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2013/09/30

シニグの因数分解 3

 谷川健一は、『南島文学発生論』で、シニグの歓喜の爆発的な発露である踊りにふれた個所で、「シヌグという言葉は「しのくる」(踊る)というおもろ語と関係があるとされる」(p.403)として、シニグの語源が「踊る」にあることを示唆しようとしている。

 この考えはとても魅力的なのだが、しかし、「踊る」ことそのものを名称にするのでは、祭儀の由来や本質を物語ることができず、そのような命名をすることは考えにくい。そして、シニグは名称こそ共通して沖縄島の北部と東海岸を中心に分布しているが、与論シニグと安田シニグを例にとっても、二つのシニグは抽象化か個別具体的な何かを指示するかしなければ共通性が見出しにくく、個々のシニグの内容は多彩である。これは、稲作の技術を持った集団の共同幻想が個々の地域における収穫の予祝祭を吸収した結果だと見なせば、同一名称、内容多彩の由来が理解できる。そうだとしたら、シニグの名称は、あの男神シニグク(シニレク、シネリキヨ)に由来すると考えるのが妥当ではないだろうか。

 シニグはこの他、神の託宣を受ける、中沢新一の言葉を借りれば、高神的な要素と、神を迎え送るという来訪神的な要素を併せ持つ。また、パンタ石や、子供たちがサークラ内の家々をまわり、その家屋や柱を廻って「フーベー、ハーベー」と唱えるような、ある種の悪霊払いの儀礼も内包している。

 スク(シュク、イューガマ)の予祝祭を起点に置けば、収穫の予祝という核心の外側に、さまざまな要素を付加させ、共同体内の融和から共同体間の融和にまで拡張してきたのが与論シニグだと言える。これらをその起源に向かって、遡行しようとすれば、個々の要素への因数分解が必要なのだ。

 ここで辿ってきた視点から言えば、シニグとウンジャミはもともと一つのものか、最初から別々にあったのか、あるいは、どちらが古いかとする議論にも触れることができる。スクの予祝祭を起点に、収穫を軸にこの祭儀が連綿としてきたと捉えれば、シニグとウンジャミはもともと同一のものである。それが政治的な威力によって共同祭儀化された時、稲作と漁撈の祭儀とに分化を余儀なくされた。ウンジャミが小シニグと呼ばれることがあるのは、シニグが元にあり、ウンジャミがシニグから分化したからではなく、共同祭儀化された時、島の生産は稲作を主軸に置く段階になったためであると考えられる。ここからすれば、シニグもウンジャミも、その名称は新しいのではないだろうか。


 (与論シニグ)=(踊り)+(予祝(狩猟・漁撈・稲作))+((パル・シニグ)+(ムッケー・シニグ))+(神路)+(高神+来訪神)+(悪霊払い)


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2013/09/29

シニグの因数分解 2

 もう長い間、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラによって与論の稲作はもたらされてきたと思いこんできた。そうした考察を目にすることが多かったし、島人の上陸地点として聖地と見なされているのも、アーサキ(赤崎)を除けば、寺崎と黒花だからだ。そして、聖地とされるウガン(御願)と歴史とのつながりを、ロマンチックにすら感じてきた。

 しかし、実はそうではないのではないか、というのが現在の考えだ。

 理由は、単純で、与論のシニグを研究した大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究―種子島マキと奄美大島与論島ハラの社会学的研究(1960年)』によれば、クルパナ(黒花)・サークラの座元(ザムトゥ)は、

黒花オガンの地域を買ったのでパル・シニグを行う事となった。(p.266)

 とあり、また、野口才蔵の『南島与論島の文化』では、ティラサキ(寺崎)は、琉球王府の版図になって以降に、島に到来した系譜が所有者であったと指摘されているからだ。購入が前提であれば、クルパナ(黒花)・サークラによって稲作がもたらされたとは言えないし、琉球王府の版図になる以前に稲作は伝来されているのだから、ティラサキ(寺崎)・サークラが稲作をもたらしたわけでもないことになる。それに気づくと、では購入される前、所有される前の、両サークラは誰が担ってきたのかと考えてきたが、それを尋ねたことはない。けれど、改めて考えてみると、その前は、両方ともサークラとして存在しておらず、購入や所有を契機にサークラが構成されたということではないだろうか。

