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2013/10/20

玉の御袖加那志の与論

 驚いてばかりだが、最も驚くのは、与論と武力との関わりを否応なく示している次のおもろだ。しかもこの歌謡は、おもろそうしの中で、与論が初めて謡われたものだ。

うらおそいおやのろが節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらゑ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)
又 かゑふたに 降(お)ろちへ
  厳子達(いつこた)に 取(と)らちへ

(237、第五 首里おもろの御そうし、天啓三年)

[訳注]『おもろさうし(上)』 玉のように美しく立派な御袖加那志が、神や人々の心を揃えて喜び祝福し給いて、奥武の嶽大主、なです杜大主をかゑふたに降ろして、部落の人たちに霊力を与えて安らげることだ。

 「げらゑ」という言葉はおもろによく出てくるが、「造営する」という訳を当てられている。聖域の構築に関わることも多く、国家の根本になる聖域構築が含意されると思える。吉成は「始原世界の構築」(p.278、『琉球王国誕生』2006年)としている。「奥武」は琉球弧の聖域として普通名詞化されており、「なです」は吉成によれば、「桑木」のことで、それから作る鼓は、「支配権の象徴」(p.279)だ。

 外間守善は、「玉の御袖加那志」が、「奥武の嶽大主」、「なです杜大主」を与論に降ろしたように書いているが、「玉の御袖加那志」は、「奥武の嶽大主」、「なです杜大主」と対になる異称として謡われているから、「玉の御袖加那志」としての「奥武の嶽大主」、「なです杜大主」という意味になると思える。

 与論島に降りた後、どうするのか。「厳子達」、兵士たちに取らせる、という。吉成は、「神が兵士たちに取らせるものとしては武力しか考えられない」(p.278、同前掲)としている。

 このおもろは一点だけではなく、巻五のはるか後、おもろそうしの最終、二十二巻でも反復される。

うらおそい節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらへ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)

(1515、第二十二 みおやだいりおもろ御さうし、天啓三年)

 そしてそれだけではない。「玉の御袖加那志」は、上記の235の二点前の、237で初めて登場し、しかも「首里杜」を構築したと謡われる。

うらおそいのおやのろが節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  首里杜(しよりもり) げらへて
  上下(かみしも)の戦(いくさ)せぢ みおやせ
又 げらへ御袖加那志(みそでがなし)
  真玉杜(まだもり) げらへて
又 首里杜(しよりもり) ちよわる
  若(わか)い人孵(きよす)で加那志(がなし)

(235、第五 首里おもろの御そうし、天啓三年)

 驚愕はここに極まる。首里城の宗教的な象徴である「首里杜」、「真玉杜」を構築したのが、与論でも謡われる「玉の御袖加那志」だと言うのだ。ここで、与論が「根の島」、「根国」と呼ばれることを踏まえれば、「首里杜」、「真玉杜」と与論はつながり、しかも、その始原として位置づけられていることになる。

 そんなことはあり得るだろうか。しかし、驚いてばかりでも芸がなさすぎる。

 「玉の御袖加那志」の与論は、少なくとも第二尚氏以前の時代だと考えられるから、伝承あるいは実在に該当するものを求めようとすると、15世紀の伝承の王舅が、まず思い浮かぶ。ただ、滅ぼされる側の北山系統の王舅が、「玉の御袖加那志」との関わりを持たされるとは考えにくい。

 しかし、吉成直樹によれば、「天より下の王にせてだ」と称されるのは尚真王と今帰仁按司があり、しかもこの二者だけで、吉成はここから、尚真と今帰仁のつながりを解き明かそうとしている(p.241、『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)。

 王舅以前に遡って他に考えられるのは、シニグのサトゥヌシ集団(サークラ)とプサトゥ集団(サークラ)だ。サトゥヌシは「里主」の字を当てられる。後に階級の位階の名称になるが、もともと領主的な意味を持つだろう。彼らは沖縄から来たという伝承を持っている。

 また、プサトゥは、前音の「ウ」が脱落したものだと捉えれば、ウプサトゥ、つまり「大里」が復元できる。大里といえば、南山である。そして大里は「根国」と言われた地名に関わっている。

あおりやへが節
一 真壁(まかび) おわる
  根国(ねくに) おわる 世(よ)の主(ぬし)
  百島(もゝしま) 島(しま) 討(う)ちちへ 凪(とゞ)やけれ
又 真壁(まかび)人 選(ゑら)びよわちへ
又 掟(おきて) 選(ゑら)びよわちへ
又 那覇港(なはみなと)
  橋(はし) 渡(わた)ちへ 道(みちへ) 渡(わた)ちへ
又 那覇(なは) 渡(わた)て/いなそ嶺(みね) 淀(よど)しよわ

(1354、第二十 こめすおもろの御さうし、天啓三年)

 根国である糸満真壁の領主が留まるとされる「いなそ嶺」は、島尻郡大里村稲嶺のことだとされている。

 プサトゥ集団(サークラ)は、大里であり、彼らは沖縄島の大里からやってきた、あるいは大里に関わりのある集団ではないだろうか。そして、与論と大里は「根国」としてつながっている。

 そして、吉成直樹によれば、大里も首里城とつながる。

くろさよこたりが節
一 世寄(ゝ)せ三(み)つ廻(まわ)りしよ
  玉(たま)の王(わう)やれな
  果報(かほう)は 首里(しより)親国(おやぐに)
又 玉(たま)の三(み)つ廻(まわ)りしよ

