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2013/11/14

「磯武里墓の由来」は要修正

 花城眞三郎の墓として知られる磯武里(いしゅぶり)墓。その碑にある「磯武里墓の由来」は、史実に不正確である。

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 まず、花城眞三郎の由来年代として二つ、挙げられている。

明応1年 1492年 誕生
永正9年 1512年 渡島(21歳)

 この二つは、「基家系図」の誤読からなっている。

一 ○又吉大主  従御思第部位、始而御能役被相勤、依勤忠心官位被仰附ナリ、皇代其殿ヨリ十四代之皇金丸皇三代之孫、沖屋賀武伊皇四拾八歳之御代内ニテ候、寿九拾三ニテ逝去、与論之主元祖是之、神恵ニ通スル人ト云ヘリ、御能三節ト云フ此代ヨリ始レリ、


花城與論主○
幼名花城真三郎首里ニテ生立二十一歳ニテ當嶋エ御渡島首里音故沖納言ト称ス(以下略)。(小園公雄「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」『鹿大史学』1988年36号)

 先田光演の『与論島の古文書を読む』の助けを借りながらこれを読むと、「沖屋賀武伊(おぎやかもい)」、こと尚真が48歳の時に、又吉按司に官位を授けている。それは、分かっている尚真の生誕年から計算すると、1512年のことになる。そしてその子、花城真三郎が二十一歳の時に、与論に渡島している。

 どう誤読しているのか。まず、又吉按司と花城真三郎を同一視していること、次に花城真三郎を尚真の息子と見なしたこと、さらに1512年を、父、又吉按司が官位を授けられた時ではなく、与論への渡島と見なしたこと、である。そのため、渡島の際の年齢である「二十一」から計算して、生誕を1492年としている。

 だが、「基家系図」に依れば、確かに言えることは、又吉按司が尚真から官位を授けられたこと、その年が1512年であること、花城真三郎は尚真ではなく、又吉按司の子であること、そして渡島は花城真三郎、二十一歳の時であること、である。父、又吉按司の官位授受が1512年だから、渡島は1512年以降であるとしか言えない。

 だいたい、「磯武里墓の由来」では、花城真三郎を尚真王の次男としているが、長男、尚維衡の生誕年が1494年で、由来にある1492年より遅いのだから、この点でも矛盾している。

 誤読の元は何か。「龍野家系図」である。小園公雄の「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」(1988年)によれば、「基家系図」は1830年を過ぎたころに完成したのではないかと考えられる。系図には作成の経緯が記されていて、困難を乗り越えたものであることが分かる。

 小園の整理を引用してみる。

1.文政三年以前にも正確に近い系図があった。
2.喜周与論大主より大熊の澤村大衆へ、更に孫へと傳わった。
3.沖永良部代官所が系図没収して返納しなかった。
4.文政三年澤村盛用が沖永良島に渡り書写した。
5.孫の代に家事にあい系図を、更に織地喜周大主所有の系図も焼失した。
6.大熊にもう一冊の系図あり、古老に聞書し作成しなおした。(同前掲)

 もともとあった系図が没収にあい、それを沖永良部島に行ってまでして書写するもの、焼失の憂き目にあい、それにめげずに、残された系図と聞き書きによって再生されたものが、「基家系図」である。この経緯が記されていること、またそれが筆による書写しか手段のなかった19世紀の前半におけるものだったこと、これだけを採っても、この系図に史料としての信憑を置くことはできる。

 対して、「龍野家系図」の成立は、昭和11年、1936年である。「龍野家系図」では、「又吉按司」の記述はなく、「花城真三郎」から始まっている。

花城與論主、幼名ハ眞三郎金、神號ハ又吉按司、父ハ尚眞王明應元年壬子生誕、永正九年壬申與論ヘ渡島、大永五年乙酉與論主トナリ、天正十二年甲申薨去、壽九十三、米良陵ニ葬ル又吉按司、正御思第部位始而御能役官位被仰附・・・・・・皇代美殿ノ十九代ノ王、金丸王三代ノ孫ニテ、父於義也嘉茂慧王、四拾八歳之御代内ニテ候。與論與ノ主元祖是ナリ、神惠ニ通スル人ト云ヘリ、御能眞三郎金ト云・・・・・・ヨリ始レリ