 たとえば増尾国恵は『与論郷土史』(1963年)において、ハニク・サークラ発祥について、こう書いている。

 高井家は昔は茶花地域に人家は一戸もなく無人地区であるたが高井家祖先は赤佐に広大の地所を所有してゐたので今の城に立長といふ小字がある見良の東隣に故川畑北仁家の隣東立長畑といふ所から一人赤佐移住した処が続々人が移住するやうになり遂に一小部落となつた。そこで川内与人から償として此のシニュグ祭を与へたと伝はる。(p.67)

 これは薩摩が直轄支配している時代のことではあるが、琉球王府が与論を版図に入れて以降、シニグは自然に育まれた祭儀ではなく、政治の制御が及ぶ共同祭儀と化していることが分かる。ティラサキ(寺崎)・サークラやクルパナ(黒花)・サークラの成立についても、こうした背景を置かなければならないかもしれないのだ。

 ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラの関わるシニグ祭団には、他には見られない特徴がある。両者の行うシニグ祭は、ムッケー(迎え)・シニグとパル・シニグの二つの役割が存在することだ。そして、ティラサキもクルパナも、その中のパル・シニグを担い、ムッケー(迎え)・シニグと合流してシニグを行う。それ以外のサークラでは、ムッケー(迎え)とパルの分岐は見られない。

 シニグに二つの類型があることは研究者たちの関心を呼んだようで、大山彦一は、この二つは、パル・シニグが古型であるとしている。

シニグにはパル・シニグとムケー・シニグとがある。パル・シニグは原シニグであって、シニグの古型である。昔、原即ち原野に於て行った原野の耕作地のためのシニグであって、サークラ無きところで行った。(『南西諸島の家族制度の研究』、1960年、p.240)

 大山の考察の14年後、小野重朗は「与論島のシヌグとンジャミ」(1974年)のなかで、

 私はAのパルシヌグとそれを迎える行事の部分が消失してBになったものと思う。(p.316)

 と書き、パル・シニグとムッケー・シニグの両方あることが原型であるという考えを示した。大山がパル・シニグを古型であるとし、小野は両方あるのが原型であるとする点、ムッケー・シニグが新しい形であるか、元からあるものかについて相違はあるものの、パル・シニグが元からあったものとすることについて両者は共通している。

 大山の判断がやや直観的であるのに対して、小野は根拠も挙げている。ひとつは、小野が取材をした1974年前の時点では、ティラサキもクルパナもサークラを構成せず、パルシニグが消失する事例が島人の記憶のなかでも起こっていること。そして、もうひとつ、ある。

 第二は理論的にA(パル・シニグとムッケー・シニグの両方ある-引用者注)がB(パル・シニグの消失-引用者注)に比べて本来の古形であったことが考えられる。先ず、サト地区の六シヌグ祭団はサークラを出発するとみな最初に展望の広い崖の上のパンタに出る。しかも六祭団中の五祭団までは、北方の海の見える隆起珊瑚礁の同一線上のパンタに出る。そうして神路巡回コースはここで折り返してサト地区の中をめぐることになっている。これはこのパンタが巡回コースの中で最も重要な地点であることを教えている。A形のシヌグではこのパンタは北の海辺の御願から訪れてくるパルシヌグの座元(シヌグの神の依り代)を迎えて年柄、作柄をきく聖なる場所なのである。ところがB形のシヌグではこのパンタは単に旗をめぐるだけの場所となっている。パルシヌグの消失と共にパンタ儀礼だけが礼楽したまま残ったと見るほかはない(p.317)。

 しかし、パル・シニグとムッケー・シニグの類型を持つ、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラが、土地の所有と購入から発生したと見なすここでの観点から言えば、この類型は新しいのではないだろうか。なぜなら、シニグが異なるサークラ間の交流という形式を持つこと自体、政治が加担した共同祭儀であることを意味しており、それも琉球王府の版図になって以降のことと考えられるからである。

