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2013/11/02

王舅とは誰か

 1405年から1416年に、与論城を築いたとされる伝承の王舅。築断念は北山の滅亡のためとされるが、断念の時期は1422年とも言われ、定まっていない。また、王舅は怕尼芝の三男とも、珉の子息とも言われ、これも定まっていない。王舅とは誰なのか。

 しかし、そもそも考えると、「王舅」とは、続柄名か職位名であり、名乗りの固有性に乏しい。続柄であれば、怕尼芝あるいは珉の妻の父であり、職位であれば、怕尼芝か珉が、明に使者として送った人物ということになる。その由緒を背負って与論に来たということだ。

 試みに、『明実録』から北山の朝貢記録を取り出すと、下記のようになる。


回、年月日、王名、使者、関係、貢ぎ物、賜り物

1.1383年、12月15日、怕尼芝、模結習、臣、方物、衣一襲
2.1384年、01月01日、怕尼芝、__、方物、文綺・衣服
3.1385年、01月05日、怕尼芝、__、__、駝紐鍍金銀印
4.1388年、01月13日、怕尼芝、__、臣、方物、__
5.1388年、09月16日、怕尼芝、甚模致、馬、鈔
6.1395年、01月01日、珉、__、方物・馬匹、__
7.1396年、01月10日、攀安知、善佳古耶、臣、馬・方物、鈔
8.1396年、11月24日、攀安知、善佳古耶、臣、馬・硫黄、お衣巾・靴韈
9.1397年、02月03日、攀安知、恰宜斯耶、__、馬・硫黄、__
10.1397年、12月15日、攀安知、恰宜斯耶、__、馬・硫黄、__
11.1398年、01月08日、攀安知、__、__、馬、__
12.1403年、03月09日、攀安知、善佳古耶、臣、方物、鈔・襲衣・文綺
13.1404年、03月18日、攀安知、亜都結制、__、方物、銭・鈔・文綺・綵
14.1405年、04月01日、攀安知、赤佳結制、__、馬・方物、鈔錠・襲衣・綵幣表裏
15.1415年、06月06日、攀安知、__、__、__、鈔幣

( 『「明実録」の琉球史料』2001年より)


 これを見ると、怕尼芝の使者、王舅として、「模結習」と「甚模致」が挙げられ、「模結習」は臣下となっている。しかし、1405年の与論への来島という時期を踏まえると、攀安知の使者である「善佳古耶」、「恰宜斯耶」なども可能性の範囲に入る。

 怕尼芝の三男にして、明への使者の役を任じた者としては、記録に載っていないか、関係の記されていない「甚模致」が可能性を持つが、どちらにしても確かなことは何も言えない。

 この虚ろな名の世の主は、与論城の実在と好対照をなして、与論の歴史のなかに名をとどめている。

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