花城真三郎の系譜
1470年の第二尚氏の成立以降、与論主となったのは又吉大主とされる。「基家家系図」には、「沖屋賀武伊」が、当時48歳の又吉大主に官位をが授けている。先田光演の『与論島の古文書を読む』の助けを借りると、「沖屋賀武伊」は「おぎやかもい」と読むが、これは尚真王のことだ。尚真王が編纂を命じたのだから当然だが、「おもろそうし」にも尚真王、「おぎやかもい」を賛美する歌謡は多数ある。最初に書かれたのは、奄美大島笠利を攻撃した次のおもろだ。
一 聞得(きこゑ)大君(ぎみ)ぎや
天(てに)の祈(いの)り しよわれば
てるかはも 誇(ほこ)て
おぎやか思(も)いに
笠利(かさり) 討(う)ちちへ みおやせ
又 鳴響(とよ)む精高子(せだかこ)が
[訳注]
名高く霊力豊かな聞得大君が、天の祈りをし給うからには、太陽神も喜び祝福し給うておられる。尚真王様に笠利を討って奉れ。(4 『おもろさうし』)
また、又吉もまた、「おもろそうし」に登場する。それも、与論にとって馴染みのある「ぐすくま」の名とともに出るのが、四点、続く。
一 城間(ぐすくま)の大親(や)
又吉(またよし)の大親(や)
京(きやう)の内(うち) 歓(あま)やかせ
又 今日(けお)の良(よ)かる日(ひ)に
今日(けお)のきやかる日(ひ)に
(1062 巻十五)
一 城間(ぐすくま)の真庭(まみや)に
首里赤頭部(しよりあくかべ) 持(も)ち成(な)ちへ
金(こがね)の真玉(まだま)の御柄杓(みしやく)
又 又吉(またよし)の真庭(まみや)に
(1063 巻十五)
一 城間(ぐすくま)の真山戸(まやまとう)
実(げ)に 見(み)物 おわちゑる
依(よ)り笠(かさ)が 気(けお)の踊(よ)り 見物(みもん)
又 又吉(またよし)の腰当(こしや)て子(こ)
(1064 巻十五)
一 城間(ぐすくま)の蒲葵杜(こばもり)
蒲葵杜(こばもり)む よむいきやす
腰当(こしや)て思(も)いが
よしみよわば 淀(よど)しよわ
又 又吉(またよし)の蒲葵杜(こばもり)も
(1065 巻十五)
グスクマ・サークラのグスクマとは、「城間」であり、又吉大主の「又吉」から来ていると思われる。ぼくなどは単純に、首里王府の官吏が与論主になっていること自体に驚く。
二代目は、幼名、花城真三郎。花城与論主として知られる。花城真三郎は、首里で生まれ二十一歳で与論に来島している。『与論町誌』の「基家家系図」には、「御親父又吉大主より」とあるから、又吉大主の子が花城真三郎だということになる。花城真三郎が与論主になってのは1525年だと『与論町誌』には記されているが、ぼくは出典の原文が確認できていない。
確認できるのは、又吉大主が「与論主」の官位を受けたのが、1512年。その子、花城真三郎が与論に来島したのが、21歳の時ということだけではないか。
与論に触れた文章のなかには、花城真三郎が尚真王の次男尚朝栄であるという記述が見られるが、これらは虚偽と言わなければならない。ただ、首里王府の中枢からの派遣であったことは確かだと思える。
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