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2013/09/21

宇和寺半田遠島の前段

 四年前に「宇和寺半田遠島はいつ起きたのか」と題して、自分の祖先が、いつ宇和寺に追放されたのかを考えてみたのだが、もう少し進めてみたい。

 増尾国恵の『与論郷土史』(1963年)のなかの、ハニク・サークラ発祥についての記述。

 高井家は昔は茶花地域に人家は一戸もなく無人地区であるたが高井家祖先は赤佐に広大の地所を所有してゐたので今の城に立長といふ小字がある見良の東隣に故川畑北仁家の隣東立長畑といふ所から一人赤佐移住した処が続々人が移住するやうになり遂に一小部落となつた。そこで川内与人から償として此のシニュグ祭を与へたと伝はる。(p.67)

 一方、野口才蔵の『南島与論島の文化』(1976年)にはこうある。 

 その当時の宇和寺半田といえば、石灰岩が露出し、アダン・サーラキ・アシクタ・カズラ等が自生して陸内からの通行は不能で、舟によってなされ、いわば海路による交通でなされたそうである。ところで移住するに当って最も憂慮されたのは水であったので、度々、踏査を重ねるうち、遂にフバマの湧泉を発見し、森久保氏は、生活の可能性を信じて、親族会を度々催し、合議のうえとうとう宇和寺半田移住の決断がなされた。(p.297)

 ふと、「茶花地域に人家は一戸もなく無人地区」ということと、「陸内からの通行は不能」ということは同じことではないかと疑った。茶花移住が一人に始まり、宇和寺移住も一人が元になっているとすると、ある意味、出来すぎではないかと思えたからだ。

 けれど、シニグを許諾されたハニク・サークラの場所は赤佐内にあるから、この二つの事件は同一ではないらしい。

 すると、城から茶花へ、茶花から宇和寺へ、と二段階の移住を経たことになる。いや、もともとが琉球沖縄島からの移住であってみれば、三段階になる。

 15~16世紀 沖縄島から与論へ
 17~18世紀 城から茶花へ
 19世紀    茶花から宇和寺へ

 という三段階移住を想定することができる。

 移住の血筋なのだろうか。



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