(382、第七 はひのおもろ御さうし、天啓三年)

20-1359(29)
あおりやへが節
一 聞(きこ)ゑ大里(ざと)に
  玉(たま)の三廻(みつまわ)り
  百連(もゝつ)れ 貫(ぬ)ちへ
  持(も)ちちへ みおやせ
又 鳴響(とよ)む大里(ざと)に
又 腰当(こしや)てなつこもい
(1359、第二十 こめすおもろの御さうし、天啓三年)

 「玉の三廻り」で、首里と大里はつながっている。「玉の三廻り」とは吉成によれば、「三つ巴紋」であり、尚氏の家紋であるとする。

 (前略)大里に「玉の三廻り」、すなわち三つ巴紋が「数多く(百連れ)」存在すると謡われていることは興味深い。それは大里按司が三つ巴紋を紋章(「玉の王」)とした首里の国王と近い関係にあったことを示唆する。(p.127、『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)

 大里と首里がつながる。大里は、プサトゥ集団(サークラ)とその名においてつながり、「根国」として与論と大里はつながる。その与論は、「玉の御袖加那志」によって首里とつながる。いささか強引だけれど、プサトゥ集団(サークラ)は、おもろに謡われる何らかの役割を果たしただろうか。

 プサトゥ集団(サークラ)が与論に到来したのは、王舅以前であり、プカナ集団(サークラ)、ニッチェー集団(サークラ)より後だとすれば、13~14世紀が想定される。そして、倭寇的な地名である朝戸(アサト、アシト)が居住地区である。

 与論で倭寇的で、最も武力に関わりそうな集団は、ニッチェー集団(サークラ)だが、彼らがアージ・ニッチェーの伝承をあれだけ色濃く持つならば、「玉の御袖加那志」にまつわる伝承を持っていてもよさそうである。かつ、アージ・ニッチェーは、琉球王国と親和しつつ戦闘し、琉球王国に抵抗した存在としても描かれ、在地的な按司としての性格が色濃い。であればこそ、島内でも人気が高く、長く語り継がれてきたのだと思える。そこで、ニッチェー集団(サークラ)は、おもろの流れの対象には載らないのではないかと考えておく。


 「おもろそうし」における与論島の存在感に驚いてばかりきたが、これが歌謡の真実において架空ではないと思える材料はもうひとつある。『海東諸国記』の地図だ。

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 『海東諸国記』は、李氏朝鮮の手になるもので、1471年に完成している。琉球国を描いた地図としては最古のものだとされている。そして、最古なのは、琉球国の地図としてばかりではない。ぼくたちの知る限りでは、与論が、「輿論島」と漢字で記された嚆矢であり、漢字としての与論の最古でもあるのだ。

 与論人(ゆんぬんちゅ)としてこの地図を眺めたとき、強い違和感を喚起する。それは与論島の存在感だ。だいたい、針の先で突いたような跡としてでも描かれていれば御の字だという感覚に慣れ過ぎているのかもしれないが、それにしても与論島が大きい。沖永良部島と徳之島と同等であり、奄美大島より少し小さい程度なのだ。

 それに、「輿論島 度九を去ること五十五里、琉球を去ること十五里なり」と注釈まで付されている。この地図自体は、日本人あるいは琉球人によって作図されただろうと言われている。しかし、どちらにしても、この大きさは「琉球國」のなかに占める位置、重要度を示しているに違いない。第ニ尚氏成立の翌年に完成したとされる「琉球國」の地図において、与論島はその島の小ささに比べて大きな存在感を与えられている。

 与論は、ぼくたちが思っているよりはるかに重要な島として存在していたことが、かつてあった。「おもろそうし」や『海東諸国記』の地図が、そう示唆しているのは確かだと思える。

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コメント

喜山さん、お久しぶりです。

 「かい・かゑ」ですが、『沖縄古語大辞典/角川書店 1995 』には以下のように出ています。

 *** かい・・接頭語。「搔き」の音便化した形。動詞に冠して、思い切って〜する。ちょっと〜する。ほどの意をさす。読みは連母音アイが融合してケーとなる。「かいいっち」(かい入って)はケーイッチ、「かい食はち」(かい食わして)は、ケークワチなど。
 *** かゑ・・囃子詞。< あけしのの かみのしや やれ かゑ ややの やほう あおらちへ >・おもろ3−838

 「かい」と「かゑ」はほとんど同じ美称と考えていいと思いますが、問題は原義で、これは「サー!」とか「元気に」とか「サッサと」、「すでに〜」って感じですし、ヤンバルでの「ケーバ!」は「サー食え!」ですから、まあ雰囲気は「ワイドー!」かもしれません?

 そうすると「かえふた・かゑふた」は、"活発(であってほしい)シマ" のように解釈できると思いますがどうでしょうか。
 ヤンバルの神歌では、与論は「美しい兄達の島」と讃えられていますから、琉球正規軍が与論に侵攻したというよりも、北からの侵略に対しての防衛強化かもしれません(最終的には首里防衛でしょうけど)。

投稿: 琉球松 | 2013/10/20 10:53

琉球松さん

コメントありがとうございます。
景気づけ、ですね。励起状態にある、というか。活発シマというのは、台風打撃の深刻な今の与論にも励みになります。

ヤンバルの神歌も読んでみたいです。

投稿: 喜山 | 2013/10/20 11:12

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