境界が溶けるときの放心
与論では境界は溶けやすい。
さざ波となって浜辺に届く海は、白砂を静かに洗うけれど、透明と白の共演はどこまでが波でどこまでが砂浜なのか見分けにくい。おまけにその波形は定まることはなく押し寄せる波のたびに形を変える。しかも、大潮ともなれば、沖あいのリーフまで珊瑚礁が浮上して、その向こうに外海が広がり、陸はその範囲を広げる。ほんとは海と陸を区別する線を引くのは難しい。
島は南岸の一部を除けば、白砂の浜辺なのだから、与論はどこもそう。潮の加減で東方の礁湖に浮かびその度に形を変える百合が浜は境ゆらめく島の象徴だ。
他界した人を土葬のあとに洗骨するのは、別れの儀式であるというだけでなく近親者との再会だ。また、旅人への歓待と称して黒糖焼酎を飲み交わし続ければ酩酊はほどなくやってきて、心は相手へと浮遊しだす。安易な方法だけれど極度な人見知りが一夜にして仲良くなるための苦肉の策ではある。
与論では、陸と海、死者と生者のあいだはひと続きになっていてそこに明確な境界は引けない。境界を引こうとすれば、それはその瞬間からゆらめきだすだろう。酒の酩酊どころではなく、魂もいつでも浮遊していきやすい。
与論でしか味わえないあの感じを言葉にしようとすれば、それはこの境界が溶けるときの心ここにあらずの放心のことだと言えるような気がする。それは島人だけが知っていることではない。島を訪れた誰しもに、そういう構えさえあればいつでも訪れる。境界が溶けるときの放心。それが与論島クオリアではないかと思う。
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