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2013/01/24

旅人 森瑤子

 鴨志田のように自滅旅の寄港地としてではなく、唐牛の身を隠すような滞在でもなく、与論に別荘地として居を構えた旅人もいる。作家の森瑤子だ。記録によれば、森は1987年に与論島を訪れ、その翌年には島に別荘地を建てている。それどころか、探訪しただろう島と山田実の『与論島の生活と伝承』をもとに、別荘を建てた年には与論を舞台にしたファンタジー『アイランド』も書いている。

 思い立ったが吉日とばかりの即決と行動は、森の気性を問わず語りに伝えるが、彼女は与論の何に魅入られたのだろう。それは『アイランド』のなかにも垣間見えるかもしれない。

 しかし、沖縄ではない。沖縄ではないが、その近辺の島だ。彼の脳裏にエメラルドグリーンの珊瑚礁が浮かび、眼に痛いような純白の砂浜が弓なりの曲線を描いて横たわるのが一瞬ありありと見えた。(森瑤子『アイランド』1988年)

 『アイランド』が、与論に残る羽衣伝説に素材を採ったように、島の伝承は作家の想像力を刺激しただろうが、森が別荘を構えたのは、与論の珊瑚礁美、それが最初の一撃だったのではないかと思う。「エメラルドグリーンの珊瑚礁が浮かび、眼に痛いような純白の砂浜」という色の演じる美しい光景は着陸寸前から森の心を捉えたのではなかったか。

 森が与論をどう評していたのか、ぼくは詳しくない。ただ、『アイランド』の解説を担当した女優、浜美枝の文章はそれを代弁しているようにも読める。

 ある日、私は島にいた。そこは与論島の森瑤子さんの別荘だった。彼女とはもちろん東京で会っているのだが、出会いの記憶はどうしても与論で始まる。私はその夜、別荘からそっと抜け出して、瑤子さんのプライベートビーチに向かった。家から小道をぬけていくと月に照らされた美しい砂とヒタヒタと穏やかに寄せる波の可愛いビーチがある。昼間なら遠くを行く船から見えもしようが、夜の海に人の視線を気づかう必要はない。
 私はTシャツもショートパンツも脱ぎ捨ててそのビロードのような海に身をまかせた。裸の皮膚に海水はなめらかにまとわりつき、その心地よさは水着をつけての戯れなどに比べるべくもない。ゆるやかに波が私を包み、その波に私も律動し、寄せては返しするうちに、私はあたかもこの海と一夜を過ごしてしまいそうな誘惑にかられた。(同前掲)

 浜の解説は、与論の愉楽をよく捉えている。あの海を前にすれば人は裸になりたくなる。そうしてどうするのか。一夜を過ごすというのは、海と一体化して自然と溶けあうということだ。あの愉楽を森も知っていたに違いない。

けれど森は与論と一夜を過ごすのではなく、永遠の伴を選択した。彼女は与論に別荘を建てた五年後の93年に没するが、島に墓を作ることを決め、今も与論島に眠っている。

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2013/01/23

旅人 唐牛健太郎

 1960年安保を主導した全学連委員長の唐牛健太郎が与論島にいたことがある。1969年の2月から7月までのことだ。唐牛はなぜ与論島を訪れたのか。

 唐牛を全学連委員長に抜擢し自身も全学連の書記長として60年安保を闘った島成郎は、自身を含めた安保以
後の困難について書いている。

 ところがこの実社会での再出発という最初のとばぐちで、唐牛は生涯ついてまわった「六〇安保闘争の全学連委員長」という称号の負の力をまず味わわねばならなかった。  唐牛ならずとも、若き日革命を論じた左翼運動に走ったものならば誰でも、社会の報復の厳しさに一度は身を晒さなければならないだろう。(島成郎『ブント私史―青春の凝縮された生の日々 ともに闘った友人たちへ』 2010年)

