隆起珊瑚礁の島
隆起珊瑚礁の島
与論は隆起珊瑚礁の島。これは、珊瑚礁のある島ということではなく、島自体が珊瑚礁でできたということ、言って見ればまるごと珊瑚礁製ということだ。その上それが盛り上がって島になったという。なんだかすごい。
島はいつ海上に出現したのか、定かではない。与論と同じ隆起珊瑚礁の島、喜界島の高台をなしている百之台は、最近の研究によれば約十万年前にできたという。それから隆起が始まり島となって、現在では百之台の標高は二百メートルに達している。十万年間で二百メートル隆起したことになるが、これは世界でも最高水準の隆起速度なのだという。
対するにわが与論はというと、標高は97.2メートルと百メートルにも満たない。その高さは百之台の半分以下で、喜界島と大きく変わらない時代に隆起が始まっているとしたら、隆起速度にかけても与論は与論らしくのんびりだったのだ。
琉球の古典歌謡集である「おもろそうし」で、与論は「かゐふた」と歌われている。「かゐふた」と言われると「貝の蓋」と連想したくなるが、それは標準語の誤解というもので、「ふた」は集落の意味らしい。「かゐ」の意味はいまだ謎。いったいどんな集落だ形容されていたんでしょう。ただ、この誤解の連想はゆえないことではなく、船旅で与論に近づくと島影はいまに海にも没してしまいそうなほど水面すれすれに見える。それは切なくなってしまうほどだ。「与論小唄」で「木の葉みたいなわが与論」とはよく歌ったもの。与論はそのたたずまいからしてその存在を主張してないかのよう。抱きしめたくなる島なのはこのはかなげなさまからもやってくる気がするのだ。
けれど、ほんとうはただ平べったいというだけではない。仔細にみると島は三つの台地からできている。島の中央よりやや西に南北に走る崖があって、それがまず島を東西に分けており、崖の西側は低地で茶花などの街がある。東側は東西に走る崖で分かれていて、東北の台地とそれより高く古い街が密集している東南の台地に分かれている。
そして地図をよく眺めていると、中央に走る崖は、宇勝の手前当りで北北西を軸にずれたような痕跡が見られる。確かなことは分からないけれど、単に珊瑚礁がそのまま均等に盛り上がったわけではなく、地層としてのこの島の成り立ちにもドラマがあったことを伺わせるのだ。
だから、はかない島影と言っても島内を歩いてみれば小さな坂の繰り返しで起伏に富んでいる。島を二周するヨロンマラソンもかなりハードだという呼び声が高いのは低地にみえるのにアップダウンの激しい島の起伏によるものだ。
「島のはじまり 1」
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