旅人 唐牛健太郎
1960年安保を主導した全学連委員長の唐牛健太郎が与論島にいたことがある。1969年の2月から7月までのことだ。唐牛はなぜ与論島を訪れたのか。
唐牛を全学連委員長に抜擢し自身も全学連の書記長として60年安保を闘った島成郎は、自身を含めた安保以
後の困難について書いている。
ところがこの実社会での再出発という最初のとばぐちで、唐牛は生涯ついてまわった「六〇安保闘争の全学連委員長」という称号の負の力をまず味わわねばならなかった。 唐牛ならずとも、若き日革命を論じた左翼運動に走ったものならば誰でも、社会の報復の厳しさに一度は身を晒さなければならないだろう。(島成郎『ブント私史―青春の凝縮された生の日々 ともに闘った友人たちへ』2010年)
唐牛ならではの辛さについても、島は突っ込んで書いている。
彼が真剣に心を痛めたのは「たかが二十歳の若造が東京に出てきて、一年そこそこの間、酒を飲み飲みデモをして暴れ何度か豚箱に入った位のこと」が何時の間にか「戦後最大の政治闘争の主役全学連委員長」というシンボルとなって一人歩きし自分にまとわりついてしまっているという事態であり、あの運動と組織の象徴を担わされていることを初めて自覚したことにあった。 また「安保も全学連もブントも、今のあっしにゃ関わりのないことでござんす」といってしまうには、まだあの体験はあまりにも生々しく、そして彼も若かった。(島成郎『ブント私史』2010年)
「全学連委員長」という称号が「負の力」を持つことが今では想像もつかないかもしれないが、日本の組織は今でも非寛容であることには本質的に変わりないと思う。それは、個人を襲い、ひとり辛酸をなめることになる。唐牛とて例外ではなかった。
そして齢三十をこえ自分の生を見つめて一つの跳躍を考えていたのであろう。一九六九年、彼は私にも一言もなく忽然と東京から姿を消したのだった。(島成郎『ブント私史』2010年)
東京から姿を消した唐牛が向かったのが与論島だった。これを推して考えれば、唐牛は彼を知る人のいない場所に行きたかった。そしてひっそりとしていたかったに違いない。そこで、沖縄が復帰する前の最果ての地として与論は選ばれた。しかも北海道出身の唐牛にとって国内で行ける範囲で故郷から最も遠い場所という意味でも果てだった。そうではないだろうか。だが、数年後に沖縄復帰を控える与論島は日本の社会に組み込まれつつあり、最果ての地を脱色しはじめていた。唐牛は与論でも旅人によって発見されてしまい、数ヶ月で与論を後にしなければならなかったのだ。
唐牛は与論で土方をしていたという以上の消息をぼくは知らない。けれど、来た当初なのか、赤崎近辺の海辺の岩場を、唐牛が住んだことがある場所として案内されたことがある。岩場のほら穴のなかは白砂が敷き詰められて広さもあり潜伏という言葉が似合う。あるいは与論に最初に来た島人はここを拠点にしたかもしれないと思わせた。ほら穴は真っ暗なのではなく、陽の加減によって小さな穴から陽射しが差しこみ、それが白砂をほのかに照らしていた。唐牛もこの光を見ただろうか。
ただ、今になって分かるのは唐牛は単独行ではなく、奥方を伴っていた。そう考えると、ほら穴生活は長くはできなかっただろうし、ひょっとしたら唐牛らしい伝説なのかもしれなかった。
島の唐牛健太郎像が深い友情に支えられながら、その記述が客観的なものに終始するのに比べて、妻の島ひろ子の描く唐牛は肉感的でこちらの方が素顔の唐牛を描写してくれている。
一九五八年頃、唐牛氏が上京の際我が家に来てから、上京の度に家に顔を出すようになった。この頃、島は留守の時が多く、自ずと唐牛氏と接する機会は私の方が多かったこともあり、また最初から私とは波長があって、よlく話しをした。会話がめちゃくちゃ面白くて、未だにあれだけ豪快でいて繊細、知的でいてハチャメチャな会話をするでたらめな男には出会ったことがない。(島成郎『ブント私史』2010年)
「豪快でいて繊細、知的でいてハチャメチャな会話をするでたらめな男」は、晩年、徳田虎雄を支援して奄美にふたたび縁を持った。しかしその最初の機縁は与論島にあり、与論は、政治運動とその余波に苦しんだ男を束の間でも許容して受け容れたのだった。酒好きだった唐牛は与論献奉をしたろうか。あの星空をどんな気持ちで眺めたろうか。
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