 島人の移住の経路を示すとされ、与論シニグの特徴でもあり根幹でもある神路から考えると、どうなるだろう。

 大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究』には、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラの両者の神路の経路が図示されている。このうち、クルパナ(黒花)・サークラの神路は、クルパナ・サークラとシニグを伴にしたユントゥクあるいはプサトゥのサークラが神路を案内できた可能性がある。同じ役割をティラサキ(寺崎)・サークラで演じたのはプカナ・サークラではないだろうか。野口才蔵によれば、プカナは、ティラサキとともにパル・シニグだった時期があり、ついで、ティラサキのムッケー・シニグになっているからだ。プカナはずいぶんと振り回されたのだと思う。

 ところで、大山彦一の研究には興味深い記述がある。それは、ショウのグループのサークラに関するものだ。ショウは、以前は、「島の北海岸にあるテダラキから高千穂の東を経て、又吉の東で赤崎オガンの方向に向かって遙拝して解散した。大多数の氏子が叶、那間の遠距離であるので、又吉に於て東方赤崎オガンの遙拝に止めた」という。「テダラキ」とはティラサキのことだが、これはショウのグループが、ティラサキからの神路を持っていた可能性を示すものだ。しかもされにこれ以前があると言う。「さらにこれ以前。赤崎オガンの遙拝に止まらず、赤崎オガンまで行って祈りをしていた」。しかも、この神路は、ティラサキ(寺崎)サークラの経路とは異なる、と言う(p.252)。

 この記述を信じるなら、これが意味するものは何だろう。アーサキ(赤崎)ウガンを聖地として持つ、ショウのグループが、ティラサキからの神路も持つとしたら、ショウ、キン、サキマ、アダマの各サークラのうち、アーサキ(赤崎)ではなく、ティラサキ(寺崎)を上陸地点として持つサークラがあるのではないかということだ。そしてもしそうなら、その名称が、赤(アー)とティラ(白)の響き合うニ対の地名を持つ謎も解きやすくなるのだ。

 そしてこれを手がかりにすると、こういうことが考えられる。サトのサークラのうち、少なくとも、ショウのグループ、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシ、ユントゥク、プサトゥのいくつかは、クルパナ(黒花)、ティラサキ(寺崎)、ウァーチ(宇勝)などの上陸地点からの移住経路を示す神路を持っていた。しかし、土地に所有の概念が発生して以降は、その経路を辿れなくなった。こう考えると、小野の仮説は生きることになる。ただし、上陸地点に神が訪れ、パンタでそれを迎え、パンタや海岸で送るという神路の経路は、同一サークラ内で行われていて、サークラ間の交流の形態を取るようになったのは後代のことであるという点を除けば。

 ぼくたちも小野の仮説に惹かれるが、まだ判断できるだけの材料を手にしていない。


 (与論シニグ)∋{((パル・シニグ),(ムッケー・シニグ)),(神路)}


 

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2013/09/28

シニグの因数分解 1

 シニグをその源流に遡及してみようとする時、徳之島の民俗学者、松山光秀の「私のコーラル文化論」の視点には、強い示唆が含まれているのを感じる。

 ここでフウゴモイの付近一帯の状況も説明しておきたい。すぐ隣にはネィラの神が祭りの浜にやってくるときの目印にしたというタンギャ(立石)が聳え立っておりイマ(原文ママ)、その隣には祭りのときに神々に供え物をしたという岩陰があり、さらにその隣にはユウムチゴモイ(砂の入り具合いによって次の年の豊凶を占うところ)があって、シマ一番の、水稲の収穫感謝の夏の折目の祭りのときに心臓部を演じたところである。このような重要な祭祀場の一角にシュクの捕り始めの儀礼の行われるフウゴモイがセットされる形で設定されていたことに注目したい。水稲文化は人々の目に見えるシュクの寄りという自然現象の媒介によって、はるか彼方のネィラと結ばれていたと言えよう。人々の夢がふくらんでいったのも無理からぬことだと考えられる。(『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』2004年、P.54)

