聞こえる。それが七日も続くので、鬼の子ではない、神の子に違いないとして、大事に育てられることになった。
 アンジニチェーはその出生からして、英雄譚のそれを背負っている。

 ニチェーは弓が得意だった。

 それからときどき、荷物を積んだマーラン船が、島の東側の大金久の沖を通ると、船の帆網を射落とす者がいました。
 ニチェーの射放した矢だったのです。
 それを恐れた船は、島の西側の沖にまわって通るようになりました。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 長じて、琉球王に仕えようと首里に向かう。首里で、たくさんの兵が城を幾重にも取り囲んでいるなかを、「お湯がわくよりも短い時間で城に忍び込み、王様の前にきちんと座って見せ」た。王は、ニチェーで生まれた彼に、「ニチェー」と名づけ、こう伝える。

 それから、王様は、お前のようなすぐれた家来をもつことは、王としてたいへん嬉しいことであると仰せられ、座をもうけてご馳走してくださいました。
 また、
 「与論島から以北をお前に治めさせるので、按司という位を与える」
 という有難い言葉を賜りました。それからあと、アンジ、ニチェーとよぶことになりました。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 ここでは、琉球王から按司という位階を授けられた格好になっているが、重要なのは、彼が与論の豪族としての按司に他ならあかったこと、また、ニチェーが根人(ニーチュ)を暗示していることだ。ニチェーという土地の者であれば、その下に名が付くはずだが、按司にして根人を暗示するのであれば、英雄化された象徴を帯びた名であると言える。

 ニチェーは王に仕えるが、ある日、暇乞いをする。王は、形見を残すことを命じ、ニチェーは妹のインジュルキから借りた弓を置くことにし、与論に帰る。
 ところが、その弓は妹が大切にしていたもので、ニチェーは桑から代わりの弓を作るが、妹の気持ちはやわらがない。

 困ったニチェーは献上した弓を取り戻すしかないと、ふたたび城へ忍び込み、弓を取り返して島へ戻ってくる。
 妹は喜んだが、弓を床の間に飾り、毎日眺めていた王は怒り、「与論のアンジ、ニチェーのしわざに違いない」と断じて、与論に兵一千をさし向ける。
 琉球の軍船は西側の海に現れる。ニチェーが茶花に着いた時には、既に兵は上陸していたが、ニチェーが斬りまくったので、恐れをなし船に逃げ込む。

 ニチェーは、茶花の浜の岩の上に立って、船に向かって叫ぶが、ちょうどそのとき、一本の矢が飛んできて、ニチェーの頭上に突き刺さる。その流れ矢は、船のご飯炊きの老人が、天に向けて放ったものだった。
 生き残った者たちは帰還し、報告するが、王はニチェーの死を信用せず、ふたたび兵を与論に向ける。茶花の沖から浜を伺うと、ニチェーは死んだ時のまま、直立で軍船を睨みつけるように見え、これで琉球の兵は上陸する気が失せてしまう。

 王は、ニチェーの死に安堵するが、一族を残しておいては、やがて何があるか分からないと、翌年、再び兵一千を与論に送りこむ。
 妹のインジュルキは奮戦するも、多勢に無勢でついに切られてしまう。

 不思議なことに、インジュルキの首が切り落とされると、首は宙に踊り上がり、東に西に飛びまわりながら、
 「ニリャバイシリ ハネーラバイシリ」(海の神さまが 早い流れに)
 と歌いました。のろいの歌でした。
 琉球兵は、このありさまを見てたいへん驚き、われさきにと船に乗り戦軍を引きあげました。
 ところが、にわかに天がかき曇り、大暴風になりました。船は一隻も残らず沈没してしまいました。
 琉球に帰りついた者は、一人もいなかったということです。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 伝説のアンジニチェーであれば、より詳細な民話もあるわけだが、ここでは、主要なプロットはあり、脚色の少ないものとして、昭和41年の前、西区の源治熊、源島保から採取したものに依る。

 アンジニチェーが活躍したのはいつの時代だろう。按司の呼称が生きていることからも、按司世のなかにあり、第二尚氏の統治者がやってくる以前だということはすぐに絞りこめる。

 その間のなかの時期は、船の航路がそれを暗示しているのではないだろうか。はじめニチェーは、島の東側を航行する船の帆を射落とし、以降、船は西側を航行するようになる。そしてニチェーに憤った王が軍船を向けるは西側を航行しており、上陸するのも、西の茶花である。ということは、ニチェーが活躍したのが、船の航路が東側から西側に変わる時代に当たることを示唆するように思える。「マーラン船」が出てくるが、これは伝承の過程で、後代の船の名称に置き換えられたものと見なせる。

 そう考えれば、アンジニチェーとは、与論の按司時代の隆盛と琉球への服属によるその終りを民話として封じ込めたものではないかと思える。そして琉球は、「与論島から以北をお前に治めさせる」と言うように、ついで与論の北を狙う者たちだった。この場合の琉球は、浦添かもしれないが、今帰仁である可能性も持つ。時は、13世紀頃。これは、ニチェ-のものとされるチンバー(積石墓)を調べればより分かるだろう。

