国頭城、中具足城と与論
1471年に作成された『海東諸国記』にある「琉球國之図」に、ぼくたちは強い違和感を抱く。与論が初めて漢字で記された「輿論島」が大きすぎるのだ。それは、沖永良部島、徳之島と同等、奄美大島よりやや小さい程度で、点としてでも記されれば御の字と感じるようなぼくたちの慣れと激しく隔たる。
しかし、「おもろそうし」に触れ、そこで与論が「根の島」「根国」、元になる島、共同体の中心の含意で記されているのを見ると、この地図との符合を感じないわけにいかない(「玉の御袖加那志の与論」)。
福寛美の「『海東諸国記』の「琉球国之図」の地名と『おもろそうし』」(2009年)を見ると、与論に限らず、たとえば宇堅島など、「現代の離島概念を覆す大きさを地図上で誇る」として、それは「15世紀の海上通航の際、それぞれの島に侮り難い勢力が割拠していたことを示す」としている。「侮り難い勢力」とは何か。倭寇である。
ただ、ここで言う倭寇とは琉球王国の成立に深く関与した勢力のことであってみれば、第二尚氏成立直前に沖縄島を中心に割拠していた豪族の勢力と言い換えてもいい。
そうやって改めて与論に目を転じれば、ここに記されているのは、15世紀初期、北山系とされる伝承の王舅以降であり、かつ、16世紀初期の中山系の支配者である花城以前の勢力となる。この間、ぼくたちが伝承で知っているのは護佐丸の乱暴狼藉くらいではないだろうか。
護佐丸でないとしたら、他に可能性のある者たちはいるだろうか。
『海東諸国記』の「琉球國之図」で、わが与論以外に、それより前に真っ先に違和感を喚起するのは、『海東諸国記』にある「琉球國都」と同等の大きさで北部に記されている「国頭城」である。これは何なのか。
福によれば、大宜味の屋嘉比ではないかとして、そのおもろを引く。
一 屋嘉比杜(やかびもり) おわる
親(おや)のろは 崇(たか)べて
吾(あん) 守(まぶ)て
此渡(このと) 渡(わた)しよわれ
又 赤マル(あかまる)に おわる
てくの君(きみ) 崇(たか)べて
大意は屋嘉比杜にまします親のろ神女、赤丸(国頭村桃原)にましますれくの君神女を崇敬して、我々を守ってこの海を渡し給え。
「航海者の視点として、国頭の屋嘉比杜と赤丸に航海守護の霊力で名高い神女がいたことがわかる」として、「北部琉球勢力が今帰仁ぐすく以北にあり、その情報が沖縄島の北に大きく記された可能性を考えたい」としている。
なるほど、それであれば「国頭城」の大きさにも合点がいくが、そうだとすれば、そのすぐ北に大きく記された「輿論島」も、その勢力圏にあったと考えるのが自然だろう。
ぼくたちはここでもまた途方に暮れることになる。そんな話、かけらも聞いたことがないからだ。けれど、伝承の欠如より地図の大きさのほうが、この場合は史実を物語ると考えるより他ない。そしてひょっとしたら、聞いたことがないと唖然とするのは、ひとり与論だけのことではないのかもしれないと思う。
すると、ぼくたちの関心を惹くのは福の次の指摘だ。
中城ぐすくとは護佐丸が築城した、と伝えられる。中城おもろには、中城は中心の国(根国、国の根)であり、徳之島(徳)や奄美大島(大みや)の支配権を引き寄せよ(五三)、北(上)から多くの按司達が攻めてきたなら、押し戻せ(四七)、攻めて(敵)を討とう(四五)、大国(沖縄島)を支配する中城(四ニ)、と謡われる。これらの用例は、武力に長け、奄美群島の支配権をうかがう男性支配者が中城にいたことを示唆する。中城では清冽な泉清水を出しそれを国中の人々が羨ましがる(四九)、名高い中城に集まる冨を謡っている。中城おもろには「玉の三廻り」があらわれる。この三つ巴紋は大家の家紋であり、倭寇の奉斎する八幡神の神紋でもある。この三つ巴紋が現れるのは、おもろ世界では王家、中城、そして大里である。大里按司こと下の世の主は南山王であり、権勢を誇った様子がおもろからもうかがえる。中城ぐすくの主についての真実は不明だが、強大な権力を誇った支配者がそこに君臨していたことは間違いない。(p.77)