Huugomoi_2

 左右どちらへの展開かは分からないものの、フウゴモイ、立石、岩陰、ユウムチゴモイの位置関係は上図のようになる。松山は、稲作の祭儀とスク(シュク、与論のイューガマ)の祭儀の場が近接しており、かつ、スクの到来と水稲の収穫の時期が一致していることに着目し、稲作という新しい生産物が、それまでの生産物とそこにあった信仰とに結びついていることに、島人の「夢がふくら」む根拠を見ている。

 ぼくたちの視点から言っても、「夢がふくら」むように胸が躍るのは、祭儀の場所と時間の同一性によって、漁撈の収穫祭と稲作の収穫祭が接ぎ木されるのを見るからだ。言い換えれば、シニグの原型は、この祭儀の場所と時間の同一性によって、漁撈の収穫祭に遡行できるのではないかと思える。徳之島ではシニグは行われているわけではないが、稲作の収穫祭という意味では、「夏の折目」とシニグは同型と見なせるものだ。

 松山が、「私のコーラル文化論」のなかで、上記のことを「南海日日新聞」に発表したのは1992年だが、その前年に『南島文学発生論』を上梓した谷川健一は、伊計、宮城、浜比嘉で行われるシニグ祭の日が、スクの寄ってくる日でもあること、安田のシニグで、仮装の男たちが山の頂と降りる際、降りた後に唱える「スクナレー」という言葉が、「スク直れ」か「スク魚寄れ」に由来すると考えて、

 シヌグはまさしくスクの寄ってくるのを待ちうけた人たちの予祝祭であり、感謝祭でもあった。(p.402)

 と書いている。

 ぼくは『南島文学発生論』が出版された当時、谷川の(シニグ)=(スクの予祝祭)という仮説が突拍子もないものに思えたが、松山から、時間だけではなく、場所の同一性によっても稲作と漁撈とがつながるという示唆を受け取ると、この仮説が俄然、説得力を帯びて迫ってくる。

 与論のシニグは、スク(イューガマ)予祝祭の意味は無くなっている。けれど、稲作(五穀)の意味だけに限られているわけでもない。

 「うくやま ぴどやまぬぬ ししぬ まーまんなー」(奥山辺戸山の猪の真中)
 
 と、ショウのサークラでは、大峯山から沖縄に向かって行う弓引きがシニグに内包されていて、狩猟の予祝を示唆しているのを見れば、シニグは、狩猟、漁撈、稲作に関わらず、収穫の予祝を意味するものだと思われる。松山の視点やショーのサークラの弓引きは、シニグが稲作に限らず、その前に遡行できるものであることを示すものだ。そして、その原型の場では、シニグは、シニグとは呼ばれていなかったに違いない。

 興味深いことに、同じ時期に発表された松山の『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』2004年、P.54)と、谷川の『南島文学発生論』は、予祝祭のピークを「踊り」に見ている点も共通している。

 人々の喜びが爆発するのは旧六月中旬のカノエの日柄に執り行われる稔りの稲穂の刈取り始めの儀礼、シキュマの日だ。ワクサイからの解放感も手伝って、人々の喜びは最高潮に達したという。この日の前夜、人々は集落内の祭りの広場で夜を徹して踊り狂った。(松山、p.58)
 その踊りも「うちはれ」の祭のように奔放な踊りであって、十八世紀前半の女流歌人恩納なべにシヌグ遊びの禁止されたことを恨む琉歌があることから分かるように、それは男女の性的昂奮を爆発させるものであった。シヌグ祭の放埓な踊りの背景には旧の六月二十八日頃から寄ってくるスクの大群があった。それを待望して歓喜するのがシヌグであり、ウンジャミであったと私は考える。(谷川、p.403)