 また、「兄のキャーラドキは百姓が好きで農業をやり、妹のインジュルキは海が好き」で、ニチェ-は武に秀でるということは、ニチェーの一族が島の統治を行うことを示唆した神話化の契機も見ることができる。妹は、呪言を放つことができるのであれば、兄が政治を、妹が宗教を司る形態も痕跡として残されている。ニチェーは王との関係よりも妹との関係を重視ているのも、ヲナリ神の島にふさわしい。

 総じて、ウプドーナタ(大道那太)に比べて、実在を確かめる根拠は少ないものの、伝説化の要素はナタに比べて格段に多い。それは、ニチェーがナタ以前の人物であるとともに、ナタ以上の存在感を持っていたことを示している。
 
 ところで、アンジニチェーを生み出したのは、ニッチェー・サークラだが、島への来島の順番から言えば、ニッチェーの次には、サトゥヌシ・サークラが来る。サトゥヌシ・サークラが、与論の琉球王朝への服属を機にやってきた集団なのかもしれない。

 ぼくは以前、こう考えている。

 サトゥヌシとニッチェーの前後関係について野口は一部、混乱した記述を見せているが、『与論島―琉球の原風景が残る島』で高橋誠一は、「分布の面で見る限り、両サアクラの構成員の移住は、先後をつけがたいほどに重複して行われた可能性が高いと言わざるを得ないのである」(p.122)としている。思うに、両サークラはその初期に按司の座を巡って激しく対立した時代を持ったのではないか。ニッチェーは与論の英雄譚、アージニッチェーの物語を持ち、サトゥヌシは「里主」の意味である。両者は対立の後に、ニッチェーが勝者となる。サトゥヌシ・サークラはスーマ・サークラという別称を持つが、それは敗れたことにより、サトゥヌシという名称が抑圧された結果、生まれたのではないだろうか。(「与論シニグ・デッサン 2」

 しかし、アンジニチェー伝承の成り立ちから見ると、ニッチェー・サークラは与論の按司時代を象徴し、サトゥヌシ・サークラは、琉球服属を象徴しており、サトゥヌシがスーマという地名名称を別称を持つのは、その後の王舅、花城勢力による抑圧を意味するものではないかという仮説が立てられる。

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2013/12/01

平安座島つながりの切ない昔話

 柳田國男は黒潮に乗って流れついた椰子に感慨を寄せ、漂着する日本人の姿のイメージを構想していった。椰子は自然が実を落とし、自然が別の島へと流す。人が流しても、黒潮に乗せれば、どこかの北の島へ辿りつくだろう。それを、潮の流れを知っている者が、特定の島の特定の誰かへ流すこともあったとしたら、どうだろう。自然を利用した郵便。確かに届くとも分からないものを海に託す思いはどんなに切ないだろう。そして、それを確かな頼りとして受け取ることのできた者の想いはどんなに嬉しいだろう。

 漁師のジレーが海で遭難し、ハンヌ島に流れ着いて生き延びた。
 そして7年ぶりに与論島に帰ってきた。
 いつもの漁に出た浜にきてみると、自分そっくりの男の子に出会う。そして家につれていってもらったら、まさしく、自分の家だった。
 妻も元気に暮していたが、ハンヌ島の食事に慣れた今としては与論に住むことが出来ぬと別れを告げた。

 私が生きてる証として、椰子の葉っぱで作った草履を海に流すから、浜辺に草履が流れ着いたら、私が生きていると思ってくれ・・・と。

 妻と子は 長らく浜辺で草履を拾って歩いていたが、いつしかなしに 草履が浜にこなくなった。
 妻と息子のデールは海辺に塚をたてて偲んだという。

 ナータイジレーが漁から陸にあがり、水浴びした、水岩壷がある。
 ここは神聖なばしょとして、旧暦の3がつ15日にゆかりの親族3~4戸で祀られているとのこと。(竹盛窪「与論島昔話し ナータイジレー」。引用者が一部、編集)

 これは実話であってもおかしくない話だ。「ハンヌ島の食事に慣れた」というのは、ハンヌにも家族を持ってしまったという意味に違いない。椰子の草履を流す男と、それを浜辺で拾う妻と子の想いは痛切に迫ってくる。椰子が織りなした物語だが、浦島太郎の物語の背景には、こうした実話がたくさんあったのに違いない。

 ナータイジレーの名、ジレーは、石垣島のウンタマギルーのギルーと同系統の名だと思わせる。また、ハンヌ島とは平安座島のことだと言う。与論にはピャンザブニ(平安座船)という言葉が残っている。また、平安座島の南、浜比嘉島はアマミキヨ伝承の島。与論にもアマミキヨ伝承は残っており、潮の流れのつながりを教えている。

 

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