 唐牛ならではの辛さについても、島は突っ込んで書いている。

 彼が真剣に心を痛めたのは「たかが二十歳の若造が東京に出てきて、一年そこそこの間、酒を飲み飲みデモをして暴れ何度か豚箱に入った位のこと」が何時の間にか「戦後最大の政治闘争の主役全学連委員長」というシンボルとなって一人歩きし自分にまとわりついてしまっているという事態であり、あの運動と組織の象徴を担わされていることを初めて自覚したことにあった。  また「安保も全学連もブントも、今のあっしにゃ関わりのないことでござんす」といってしまうには、まだあの体験はあまりにも生々しく、そして彼も若かった。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 「全学連委員長」という称号が「負の力」を持つことが今では想像もつかないかもしれないが、日本の組織は今でも非寛容であることには本質的に変わりないと思う。それは、個人を襲い、ひとり辛酸をなめることになる。唐牛とて例外ではなかった。

 そして齢三十をこえ自分の生を見つめて一つの跳躍を考えていたのであろう。一九六九年、彼は私にも一言もなく忽然と東京から姿を消したのだった。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 東京から姿を消した唐牛が向かったのが与論島だった。これを推して考えれば、唐牛は彼を知る人のいない場所に行きたかった。そしてひっそりとしていたかったに違いない。そこで、沖縄が復帰する前の最果ての地として与論は選ばれた。しかも北海道出身の唐牛にとって国内で行ける範囲で故郷から最も遠い場所という意味でも果てだった。そうではないだろうか。だが、数年後に沖縄復帰を控える与論島は日本の社会に組み込まれつつあり、最果ての地を脱色しはじめていた。唐牛は与論でも旅人によって発見されてしまい、数ヶ月で与論を後にしなければならなかったのだ。

 唐牛は与論で土方をしていたという以上の消息をぼくは知らない。けれど、来た当初なのか、赤崎近辺の海辺の岩場を、唐牛が住んだことがある場所として案内されたことがある。岩場のほら穴のなかは白砂が敷き詰められて広さもあり潜伏という言葉が似合う。あるいは与論に最初に来た島人はここを拠点にしたかもしれないと思わせた。ほら穴は真っ暗なのではなく、陽の加減によって小さな穴から陽射しが差しこみ、それが白砂をほのかに照らしていた。唐牛もこの光を見ただろうか。

 ただ、今になって分かるのは唐牛は単独行ではなく、奥方を伴っていた。そう考えると、ほら穴生活は長くはできなかっただろうし、ひょっとしたら唐牛らしい伝説なのかもしれなかった。

 島の唐牛健太郎像が深い友情に支えられながら、その記述が客観的なものに終始するのに比べて、妻の島ひろ子の描く唐牛は肉感的でこちらの方が素顔の唐牛を描写してくれている。

 一九五八年頃、唐牛氏が上京の際我が家に来てから、上京の度に家に顔を出すようになった。この頃、島は留守の時が多く、自ずと唐牛氏と接する機会は私の方が多かったこともあり、また最初から私とは波長があって、よlく話しをした。会話がめちゃくちゃ面白くて、未だにあれだけ豪快でいて繊細、知的でいてハチャメチャな会話をするでたらめな男には出会ったことがない。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 「豪快でいて繊細、知的でいてハチャメチャな会話をするでたらめな男」は、晩年、徳田虎雄を支援して奄美にふたたび縁を持った。しかしその最初の機縁は与論島にあり、与論は、政治運動とその余波に苦しんだ男を束の間でも許容して受け容れたのだった。酒好きだった唐牛は与論献奉をしたろうか。あの星空をどんな気持ちで眺めたろうか。
 

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2013/01/21

旅人 鴨志田穣

 「家内」に「どこでもいいから早く出てゆき」と言われ、「売り言葉に買い言葉」、「わかったよ、よそでガブガブ飲んで来てやるよ」と家出したはいいが、行く当てとてない。ひょんなことから、西の端っこまで行ってやろうと思い決めた鴨志田は与論島に立ち寄る。この、男ならではかもしれない退路につぐ退路、落ちることに歯止めの効かない、つげ義春にも似た自滅行の行く先に与論島も選ばれた。

