与論島一週間
与論に一週間もいた。「も」というのは強調したくなるポイントで、八日を超えて島に滞在したのは学生の頃以来だから、25年ぶり以上になる。格別だった。
その割に、盛窪さんの案内の浜巡りに時間を費やしたので、お会いした方は多くなく、それぞれに話せた時間も長くなかった。そこはいささか心残りで、申し訳なさもあるのだが、他日を期したい。これからもっと島に帰る頻度を増やし島に関わることも増やしたいと思う。どこまで果たせるか、分からないが、そのなかで不義理を解消したいというのが、今の心づもりです。
二年続いた台風のダメージは大きく、島は色をなくしていた。樹々の緑と花の色が消え、赤茶けた裸の大地は、痛々しかった。台風は人工物を破壊するが、自然も破壊していくのだ。けれども、だ。島の人は途方にも暮れているだろうし、疲労困憊でもあるだろう。それなのに、その表情からはその気配を感じることはなかった。あくまで明るい、穏やかな表情を返してくれるだけだった。ほんとはこれはとても驚くべきことなのだと思う。
どうにかなることなら怒りもしよう。悲嘆にも暮れよう。けれど、どうにもならないことはある。それもしばしばある。それを受けることが避けられないのであれば、黙って受け取り、あとは淡々と取り戻すことを続けるしかない。
亜熱帯の自然とイノーは、この小さな島に人々が住むゆとりを与えてきたが、自然の猛威に対して被害が大きくなりやすいある虚弱性もあわせ持ってきた。その両端を与件として受け止めてきた島人の、これは島民性なのではないだろうか。驚きとともに敬意を覚える。
ただ、「どうにもならない」は習い性にもなって、すべからくどうにもならないと思いこみやすい。どうにかなることはどうにかしたほうがいいに決まっているのだから、そこが島民性の美質とは別に課題になるのだと思う。もちろん、自分のこととして、そう思う。
帰省のきっかけになった「ゆいまーる琉球の自治」で話した「ゆんぬの冒険-五つの謎に迫る-」は、研究者ではないけれど、今まで全く語られたことのないことを口にしたつもりだ。それは、与論の歴史を緻密にするというより、その手前で、与論の歴史をつくることに眼目があった。少なくとも意気込みとしてはそうだった。
それをきちんと届けることができたか、心もとないが、これからも考察を続け、表現の形を工夫しながら、歴史づくりをやっていきたいと思う。砂漠で待つ雨のように、ずっとずっと渇望してきたことだから。
浜名調べも段落をつけることができた。場所も名前も不確かになっている時は、そこで海生活をしてきた島人に聞くしかない。聞くべき人への出会い方から話しの引き出し方まで、盛窪さんのインタビュー技術は一級品で、敬服する思いだった。
ありがとう、みなさん。とーとぅがなし、与論島。
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