 この後は、「基家系図」の花城真三郎の少年譚、渡島譚に接続されている。「龍野家系図」の記述では、「幼名ハ眞三郎金、神號ハ又吉按司」として、花城真三郎が又吉按司と等号で結ばれてしまっている。そのため又吉按司の亨年である93歳が、花城真三郎の亨年として理解されている。あとの誤読は、「磯武里墓の由来」と同じものだ。「磯武里墓の由来」の誤りは、この「龍野家系図」であると思われ、それは1963年の増尾国恵『与論郷土史』にも引き継がれている。

 しかし、これは単なる誤読ではないと思える。「基家系図」では花城真三郎の渡島譚は次のように書かれている。

則與名原浦江奥□船居合其夜中ニ漕出渡嶋伯母石嶺大阿武所ニ居ラレ候ヤウニト御親父又吉大主ヨリ仰附ラレル。(小園公雄「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」『鹿大史学』1988年36号)

 与那原の浦に居合わせた船を、その夜を漕ぎだした。父親である又吉大主に、伯母の石嶺大阿武の所にいるように、と言われた。そういう意味になる。

 「龍野家系図」は、花城真三郎の少年譚、渡島譚を「基家系図」に引くが、他が同じところ、この個所はどうなっているか。

則與名原浦ニ奥俟□船居合其夜中ニ漕出渡嶋伯母石嶺大阿武所ニ居ラレ候様被仰附(「龍野家系図」)

 この個所で、「基家系図」にはある「御親父又吉大主ヨリ」がすっぽり抜けてしまっている。つまり、書き手は、又吉大主が花城真三郎の父親であることを示す記述を抜いて引用している。ここまでくると、これは誤読ではなく、作為であると言わなければならない。

 「基家系図」の1830年余と「龍野家系図」の1936年の間に横たわる約百年。この間に、書写は筆に依らずともペンや鉛筆が可能になり、文章の推敲も容易になっている。現に「龍野家系図」は、「中山世鑑」からの引用も見られ、編集された文章であることを明かしている。この一世紀は、「龍野家系図」の書き手に、作為と脚色を許すものになってしまっている。「龍野家系図」の歴史史料としての信憑性は低いと見なさざるを得ない。

 「龍野家系図」は、この後、「與論城ノ由来」、「城籠踊ノ由来」、「王子様半田米良御願ノ由来」と続くが、成果の総取りを目論んだものだとも見えてくる。これらについては改めて考えてみたいが、少なくとも、この記述を元に、与論城、城籠踊の由来を語るのは信憑性について疑問符を付さなければならない。もともと、「龍野家系図」は、「一族子孫に分ち以て其の功績並に遺訓を代々永遠に傳へ保存せしめ得る」(p.2)ことを目的に書かれたものだ。もともと身内に向けての声であることに、読み手は意識的である必要がある。

 「磯武里墓の由来」の前半について修正すべき個所を整理しておく。

此の墓は与論島初代島主花城真三郎始祖を葬った墓である。始祖は首里城で尚真王の次男として明応元年一四九二年に生まれ幼名を真三郎と称す。永正九年西暦一五一二年二十一才で与論島に渡り統治する 

1.与論島の初代島主は花城真三郎ではなく、その父、又吉按司である。
2.1512年は、又吉按司が尚真から官位を授かった年で、花城真三郎が渡島した年ではないから、そこから21歳の年齢を引いて算出した1492年は根拠がない。
3.実際、尚真の長男、尚維衡は1494年生まれなのだから、次男の生年が1492年であるのは矛盾する

 繰り返すが、「基家系図」を根拠に、確かなこととして言えるのは、与論の初代島主は、又吉按司であり、官位を授かったのは1512年であること、又吉按司の子、花城真三郎が渡島したのは二十一歳の時であること、である。

 ところで、花城真三郎が尚真の子でないことは、野口才蔵も『南島与論島の文化』のなかで1976年に指摘し、嘆いている。それから半世紀が経過している。これは、与論島にとって恥ずかしいことではないのか。

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