シニグの因数分解 2
もう長い間、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラによって与論の稲作はもたらされてきたと思いこんできた。そうした考察を目にすることが多かったし、島人の上陸地点として聖地と見なされているのも、アーサキ(赤崎)を除けば、寺崎と黒花だからだ。そして、聖地とされるウガン(御願)と歴史とのつながりを、ロマンチックにすら感じてきた。
しかし、実はそうではないのではないか、というのが現在の考えだ。
理由は、単純で、与論のシニグを研究した大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究―種子島マキと奄美大島与論島ハラの社会学的研究(1960年)』によれば、クルパナ(黒花)・サークラの座元(ザムトゥ)は、
黒花オガンの地域を買ったのでパル・シニグを行う事となった。(p.266)
とあり、また、野口才蔵の『南島与論島の文化』では、ティラサキ(寺崎)は、琉球王府の版図になって以降に、島に到来した系譜が所有者であったと指摘されているからだ。購入が前提であれば、クルパナ(黒花)・サークラによって稲作がもたらされたとは言えないし、琉球王府の版図になる以前に稲作は伝来されているのだから、ティラサキ(寺崎)・サークラが稲作をもたらしたわけでもないことになる。それに気づくと、では購入される前、所有される前の、両サークラは誰が担ってきたのかと考えてきたが、それを尋ねたことはない。けれど、改めて考えてみると、その前は、両方ともサークラとして存在しておらず、購入や所有を契機にサークラが構成されたということではないだろうか。
たとえば増尾国恵は『与論郷土史』(1963年)において、ハニク・サークラ発祥について、こう書いている。
高井家は昔は茶花地域に人家は一戸もなく無人地区であるたが高井家祖先は赤佐に広大の地所を所有してゐたので今の城に立長といふ小字がある見良の東隣に故川畑北仁家の隣東立長畑といふ所から一人赤佐移住した処が続々人が移住するやうになり遂に一小部落となつた。そこで川内与人から償として此のシニュグ祭を与へたと伝はる。(p.67)
これは薩摩が直轄支配している時代のことではあるが、琉球王府が与論を版図に入れて以降、シニグは自然に育まれた祭儀ではなく、政治の制御が及ぶ共同祭儀と化していることが分かる。ティラサキ(寺崎)・サークラやクルパナ(黒花)・サークラの成立についても、こうした背景を置かなければならないかもしれないのだ。
ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラの関わるシニグ祭団には、他には見られない特徴がある。両者の行うシニグ祭は、ムッケー(迎え)・シニグとパル・シニグの二つの役割が存在することだ。そして、ティラサキもクルパナも、その中のパル・シニグを担い、ムッケー(迎え)・シニグと合流してシニグを行う。それ以外のサークラでは、ムッケー(迎え)とパルの分岐は見られない。
シニグに二つの類型があることは研究者たちの関心を呼んだようで、大山彦一は、この二つは、パル・シニグが古型であるとしている。
シニグにはパル・シニグとムケー・シニグとがある。パル・シニグは原シニグであって、シニグの古型である。昔、原即ち原野に於て行った原野の耕作地のためのシニグであって、サークラ無きところで行った。(『南西諸島の家族制度の研究』、1960年、p.240)
大山の考察の14年後、小野重朗は「与論島のシヌグとンジャミ」(1974年)のなかで、
私はAのパルシヌグとそれを迎える行事の部分が消失してBになったものと思う。(p.316)
と書き、パル・シニグとムッケー・シニグの両方あることが原型であるという考えを示した。大山がパル・シニグを古型であるとし、小野は両方あるのが原型であるとする点、ムッケー・シニグが新しい形であるか、元からあるものかについて相違はあるものの、パル・シニグが元からあったものとすることについて両者は共通している。
大山の判断がやや直観的であるのに対して、小野は根拠も挙げている。ひとつは、小野が取材をした1974年前の時点では、ティラサキもクルパナもサークラを構成せず、パルシニグが消失する事例が島人の記憶のなかでも起こっていること。そして、もうひとつ、ある。
