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2013/11/17

「花城真三郎は、石嶺の屋敷におられたであろう」

 ほんとは花城逸話で関心をそそられるのは、与論城のことではなく、渡島のいきさつだ。「基家家系図」の渡島譚の末尾近くは次のように書かれている。

則與名原浦江奥□船居合其夜中ニ漕出渡嶋伯母石嶺大阿武所ニ居ラレ候ヤウニト御親父又吉大主ヨリ仰附ラレル。(小園公雄「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」『鹿大史学』1988年36号)

 与那覇から舟に乗る花城真三郎に、父、又吉大主は、「石嶺大阿武」の所にいるようにと助言しているのだ。この個所を、先田光演は『与論島の古文書を読む』で、「父又吉大主は叔母石嶺大阿武(おおあむ)(高級神女)を付き添わして、真三郎を与論島に逃したのであった。(p.301)」としているが、読み違いだと思う。

 なぜ、又吉大主は、与論の「石嶺大阿武」を知っていたのだろうか。野口才蔵は『南島与論島の文化』で、面白い逸話を載せている。

 つぎに王舅から四・五代後に同じく血縁に当たる又吉大主の子、花城真三郎が渡島して、第一代与論主となる。渡島してこられた花城真三郎は、一時、石仁の現在の石嶺恵円氏の屋敷におられたであろう。(p.89)

 「花城真三郎は尚真王の次男」の次は、花城真三郎は王舅の系統か。おいおい野口先生、あなたまで英雄引き寄せをするのか、と驚きかけるが、そういうわけではなかった。野口は、麓桓茂から聞いたこととして次のように書いている。

 石仁の祝女(ノロ)(王舅の系統)が妹をつきそいにして、首里に上国したら、妹は美人であったらしく、その妹は、又吉大主の目にとまり、その妾になって、生れたのが花城真三郎である、とのことである。だから、その祝女は、真三郎からは伯母にあたる。

 こうしたいきさつは弱小な共同体が英雄を引き寄せる構造として、あちこちにあるので、眉に唾せずには見ていられないものだが、「伯母石嶺大阿武」の所に居なさいという又吉大主の言づてと照合すると、信憑性が出てくる。

 また、石仁の祝女である石嶺が、「大阿武」(うふあむ)であることと、彼女が北山王の系統に属することも無理がない。石嶺が「大阿武」(うふあむ)すると、与論の祝女では最高位にあっただろうからである。すると、花城真三郎が王舅の血縁に当たるとするのも、筋は通っていることになる。

 ぼくたちはここで、おもろを思い出す。

はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て

  玉金
  按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 根国(ねくに)こいしのが

(932、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

 「与論こいしの」とは、石嶺の祝女のことかもしれない。

 野口は続けている。

 石嶺宅で次の話を聴取した。昔マチヌトートゥ(火災からのがれる祈願)があった時には、故竹内福富氏は、祈願は、常に石仁の石嶺恵円家から始めなければ祭りはとおらない。石嶺家は神高い、と言われたとのこと。また不浄な女が表庭など歩けば祟りがあるとのことなどを話された。(竹内福富氏は易者)
 真三郎は、石仁に居られてから、後に現在の金井清蔵氏が住む、「花城」に居を移したであろうと考えられる。と、林先生は説かれる。花城真三郎が来島されたのは、紀元一五一二年である。「花城」の地名であるが、真三郎が来島しない前には、おそらく花城という地名は、なかっただろう。(p.90)

 これまで考えてきたことから言えば、「花城真三郎が来島されたのは、紀元一五一二年」ではなく、これは又吉大主が尚真から官位を授かった年だった。また、「花城」地名は真三郎の前になく、真三郎の居住とともに出来たもので、それは那覇の花城にちなむと考えられる。

 野口才蔵が足で稼いだ伝承の聴き取りは、与論史の点と点のあいだに線を浮かびあがらせることがあって、ぼくたちはずいぶんと助けられるのだ。こういう聴き取りがたくさんほしい。

 

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