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2013/11/20

1805年の抵抗

 時は1805年5月。与論島の島役人に、代官所から砂糖黍作の誘いがかかる。これを受けて、島役人は、願い下げとして断りの口上書を認める。以下に挙げるのは、その口上書の私訳だ。


 恐れながら口上書をもって訴え奉り候

 沖永良部島では、専ら稲作をしてきたけれども、近年百姓みな困窮してきたので、自由(勝手次第)に黍作を行えば、潤うのではないかと聞こし召され、黍作の支度をする者は、田地のなかに自由(勝手)に作ってもよく、出来た砂糖は、徳之島の定式買い入れの砂糖代の米に一合を加えて買い入れ、年貢米差し引いて上納してよい旨、仰せ渡されていることは承知している。

 役々と百姓たちで吟味した次第を左に申し上げ候。この節に仰せ渡された通り、島中の田地で黍作をすることはできても、当島は竹木の無い場所で、沖永良部島や諸島に通う御用船にしても調達しかねることに候。その上、仮屋、お蔵、役所から島中の役々まで、居宅や農具などに使う木材や明り用の松までみな山原の方へ買い求めて、公私の用を達しているので、この節に黍作を仰せつかり、申請して植え付けをしても、砂糖を仕上げる際の薪がほとんどないので、当島では、枯れ草や牛の糞などを朝夕の焚き火用にしてようやく仕事をしているので、砂糖上納が自由(勝手)にできるというほどには出来ません。却って、厄害の筋になりかねないと思われる。

 用物を他島へ買い求めなければならないので容易には調達することはできず、砂糖を仕上げる際の道具も買い求めなくてはならないので、砂糖を仕上げる時分に間に合わせるのも覚束ないので、相調えるよう押し通すまじきと考えます。

一 製糖の期間は十二月から二月までとの由。しからば当島の田地のは、全て天水の場所で稲刈り納めて済ませたら、雨で潤い次第、早速油断なく踏みつけを行い、そして九月中旬に苗を蒔き、正月、二月に植え付けを行います。しかし大方、正月、二月くらいまでは、雨で潤えば踏みつけを行っている最中でもあれば、製糖時期と重なってしまい片方に差し支えてしまう。もっとも熟田の場所は、四反八畦であり、総じて天水のみなので、雨で潤い次第、牛馬で油断なく踏みつけをしないと、水持ちが悪くなってしまう。しからば、製糖に取りかかって潤うと言われても、田地のし付けがあい調わなくなると、役々と島中の者で吟味しました。これにより、有り難い仰せに恐れ多いことではありますが、何卒、黍作の儀は、御免くださいますようお願い奉り候。左様のことであるから、田地のことに出精したいと思う。これらの趣旨を仰せ上げるよう頼み上げ奉る。以上。

  丑五月
          与論島掟   右同    右同
           喜佐行   當祐基   佐郷幸
          右同      右同    右同
           直宜見   三千澄   常川
          右同目差定寄 右同   右同
           喜久山   三穂巴   直冨
          右同横目  右同与人寄 右同与人
           前里    喜久里    喜志村
与論島御詰 御附役
 山本源七郎様
(「與論在鹿児島役人公文綴」『与論島の古文書を読む』を私訳)

 なんともくどくどした断り方だが、この口上書の成果は確かにあり、この時、砂糖黍作は施行されていない。惣買入が与論島で開始されたのは、1857年。あとわずかで明治維新の時だった。

 また、この口上書からは、島役人と島人の間に大きな断絶も無かったことが伺い知れる。

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