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2013/11/28

沖縄の「神拝み」と与論シニグの神路

 『琉球王国がわかる!』の図解入りの説明をみて、やっとピンと来たのは、沖縄の「神拝み」と、与論シニグの神路歩きは同型だということだ。

 「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」と「東御廻り(あがりうまーい)」を例に採ったコラムはこう書かれる。

 沖縄には、親族集団の門中ごとに、祖先の故地である御嶽や城跡、墓、湧水(泉)などの聖地旧跡を巡拝する神拝みという行事がある。(p.80)

 与論シニグの場合、「祖先の故地」というより、「祖先から現在までの移住経路」が軸になっている点、趣を異にするが、始原の世界に立ち返るという儀礼精神において同型であると思える。だとするなら、首里王府から来島した花城一族が、これに関与した理由も頷ける。

 問題は、そのこと、首里王府の関与以前に、神路歩きはあったかどうかということだ。

 東御廻りの起源は、国王の巡礼である。王国の繁栄と五穀豊穣を国王が祈願する行事としてはじめられた。(中略)
 これが東御廻りの原型となって、王族から士族、民間へと広まり、島の人々は老若を問わず、この巡礼の道を辿るようになった。(p.83)

 「国王の巡礼」が原型なら、与論シニグでの神路歩きは、グスクマ(外間)・サークラから始まることになりそうだが、そうはなっていない。少なくともそれは、与論主の一族が所属するグスクマ・サークラの来島以前からあったと思える。

 それなら、第二尚氏以前、つまり王舅やその他の勢力がもたらしたものだろうか。そういう伝承は残っていない。また、王族系を起点に置くと、それ以前に居住していた集団は、祖先の移住経路を神路として復元できないと思える。

 与論シニグの神路歩きは、シニグの起源よりは新しく、与論主による関与よりは古い。問題は、それがどこに位置づけられるか、だ。
 
 与論の初期からの島人集団である、ショー、サキマ、キン、アダマのサークラが、これを始めたとは考えにくい。彼らにとって、赤崎御願への巡礼は重要に違いないが、目的地へ行くことが重要であって、現在は道になっていなくても池のなかでも通行しなくてはならない厳格さが重視されるようには思えない。

 これは、サトゥ(里)に居住を構えるまでの経緯を重視する集団が始めたのであれば、必然性は理解できる。すると、「島のはじまり」の神話を持ち、北から、ハジピキパンタを経た移住経路を持つ、プカナ・サークラが浮上してくる。彼らが始めたのではなくても、神話のなかに移住の経路を語っている点からも、彼らがそれを重視するのは理解できる。

 ぼくは、プカナ・サークラをアマミキヨ集団、あるいはそれに深く関与した存在と仮説している。それに従えば、アマミキヨが安須森、今鬼神、知念森と続く沖縄の聖地開拓の記憶を保存することとも符号する。

 プカナ・サークラが与論にやってきた時期に神路歩きはシニグに取り入れられる。それがプカナに依るものかは分からないが、これがサークラ間の関係をつなぐ共同祭儀であれば、島全体の統治の実力を持った按司勢力によるものだとは確からしく思える。

 このことは、来訪神としてのシニグという側面から、また改めて考えてみたい。


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