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2013/10/25

異称としての「かゑふた」、「せりよさ」

 なぜこうも執着するのか、自分でもうまく説明できないのだけれど、「かゑふた」地名の謎に少しでも迫りたくて、「おもろそうし」の地名で異称、別称の類を抽出してみた。解釈は外間守善に依る。(『おもろさうし(上)』『おもろさうし〈下〉』

喜界の浮島・喜界の焼島(6) 喜界島
果たら島(33) 八重山島
群れ島(41) 慶良間群島
おおみや(53) 奄美大島
吉の浦(61) 中城村屋宜の浦

山城(96) 京都
真境名(まさけな)(96) 未詳。人名または地名か。
金の島(96) 久米島の美称
綾子浜・雪の嶽(100) 島尻郡与那原町与那原の浜
京(けふ)(103) 首里

せりよさ(165) 沖永良部島の古名
金福(166) 首里城の美称
かき(179) 粟国島の別名
小禄横嶽(194) 嶽名。場所は未詳
君寄せ・綺羅寄せ(225) 建物の美称

我謝の浦・うつの浦(227) 中頭郡西原町我謝の浦とその異称
かゑふた(237) 与論島の古名
金の島(279) 首里の美称
御島(345) 首里
金島(531) 美しい島

赤丸(554) 国頭村桃原
成さが島(559) 久米島の美称
浮島(753) 那覇のこと
連れ島(769) 連なっている島。慶良間列島
せぢ新神泊(853) せぢ新神の守護し給う泊。久高島の港

雲子寄せ泊(853) 宝物を寄せる泊の意で、久高島の港の美称
久米あら(900) 岳名
大にし(904) 地名。中頭郡読谷村の古名
崎枝(904) 読谷村残波岬の別名。「大にし」の異称
大みつ(957) 「大みつ」は与論島古里の別名

渡嘉敷(1083) 地名。浦添市の古名
天底(1095) 地名。比定地未詳
桃原(1097) 地名。宜野湾市嘉数の別名
崎枝(1231) 地名。神のまします岬の一般名として崎枝という名があったらしい。ここは百名の別称
具志川・金福(1416) 久米島の具志川。金福は具志川の異称


 列記してみると、喜界、那覇の「浮島」、八重山の「果たら島」、慶良間の「群れ島」のように、その地勢から類推しやすいものもある。嘉数の「桃原」、百名の「崎枝」、具志川の「金福」のように妥当性のある漢字を当てられているものもある。金で言えば、久米島、首里、徳之島の「金の島」のように、ある豊穣性、宝や鉄などを連想させる比喩としてつけられているものもある。徳之島はカムィ焼きの存在を背景にしたものかもしない。またそれは「金島」という美称として固有名詞を離脱することもできる。

 こうしてみると、島名で、その由来が未詳で、当てる漢字も見当が付けられていないのは、粟国の「かき」、沖永良部島の「せりよさ」、与論島の「かゑふた」のみである。

 これらに共通するのは沖縄島にとって「地離れ」、つまり離れ島であることだ。沖縄島内部であれば、地名で謡われることが多く、またその異称についても、多くが漢字を当てられ、類推ができている。また、徳之島や久米島のように島の大きさ、そこ資源の豊かさがある閾値を超えたものについては、象徴的な名称が与えられている。

 これはおもろ歌人をはじめとした編纂主体が、交流が深くよく知られた地名については、その地名そのもので呼び、その存在感がよく聞こえた場所については、象徴性を施している傾向を読み取ることができる。

 では、粟国の「かき」、沖永良部島の「せりよさ」、与論島の「かゑふた」と、まだ由来の不明なおもろにはどのようなアプローチがなされただろう。

 まず、肯定的な意味を持つ言葉であれば、かなり自由に異称、別称として使っているおもろであれば、これら三島もいずれ美称、尊称の意味を仮託されているのは間違いないだろう。そして、現在にいたるも意味不明な言葉のままであるということは未知のおもろ語があるか、ある省略や転訛などのアレンジが施されている可能性がある。おもろそうしは祭祀の歌謡であり、音数律や音の響きが重視されただろうからである。

 ここで、沖永良部島と与論島に焦点を当てると、二島のおもろが編纂された時期が、薩摩の直轄支配以降であることは、ニ島への地名での言及をためらわせる理由にはならなかったのかという疑念が浮かぶ。

 両島は「永良部」「与論」地名としてもおもろに出てきており、その名が知られていなかったということはない。ただ、たとえば与論は与論よりも「かゑ(い)ふた」で出てくる場合の方が多く、固有名詞よりも異称で名指されている。薩摩への配慮を勘ぐりたくなるところだ(沖永良部は、「えらふ」の方が「せりよさ」より多い)。

 しかし、それは無かったとは言い切れないが、それよりは異称としての意味のほうが、琉球王府にとっての島の価値を込めやすく、また歌謡としての響きがよかったという理由ではないかと思える。沖永良部と与論が、王府とおもろ歌人にとって、第二尚氏成立の主戦場ではなく、その位置も隔たっている度合いに応じて、固有名より異称が選択されやすかった。だから、美称、尊称のなかでも、沖永良部、与論は、第二尚氏成立の過程で担った意味を仮託されているだろうと思える。

 ところで、おもろの編纂主体にとって、沖永良部、与論の両島が薩摩直轄であったということは、両島への配慮を希釈する要因にはならなかっただろうか。薩摩への配慮を重視するというより、むしろ、両島への配慮を希釈するほうへの作用だ。

 「せりよさ」にしても「かゑふた」にしても、外間守善は古名としているが、島人にとって実感が伴わない以上、これは異称であって古名ではないと思える。沖永良部についても同様だ。だから、歌謡は現地でも謡われたものであったとしても、地名はおもろ編纂の時点で異称が付けられた可能性も充分にあると思える。

 そして、この配慮の希釈のなかで、両島をどう呼ぶかという問いに対しておもろ歌人は幾分の自由を手にする。

 こういう道筋は、「かゑふた」が「かいなで」から来たのではないかとする先日の考え方に引き寄せていることになり、我田引水で、見てきたような嘘になりかねない(「「かいふた」とは立派な集落という意味」)。

 しかし、勢いに乗って言えば、沖永良部の「せりよさ」が、「せぢよせ」、つまり「精霊寄せ」から来ているのではないかという着想も得ることができるのだ。

 おもろの編纂主体にとって、沖永良部と与論には北からの視線と南からの視線の両方が考えられる。第二尚氏成立の始原の地であるなら(吉成直樹、福寛美『琉球王国と倭寇―おもろの語る歴史』 2006年)、ここを足がかりに南へ伸びていったとする視線。もうひとつは、徳之島、奄美大島、喜界島を征討するための足場という視線である。

 すると、沖永良部は戦せぢを寄せて、与論は守護する土地であるという解釈は意味として妥当性を持つように見える。琉球弧のなかでは、「えらぶゆんぬ」と、ひとくくりに呼ばれてきた経緯を持つ両島が、その意味もひとくくりのように捉えられ、異称を施されたとしても不思議ではない。

 また、粟国の「かき」は、「かゑふた」と同様、「掻き」由来であることを連想させる。


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