第二は理論的にA(パル・シニグとムッケー・シニグの両方ある-引用者注)がB(パル・シニグの消失-引用者注)に比べて本来の古形であったことが考えられる。先ず、サト地区の六シヌグ祭団はサークラを出発するとみな最初に展望の広い崖の上のパンタに出る。しかも六祭団中の五祭団までは、北方の海の見える隆起珊瑚礁の同一線上のパンタに出る。そうして神路巡回コースはここで折り返してサト地区の中をめぐることになっている。これはこのパンタが巡回コースの中で最も重要な地点であることを教えている。A形のシヌグではこのパンタは北の海辺の御願から訪れてくるパルシヌグの座元(シヌグの神の依り代)を迎えて年柄、作柄をきく聖なる場所なのである。ところがB形のシヌグではこのパンタは単に旗をめぐるだけの場所となっている。パルシヌグの消失と共にパンタ儀礼だけが礼楽したまま残ったと見るほかはない(p.317)。
しかし、パル・シニグとムッケー・シニグの類型を持つ、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラが、土地の所有と購入から発生したと見なすここでの観点から言えば、この類型は新しいのではないだろうか。なぜなら、シニグが異なるサークラ間の交流という形式を持つこと自体、政治が加担した共同祭儀であることを意味しており、それも琉球王府の版図になって以降のことと考えられるからである。
島人の移住の経路を示すとされ、与論シニグの特徴でもあり根幹でもある神路から考えると、どうなるだろう。
大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究』には、ティラサキ(寺崎)・サークラとクルパナ(黒花)・サークラの両者の神路の経路が図示されている。このうち、クルパナ(黒花)・サークラの神路は、クルパナ・サークラとシニグを伴にしたユントゥクあるいはプサトゥのサークラが神路を案内できた可能性がある。同じ役割をティラサキ(寺崎)・サークラで演じたのはプカナ・サークラではないだろうか。野口才蔵によれば、プカナは、ティラサキとともにパル・シニグだった時期があり、ついで、ティラサキのムッケー・シニグになっているからだ。プカナはずいぶんと振り回されたのだと思う。
ところで、大山彦一の研究には興味深い記述がある。それは、ショウのグループのサークラに関するものだ。ショウは、以前は、「島の北海岸にあるテダラキから高千穂の東を経て、又吉の東で赤崎オガンの方向に向かって遙拝して解散した。大多数の氏子が叶、那間の遠距離であるので、又吉に於て東方赤崎オガンの遙拝に止めた」という。「テダラキ」とはティラサキのことだが、これはショウのグループが、ティラサキからの神路を持っていた可能性を示すものだ。しかもされにこれ以前があると言う。「さらにこれ以前。赤崎オガンの遙拝に止まらず、赤崎オガンまで行って祈りをしていた」。しかも、この神路は、ティラサキ(寺崎)サークラの経路とは異なる、と言う(p.252)。
この記述を信じるなら、これが意味するものは何だろう。アーサキ(赤崎)ウガンを聖地として持つ、ショウのグループが、ティラサキからの神路も持つとしたら、ショウ、キン、サキマ、アダマの各サークラのうち、アーサキ(赤崎)ではなく、ティラサキ(寺崎)を上陸地点として持つサークラがあるのではないかということだ。そしてもしそうなら、その名称が、赤(アー)とティラ(白)の響き合うニ対の地名を持つ謎も解きやすくなるのだ。
そしてこれを手がかりにすると、こういうことが考えられる。サトのサークラのうち、少なくとも、ショウのグループ、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシ、ユントゥク、プサトゥのいくつかは、クルパナ(黒花)、ティラサキ(寺崎)、ウァーチ(宇勝)などの上陸地点からの移住経路を示す神路を持っていた。しかし、土地に所有の概念が発生して以降は、その経路を辿れなくなった。こう考えると、小野の仮説は生きることになる。ただし、上陸地点に神が訪れ、パンタでそれを迎え、パンタや海岸で送るという神路の経路は、同一サークラ内で行われていて、サークラ間の交流の形態を取るようになったのは後代のことであるという点を除けば。
ぼくたちも小野の仮説に惹かれるが、まだ判断できるだけの材料を手にしていない。
(与論シニグ)∋{((パル・シニグ),(ムッケー・シニグ)),(神路)}
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