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2013/10/15

花城の周辺

 花城真三郎が、尚真王の次男、尚朝栄(大里王子)に当るという伝承の元になったのは、増尾国恵の『与論郷土史』(1963年)だと思える。

 花城与論主は名を尚朝栄(大里王子)幼名を真三郎と称す。尚真王の次男にして、明応元年1492年、首里城に生まれた後(中略)、1512年、御年21歳の時、当島へ御渡来され故中納言大主と称せられた。(p.36)

 この記述の元になったのが「基家家系図」だとすれば、「沖屋賀武伊」(おぎやかもい)への言及が花城真三郎の前にあることから、親と見なし、尚真王の子の中から生涯不詳の尚朝栄を引用した。かつ、又吉大主が官位を受けた1512年を花城真三郎の来島に結びつけた。そういう経緯だろう。そこから、花城の生年を1492年と割り出しているが、尚真王の長男、尚維衡の生年が弘治7年、1494年だから、矛盾もしている。

 これは、弱小な共同体は、歴史的な事件や人物を自らに関連づけたがる心性に依るものだと思える。

 「基家家系図」には、花城与論主の来歴も記されている。素人訳になるが、おおよそは間違ってないだろう。

 幼名は花城真三郎。首里の生い立ち。二十一歳で当(島に来る?)。首里の出なので(?)、沖納言大主と称した。神恵に通じる力量は尋常の人を越えていた。旧友の首里浦添の目勘号里子は、両人の力量の程を露顕させようと相談(?)する。

 花城は那覇の親見世(おやみせ)で人が集まっているところに来て、浦添は覆面をして身を隠し、馬に乗って空を駆け走り、那覇の親見世にかけ出ると、人々は驚いて騒ぎ、強賊が出た、どうしよう(?)と逃げ散った。人々は散り、強賊を止める人はいないのかと大いに騒いだ。

 花城は、ニ階から飛び降り、(?)馬の轡を取って、何者だ、花城がいるとは知らないのか、世の常の人とは違うぞ、実名を名乗るべし。さもなくば一歩も通さないと詰め寄る。強賊は、ここに花城がいるとは常々知らなかった。私は浦添目勘号なり、真っ平御免と馬から飛び降りて、鞍に(?)を当て、馬を空に担ぎあげて四足を動かし(?)、新村里煙方へ逸散、退去したと云々。

 また世俗の評では、凡人でがこんな動きをすることは(?)少ないでしょう。これは魔法第一の者で、世間の目にこのように見せるものではない(?)。馬の前の両足を取って肩に乗せて去ったという説もある。このような奇術が露顕して、彼ら両人が安穏としていては首里は危ない。罪を科すべきだと、阿司多部(あしたべ)中儀が参上して言う。

 その夜、又吉大主をひそかに呼び、阿司多部が汝の真三郎に罪を科すべしと奏達(国王に進言-先田注)するから、迷わず今夜中に島へやれ、とおっしゃりくださった。

 与那原浦江の奥に船があるので、その夜中に漕ぎ出て島に渡った。伯母の石嶺大阿武(おおあむ。上級神女)の所に向かうようにと、父である又吉大主より仰せつけられ、渡って以降、無病息災だった。遺言では、子々孫々に力量が及ぶ(?)出生だと。舅得瀬賀大主一女。

 単純に言えば、花城はやんちゃ坊主だが、彼をして「神恵に通じる力量は尋常の人を越えていた」と評しているのは、歴史的人物もまた傑出した記述を引き寄せたがるものだということだ。

 ところで、先田光演の『与論島の古文書を読む』によれば、真三郎が首里を離れ、与論に向かう折、「叔母石嶺大阿武(上級神女)を付き添わして」とあるが、原文は「伯母石嶺大阿武所ニ□ラレ候ヤウニト」とあり、伯母である石嶺大阿武のところに向かうようにと言われているように読める。しかしその場合は、花城真三郎の来島前に、与論に「大阿武」(おおあむ)のノロがいただろうかという疑問は残る。

 なお、花城(はなぐすく)は、那覇にある地名である他、おもろでは、島尻にも玻名城(花城)のあることを教えている。

一 玻名城(はなぐすく)按司(あんじ)付(つ)きの大親(や)
又 花城(はなぐすく)ちやら付(つ)きの大親(や)
(後略)

(983 巻十四)


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