 さらに興味深いのは、踊りで表出される歓喜を二人とも「爆発」と表現していることだ。

 ぼくたちの関心に従えば、歓喜が爆発する踊りは、与論シニグの原型の要素に想定してもよいものだと思える。


 (与論シニグ)∋{(踊り),(予祝(狩猟・漁撈・稲作))}


『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』

『南島文学発生論』

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2013/09/21

宇和寺半田遠島の前段

 四年前に「宇和寺半田遠島はいつ起きたのか」と題して、自分の祖先が、いつ宇和寺に追放されたのかを考えてみたのだが、もう少し進めてみたい。

 増尾国恵の『与論郷土史』(1963年)のなかの、ハニク・サークラ発祥についての記述。

 高井家は昔は茶花地域に人家は一戸もなく無人地区であるたが高井家祖先は赤佐に広大の地所を所有してゐたので今の城に立長といふ小字がある見良の東隣に故川畑北仁家の隣東立長畑といふ所から一人赤佐移住した処が続々人が移住するやうになり遂に一小部落となつた。そこで川内与人から償として此のシニュグ祭を与へたと伝はる。(p.67)

 一方、野口才蔵の『南島与論島の文化』(1976年)にはこうある。 

 その当時の宇和寺半田といえば、石灰岩が露出し、アダン・サーラキ・アシクタ・カズラ等が自生して陸内からの通行は不能で、舟によってなされ、いわば海路による交通でなされたそうである。ところで移住するに当って最も憂慮されたのは水であったので、度々、踏査を重ねるうち、遂にフバマの湧泉を発見し、森久保氏は、生活の可能性を信じて、親族会を度々催し、合議のうえとうとう宇和寺半田移住の決断がなされた。(p.297)

 ふと、「茶花地域に人家は一戸もなく無人地区」ということと、「陸内からの通行は不能」ということは同じことではないかと疑った。茶花移住が一人に始まり、宇和寺移住も一人が元になっているとすると、ある意味、出来すぎではないかと思えたからだ。

 けれど、シニグを許諾されたハニク・サークラの場所は赤佐内にあるから、この二つの事件は同一ではないらしい。

 すると、城から茶花へ、茶花から宇和寺へ、と二段階の移住を経たことになる。いや、もともとが琉球沖縄島からの移住であってみれば、三段階になる。

 15~16世紀 沖縄島から与論へ
 17~18世紀 城から茶花へ
 19世紀    茶花から宇和寺へ

 という三段階移住を想定することができる。

 移住の血筋なのだろうか。



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2013/09/01

『沖縄・奄美の小さな島々』

 琉球弧の島々を渡り歩きたいというのは、絶えないが当てのない願望であり続けてきた。想う歳月が長くても、滞在と言えるほどの時間を費やしたのは、奄美大島、加計呂麻島、与論島、沖縄島、久高島、古宇利島、石垣島、西表島、与那国島と、わずか九島に過ぎない。沖縄好きを自称する旅人の方がよほど足を運んでいるだろう。

 それはひとえに生まれ島への執着が強く、できた時間は他には譲れないと思ってしまうからなのだが、『沖縄・奄美の小さな島々』を読み、琉球弧全島制覇の渇望がいささか和らぐのを覚えるようだった。沖縄の島々も底が浅くなってしまっているのを感じるからだ。以前、『海と島の思想』を読み、民俗的な深みを期待しただけにがっかりしたのだが(「『海と島の思想』を辿って」)、『沖縄・奄美の小さな島々』を辿ると、もうそういう風俗的な記述しかできなくなっているのかもしれないという内省がやってくる。当たり前といえばそうかもしれないが、もう柳田國男の『海南小記』のような、琉球弧の古層を呼び覚ますような旅行記を書くのは不可能なのかもしれない。

 『海と島の思想』では、沖縄島の離島が橋で架橋され、「離島苦」から解放されたのと引き換えに、過疎とゴミを引き受けているのを知ったが、『沖縄・奄美の小さな島々』でも、それは再三、指摘されている。この本は、橋だけではなく、沖縄の離島が映画やドラマに取り上げられることで、観光ブームを呼び起こすが、その宴の後の静けさも教えている。そして、ブレイクしなかったケースも。

