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2013/01/20

与論献奉

 苦肉の策ということでいえば、旅人(たびんちゅ)という言葉以上に、「与論献奉」がそうだと思う。与論といえば、と旅人に問えば「蒼い海」の次に挙げられるのが、あの酒の酌み交わしの儀礼である「与論献奉」だ。与論献奉は、まず親役の人が口上を述べて杯に注がれた黒糖焼酎を飲みほし、次は座に集っている隣りの人が同じく口上を述べて飲み干す。これを座の一堂が一巡するまで繰り返す。よせばいいのに場合によっては、次は隣りの人が親役になってまた同じことを繰り返す。かくして、酔いは一挙にまわり翌日、身動きできないほどの二日酔いになるのも惜しまずに延々と続く。それが人気もあれば悪名も高い与論献奉なのだ。

 悪名高いのになぜ、無くならないのだろう。やるにしても少しは節度をもってすべきだろう。ぼくもそう思う一人ではあるけれど、腑に落ちる理由が思い当たらないこともない。

 民俗学者の柳田國男は、明治になって酒の用途が増えてきたとして書いている。

 手短にいうならば知らぬ人に逢う機会、それも晴れがましい心構えをもって、近付きになるべき場合が急に増加して、得たり賢しとこの古くからの方式を利用し始めたのである。明治の社交は気の置ける異郷人と、明日からすぐにもともに働かなければならぬような社交であった。
 常は無口で思うことも言えぬ者、わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者が、抑えられた自己を表現する手段として、酒徳を礼賛する例さえあったのである。
 酒は飲むとも飲まるるなということを、今でも秀句のごとく心得て言う人があるが、実際は人を飲むのがすなわち酒の力であった。客を酔い倒れにしえなかった宴会は、決して成功とは言わなかったのである。(『明治大正史世相篇』柳田國男、1930年執筆)

 それまで藩内の人と藩に流通する言葉で話し、仕事をすればよかったのに、それができなくなったのが、明治という近代化の意味だった。「異郷人と、明日からすぐにもともに働かなければなら」ないとき、日本人はどうしたか。「客を酔い倒れ」にするしかなかった。酒の酩酊のなかで打ち解け、気心を通じ合わせ、明日から共に仕事ができるようにしたというのだ。

 こう補助線を引いてみると、与論献奉の意味も自ずと知れてくる。島人は「常は無口で思うことも言えぬ者、わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者」というより、極度の人見知りだ。打ち解けるには共に過ごす時間が要る。けれど、観光に訪れた旅人はその時間をふんだんに持っているとは限らない。むしろ、船旅の時間の方が長いにもかかわらず与論を訪れ僅かな時間を島を楽しむことに費やすのが、飛行機以前の与論旅だった。しかも、相手は旅の恥はかき捨てと思いかねない若者たち。

 この容易ならざる事態に人見知りをもってする島人はどのように対処したか。明治人と同様に、「客を酔い倒れ」にするほど飲むことだった。二日酔いになっては翌日の観光に差しさわりがあるだろうと冷静には考えられたとしても、やはり酔い倒れにしてこそ「成功」なのだった。そうであればこそ、翌日から仲良くできるからである。

 幸か不幸か島人は酒に強い人が多い。かくて、与論献奉は極度な人見知りが観光を生業として成り立たせるために編み出した苦肉の策であるというのがここでの見立てである。黒糖焼酎の力を借りて酩酊し、島人と旅人の垣根をほぐして溶かし、あいまみえる融合のひと時を持つ。与論らしい、これも身ぶりのひとつに数えよう。

「旅人 2」

 

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