中城グスクの主については不明だが、それはおもろでは「三つ巴紋」を媒介して王府と大里はつながっている。首里と中城は、与論と「根国」でつながっていた。かつ、大里と与論は、シニグ集団(サークラ)名でつながっている可能性がある(「玉の御袖加那志の与論」)。
ここで気になるのは、福も引いている五三のおもろだ。
一 中城(ぐすく) 根国(ねくに)
根国(ねくに) 在(あ)つる 隼(はやぶさ)
徳(とく) 大みや
掛(か)けて 引(ひ)き寄(よ)せれ
又 鳴響(とよ)む 国(くに)の根(ね)
国(くに)の根(ね)に 在(あ)つる 隼(はやぶさ)
「徳之島(徳)や奄美大島(大みや)の支配権を引き寄せよ(五三)」と、「奄美群島の支配権をうかがう男性支配者が中城にいたことを示唆する」。
ここに、与論のこいしの神女が徳之島に行き、宝を徴収し王に奉るとするおもろを重ねてみる(「根国」のなかの与論」)。
はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
玉金
按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 根国(ねくに)こいしのが
(932、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)
すると、中城ぐすくの王が、徳之島、奄美大島の支配権をにらむ際、与論島を足場にしてもおかしくないと思われてくる。「与論こいしの」のおもろは、少なくとも徳之島に支配権を確立した後の与論の光景だと受け取ることもできるからだ。
こうすると、『海東諸国記』、「琉球國之図」の「輿論島」に、王舅、護佐丸以降、花城以前の一世紀近くの間の姿を垣間見ていることになる。
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コメント
『海東諸国記』にある「国頭城」は、現在の大宜味村謝名城(ジャナグスク)以外に比定しようがない位置にありますね。
謝名城当地の「ウンガミの神歌」の冒頭に、「なかのみやく」とあって、「みやく」は「まく」が変化した形であると『やんばるの祭りと神歌/名護市教育委員会 1997 』は解釈しています。
この「なかのみやく」は謝名城集落であり「まく」は「ふた・くた」と同じであることがわかります。
一般的に「なかグスク」と言えば、世界遺産に登録された「中城グスク」を指しますが、「なかグスク」はあちこちにあって、島々村々ではことさらに固有名詞を使わずたんに「なか」はグスクや集落の中心の意味ですね。
ですから『おもろさうし』に見える「なかぐすく」は、実はどこのグスクなのかは断定しかねるものもあります。
*** 中ぐすく 根くに
根くに あつる はやぶさ
徳之島・奄美大島 ***
この場合の「中ぐすく/根くに」が「謝名城」だとすれば、与論など南奄美との位置関係が見えてこないでしょうか?
謝名城の集落は、現在でもグスクの域内にありますから、本来は軍事施設として造営されたのでしょう。
そうすると、与論は国防上の最前線として重要な "大きさ" を与えられているかもしれません。
投稿: 琉球松 | 2013/10/25 11:45
琉球松さん
大事なことを教えてくださって、ありがとうございます。予備知識が薄いのでとても助かります。
福さんは、「琉球国都に次いで大きく描かれる国頭城を規模の小さい根謝名グスクに比定することには、疑問がある」として、上の考察になっていました。
それから与論のこと。たとえば、北からの襲来をいちはやく気づけるという意味だけでも、国防の役割になるわけですよね。
投稿: 喜山 | 2013/10/25 17:24