 沖縄の島々にとって、映画やドラマのロケは命運を左右する。『ちゅらさん』の小浜島、『Dr.コトーの診療所』の与那国島に『瑠璃の島』の鳩島島、そして『ナビィの恋』の粟国島。特に小浜はドラマがきっかけで、観光客が押し寄せた。だが、この映画ロケで(映画『群青』-引用者注)、渡名喜島がブレイクすることはなかった。

 与論の目線からは、沖縄観光から取り残された印象ばかりがやってくるが、『沖縄・奄美の小さな島々』を読むと、そこには様々な濃淡があるのが分かる。そして、ブームになったとしても、一時的なものでしかないことも。それなら、与論は経験済みだ。

 著者は、沖縄に増えた古民家カフェに毒づく。

 橋が近くなると「それ」は現れた。瀬底でもさんざん見た、古民家カフェの案内板。本島北部「やんばる」地域で、ここ数年間に大増殖した、赤瓦の古民家で営むカフェ。玄関で靴を脱いで畳の部屋に上がると、ゆったり流れるBGMは東南アジアの音楽。丸いちゃぶ台の上に焼き物のカップ、野菜中心のワンプレートランチ。ご飯は白米ではなく、十穀米など混ぜものが多くて・・・。
 好きになれないんだな、どうしても。
 もちろん中には、沖縄の自然と伝統建築を愛し、誠実に営む店もある。だが今まで入った古民家カフェの大半で「赤瓦の家でカフェ開きゃ客が来るべー」という根性が垣間見えた。心温まる会話もなく、気取って出てくるランチの味はスカスカ。そこに「沖縄本来の雰囲気が味わえるー」と、旅人(主に女子)が集まる状況も好きではない。

 かといって、毒づきがこの本の本領ではなく、十年ぶりに近いご無沙汰で訪れる島の人々との交流は「心温まる」ものだし、津堅島で、ついに食事のことを言い出せなくて素泊まりで宿を出てしまうなど、思わず笑ってしまうエピソードも多い。そして次々に島を訪ねていくスピード感。それが、変貌著しい沖縄の島々の速度に見合っていて心地いい。

 「観光は進んでいない、小さな島を中心に歩こう」。著者の志はそうなのだが、意外にそういう場所は少なく、観光後の案外を目の当たりにすることも多い内容になっている。著者が望んでいることは何だろう。

 穏やかで優しい島だ。だがそうした目に見えない島の良さは、なかなか伝わりにくく、もどかしい。赤瓦の集落をきっかけに島を訪ねた旅人が、島の空気を感じて伝え、広めていけばいいのが--。

 著者は、映画『群青』でブレイクすることのなかった渡名喜島について、こう書く。でも要は、たとえばこの本を読んで、渡名喜島の「目に見えない島の良さ」に惹かれて、島を訪れる人がひとりでもいればいい。著者の望みはそういうことにあるのではないか。そしてそれがこの本の魅力になっているのだと思える。

 著者は「琉球」を知るには沖縄だけではなく、「奄美」も、と、加計呂麻島も訪ねている。

 2日滞在し雑感。まず「沖縄」の2文字にいい顔をしない人が多かった。歌遊びの場でも「奄美民謡は沖縄民謡みたいに単調じゃない」と言われる場面があり、その他随所で「沖縄の話はできないな」と感じた。奄美は薩摩支配をうける前は琉球の支配下にあり、薩摩ほどの圧政はなかったと聞くが、それでも沖縄に対して反骨心に似た感情があるのだろうか。

 と、短い時間で、「奄美」コンプレックスも敏感に感じ取っている。

 読み終わり、琉球弧全島制覇の願望はいくぶん鎮静化し、それならどこを巡りたいか、という問いがやってくる。琉球弧を居住地と見定めさせる条件になっただろう干瀬(イノー)の発達した場所、古層を呼び覚ます祭儀の時間。そういったところだろうか、とひとまず気持ちを落ち着かせることにしよう。

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