 奄美本島へ着岸し、車のスピードを上げ、空港へと向う。
 与論島への最終便に乗る事が出来た。
 与論に観光客は全くと言っていいほどいない。
 日本の端は沖縄に変ってしまったからだった。
 どうしよう。鹿児島の先っぽまでは来てしまった。
 それにしても寂しい。
 メシもことごとくまずい。(鴨志田穣『日本はじっこ自滅旅』2005年)

 鴨志田が島に立ち寄ったのは、2003年ごろだと思われるからそう昔のことではない。島の名誉のために言っておけば、「メシもことごとくまずい」ことはない。最近、ずいぶん美味しい店が増えたと思う。

 茶花では、郵便局近くの「ふらいぱん」、イタリアンの「アマン」にフランス料理の「地中海」、美味しい珈琲を淹れてくれる「Cafeチカ」に「海カフェ」。ベトナム珈琲が飲める「みじらしゃん」、映画『めがね』の舞台になったビレッジの食堂。プリシア・リゾートの「ピキ」、空港近くでもずくそばを出してくれる「蒼い珊瑚礁」、島の北部の「たら」。昔に比べたら素直に美味しいと思える店が増えたのだ。

 まぁ、けれど、鴨志田の「メシもことごとくまずい」、この言い切りは好きだ。
 鴨志田は居酒屋で「おやじ」に絡まれるが、絡まれるだけでなく、「与論は日本ですか、それとも琉球ですか」と本質的な問いをぶつけている。

 居酒屋の壁に三匹、やもりがテロチロと虫を捕らえようとうごめいている。 「チチチッ」  と鳴いた。  声を聞いていると日本なのか、東南アジアのどこかにいるのか判然としなくなってくる。  おやじに聞いた。 「与論は日本ですか、それとも琉球ですか」  しばらく宙を見つめるおやじ。 「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」  どうやら無辺際まで来てしまったようだ。  もっと西まで行くしかないのだな。(同前掲)

 「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」という「おやじ」の呟きは与論心情をよく言い当てていると思う。このひと言を呼び寄せただけでも、与論に立ち寄ったと言える台詞だ。「チチチッ」とヤモリの鳴き声も捉えて聞くべき音も逃していない。

 この、「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」という与論心情は、鴨志田が奄美大島で聞いた台詞と対比させると、その背景がよく浮かび上がってくる。

 客が誰もいなくなった店で、三人でウィスキーのロックを飲み乾した。
 「じゃあ、もう一つだけ質問。自分達は鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」
 「奄美人です」
 と母親はきっぱりと答えた。
 「でも沖縄の人の心は判りやすい」
 とも言った。(同前掲)

 奄美大島では、「鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」と問い、与論島では「日本ですか、それとも琉球ですか」と問う、この問い方のセンスには感心するのだが、ぼくが与論心情と言いたいのは、「鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」と聞かれ、大島の「母親」のように、「奄美人です」のように、「与論人」と言うよりは、「どちらかといえば沖縄人でしょう」と答えるだろうことにある。もちろん、「与論人(ゆんぬんちゅ)」という強固な確信は持っているのだが、「鹿児島」、「沖縄」と同列に並べたときに、そこに「与論」を対置するのにためらいが過ぎる。それだけの大きさ多さはなく、主張するほどでもないという気持ちに傾くのが与論だろうと思う。

「旅人 3」

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2013/01/20

与論献奉

 苦肉の策ということでいえば、旅人(たびんちゅ)という言葉以上に、「与論献奉」がそうだと思う。与論といえば、と旅人に問えば「蒼い海」の次に挙げられるのが、あの酒の酌み交わしの儀礼である「与論献奉」だ。与論献奉は、まず親役の人が口上を述べて杯に注がれた黒糖焼酎を飲みほし、次は座に集っている隣りの人が同じく口上を述べて飲み干す。これを座の一堂が一巡するまで繰り返す。よせばいいのに場合によっては、次は隣りの人が親役になってまた同じことを繰り返す。かくして、酔いは一挙にまわり翌日、身動きできないほどの二日酔いになるのも惜しまずに延々と続く。それが人気もあれば悪名も高い与論献奉なのだ。

