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2013/10/02

「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」

「人間(ミンギヌ)ぬ始(パジ)まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」

 島人がアマン(ヤドカリ)を祖先だと考えていた古代の信仰について、与論の郷土史家、野口才蔵も自身のエピソードとして語っている。

 子どものころ、潮待ちで浜辺のアダンの下で休んでいて、何げなしに側の叔父に「人間の始まりは何からなったのだろう」と問うた。叔父は、前をコソコソ這うて行く子ヤドカリを見ながら「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」と、にっこりと言われた。それが今だに忘れられない。
 その後、壮年期になって、入墨の話を聞いたり読んだりしているうちに、われわれの遠祖の先住民とのかかわりのあることに触れ、あの叔父の言われたことが冗談ではなかったこと、しかも重要な伝承であったことに改めて深い関心を持った。((野口才蔵『与論島の俚諺と俗信』1982年、p.253)

 同じ、野口才蔵の『奄美文化の源流を慕って』(1982年)では、森田忠義が与論の明治生まれの女性に聴取した入墨の動機が載っているのだけれど、「好奇心」、「装飾」と言う発言が多いのだから、この叔父の言葉はとても貴重だ。

 アマンを巡る野口の考察は、ここに止まらず、アマミキヨとの関係に及んでいる。

 ところで、この「アマン」のごは我らの遠祖アマミキヨと不離の関係と考えられる。南島人の音韻特徴には、子音のM音とN音の交替がある。例えば、ミミ(耳)はミンに、ウミ(海)はウンに変わる。そこでアマンはアマミからの転化とし、アマミキヨの「キヨ」は「人」の古語だと言われており「アマンの人」アマン人(チュ)が、「アマミキヨ」だろう、との考察は支配的といえる。
 アマミキヨの南島への移動説を力説される沖縄学の泰斗伊波普猷氏は、アマミキヨは大分県海部より大島を経て沖縄本島に移住したものとして数々の例証を挙げておられる。それに与論郷土研究家では、島の先住民と赤崎の「アマンジョー」は最初の上陸地と推定される小地域の地名であり、また「アマン井」として、そこにある自然現象を意味しているとも考えられる。こうして入墨にまつわる「アマン」と本島先住渡来民族アマミキヨとの関係は、表現上のちがいでしかない、と言えそうである。(野口才蔵『与論島の俚諺と俗信』1982年)

 ぼくたちは2011年に上梓された吉成直樹の『琉球の成立―移住と交易の歴史―』において、アマンとアマミキヨの同一性に触れた議論を、身体が反応する身近なものに思えて歓迎したが、島の郷土史家はあいまいな仮説ながら、その二十九年前にはこの考えに辿りついていたことは記憶に留めておきたい。

 ただし、アマンとアマミは、北上した言葉がアマンであり、南下した言葉がアマミであれば、アマンが先立つものでなければならない。しかし、アマミからアマンの音韻変化は想定しやすいが、その逆、アマンからアマミへの変化の説明は難所だ。そこは、吉成が奄美大島で「ヤドカリをアマミと呼ぶ地域」を見出したように、現実例を元に突破するしかないと思える。

 そのことより、伊波普猷は、大和(本土日本)と南島との関係づけが当為と化してしまったために、相当な無理をしたと思う。これは近代琉球の悲劇だった。

 野口才蔵は、与論の本質を穿った言葉を引き出し、そして聴き取り、「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」と、記してくれたことは、与論にとっても大きな財産だ。野口はこの俗信の節を次のように結んでいる。

 冒頭の「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」との俗信も故あることであり、与論島開闢の幕開け情景を間近に見る思いがして、懐古の情おさえがたいものがある。(p.255)

 「与論島開闢の幕開け情景を間近に見る思い」は、ぼくたちにも伝わり、ぼくたちも共有するものだ。

 『与論島の俚諺と俗信』(1982年)と『奄美文化の源流を慕って』(1982年)は、野口先生から直接いただいた。ネット上に画像も見当たらないから、感謝を込めて、装丁をあげておきたい。


『与論島の俚諺と俗信』(1982年)

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『奄美文化の源流を慕って』(1982年)

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