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2013/10/28

与論島は鳥島と交換されたか?

 伊波普猷が薩摩への割譲の範囲について、はじめ与論島は入っていなかったと書いた文章を読んで以来、折に触れては思いだし気になってきた。2009年の400年イベントでは、歴史家に尋ねることもしてみたが、不知という回答しか得られなかった。

 その文章は昭和五年に記されて、こうある。

 翻つて奄美大島諸島はどうかと見ると、慶長役後間も無く、母国から引離された、大島、徳之島、沖永良部、喜界の四島(最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再び琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた)は薩摩の直轄にされて、爾来三百年間極度に搾取されるやうになつた(後略)。(伊波普猷「南島人の精神分析」1930年)

 伊波の書いたものを辿ってみると、これに触れたものは、その四年前にもあるのに気づく。

(前略)そこで如才のない島津氏は、慶長十五年、十四人の御傘入奉行と百六十人の官吏を琉球に派遣して、琉球諸島の検知をさせ、同十七年に、その報告書を提出させた。その結果、大島・徳之島・鬼界島・沖永良部島の四島をその直轄とし、其の余を琉球王国の所領とした。(伊波普猷「孤島苦の琉球史」1926年)

 伊波は、「南島人の精神分析」を序文にした「南島史考」のなかで、参考書を挙げている。「孤島苦の琉球史」と変わらない認識を、その四年後の「南島人の精神分析」に書いたのだから、これらの参考書は彼の認識のなかで生きていたことになる。そこに挙げられているなかで該当しそうな「南島沿革史論」、「喜安日記」、「島津国史」、「南島紀事外篇」、「琉球見聞録」にも当たってみたが、上記の根拠になるような記述を見つけることはできなかった。後は、伊波が古仁屋で見つけたとしている「中山並大島諸島責取日記」が未見で残っている。

 ところで、慶長十六年に発給された知行目録では、「悪鬼納、伊江、久米島、伊勢那島、計羅摩、与部屋、宮古島、登那幾、八重山島」が、王国の範囲とされているから、伊波普猷は「孤島苦の琉球史」では誤認していることになる。

 しかし、誤認として済ませたくない引っかかりは残る。1609年6月に鹿児島に入り、1611年9月に山川港を出るまでの王、尚寧は、割譲を巡って薩摩を交渉をしただろう。

 薩摩藩は鹿児島で尚寧王らに、この年の中国明への進貢船を行かせるようにすることを促し、尚寧王は、同道の王弟尚宏、池城親方(毛鳳儀)を琉球へ帰国させた。その際さまざまなやり取りがあったと考えられる。(弓削政己「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』

 この交渉の過程で、「鳥島」と「与論島」の取り引きがあったとしても不思議ではないし、それにこの話題にはリアリティがある。
 
 弓削は敗北直後で鹿児島に行く前の、尚寧の領土認識について次のように指摘している。

 (前略)ここで、指摘したいのは、尚寧王の認識として、島津氏への割譲領土を「北隅の葉壁一島」と伊平屋島を琉球領土の「北隅」としていて、奄美諸島について触れていないのとである。これは、尚寧王の琉球国領土認識が、伊平屋島という北隅までという事を示していると見てよいだろう。(弓削政己「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」)

 この通りなのかもしれないが、ここでもあわいに位置する者はわずかに動揺を覚える。琉球を「北隅」が伊平屋島だとする認識は、ほぼ同緯度にある与論島が圏外にあることを直接には意味しないからである。

 このテーマも、我ながらなぜ執着するのか、うまく説明できないのだが、伊波普猷が何を根拠に書いたのか、探求していきたいと思う。沖縄を訪ねる機会が訪れれば、その際に史料を漁りたい。

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コメント

喜山さんへ
 
 尚寧王の "領土認識" って、なんか薩摩側のヤラセの感がありますね。
 敗戦国の弱みが見え隠れするようです。

 それと「伊平屋島・葉壁」にも矛盾を感じます。
 以前にもコメントしたかもしれませんが。。。
 現在でこそ「伊平屋島」は、伊平屋村の主島を指しますが、明治期あたりまでは伊是名島等を含んだ総称で、王朝時代からの地域概念ですね。
 しかも「葉壁(山)」もまた、中国語で伊是名&伊平屋の総称ですから、"「北隅の葉壁一島」と伊平屋島" というのはヘンな表現ですね。
 伊平屋島は葉壁の一部であるはずなのに、上の文ではまるで別の島のようになっています。

 そこで、根拠のない仮説?を強引に立ててみました。
 中国語の「葉壁」の意味は正確には知りませんが、「包み込む・守る」など琉球本島をガードする意味だとすれば、その "一島" に与論島が含まれていたのではないかと。。。
 そう考えると "「北隅の葉壁一島」と伊平屋島" は ""「北隅の一島与論島」と伊平屋&伊是名 " との解釈が可能になりますね。
 まあ、文献的な証拠はだぶんないのでしょうけど。

投稿: 琉球松 | 2013/10/28 11:04

訂正

 >中国語の「葉壁」は、>中国名「葉壁」に訂正します。

投稿: 琉球松 | 2013/10/28 11:16

琉球松さん

コメントありがとうございます。おっしゃるような、ニュアンスがほしいなと思っていました。

「伊是名&伊平屋の総称」であるなら、この表現には含みがありえますよね。

投稿: 喜山 | 2013/10/29 09:33

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投稿: モンクレール ダウン 通販 | 2013/11/01 17:14

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