 悪名高いのになぜ、無くならないのだろう。やるにしても少しは節度をもってすべきだろう。ぼくもそう思う一人ではあるけれど、腑に落ちる理由が思い当たらないこともない。

 民俗学者の柳田國男は、明治になって酒の用途が増えてきたとして書いている。

 手短にいうならば知らぬ人に逢う機会、それも晴れがましい心構えをもって、近付きになるべき場合が急に増加して、得たり賢しとこの古くからの方式を利用し始めたのである。明治の社交は気の置ける異郷人と、明日からすぐにもともに働かなければならぬような社交であった。
 常は無口で思うことも言えぬ者、わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者が、抑えられた自己を表現する手段として、酒徳を礼賛する例さえあったのである。
 酒は飲むとも飲まるるなということを、今でも秀句のごとく心得て言う人があるが、実際は人を飲むのがすなわち酒の力であった。客を酔い倒れにしえなかった宴会は、決して成功とは言わなかったのである。(『明治大正史世相篇』柳田國男、1930年執筆)

 それまで藩内の人と藩に流通する言葉で話し、仕事をすればよかったのに、それができなくなったのが、明治という近代化の意味だった。「異郷人と、明日からすぐにもともに働かなければなら」ないとき、日本人はどうしたか。「客を酔い倒れ」にするしかなかった。酒の酩酊のなかで打ち解け、気心を通じ合わせ、明日から共に仕事ができるようにしたというのだ。

 こう補助線を引いてみると、与論献奉の意味も自ずと知れてくる。島人は「常は無口で思うことも言えぬ者、わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者」というより、極度の人見知りだ。打ち解けるには共に過ごす時間が要る。けれど、観光に訪れた旅人はその時間をふんだんに持っているとは限らない。むしろ、船旅の時間の方が長いにもかかわらず与論を訪れ僅かな時間を島を楽しむことに費やすのが、飛行機以前の与論旅だった。しかも、相手は旅の恥はかき捨てと思いかねない若者たち。

 この容易ならざる事態に人見知りをもってする島人はどのように対処したか。明治人と同様に、「客を酔い倒れ」にするほど飲むことだった。二日酔いになっては翌日の観光に差しさわりがあるだろうと冷静には考えられたとしても、やはり酔い倒れにしてこそ「成功」なのだった。そうであればこそ、翌日から仲良くできるからである。

 幸か不幸か島人は酒に強い人が多い。かくて、与論献奉は極度な人見知りが観光を生業として成り立たせるために編み出した苦肉の策であるというのがここでの見立てである。黒糖焼酎の力を借りて酩酊し、島人と旅人の垣根をほぐして溶かし、あいまみえる融合のひと時を持つ。与論らしい、これも身ぶりのひとつに数えよう。

「旅人 2」

 

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2013/01/19

旅人(たびんちゅ)

 旅人(たびんちゅ)

 島人同士の会話で使われる与論方言のことを島では与論言葉(ゆんぬふとぅば)と呼んでいる。与論言葉は琉球方言の言葉で、風を意味する「はでぃ」は琉球弧で広く使われているものもあれば、正確には知らないけれど、猫を意味する「みゃんか」など、与論ならではの言葉もある。

 与論言葉では旅人のことを「たびんちゅ」と言う。旅人にはふた様の意味があって、文字通りの旅人、観光客を指す場合と、大和から移住して与論に住んでいる人のことを指す場合がある。琉球弧でよく使われる大和人(やまとぅんちゅ)という言葉がないわけではなく、局面によっては使うのだけれど、日常的には大和人と呼ぶのを控えるように、「たびんちゅ」と言うのだ。

 「たびんちゅ」という言葉がいつ頃から使われているのか、定かではない。けれど、「旅」と現在の標準語を引用しているようにその使用は古いものではなく、近代以降のことではないかと思う。与論では大和人を使わずに旅人と言う。その使い方には与論らしい身ぶりがあるというのが、ぼくの見立てだ。

 旅人という呼称には、大和人という言葉が否応なく招く、大和vs島という対立の契機が抜き取られている。いや、正確には対立することのニュアンスで使われることもあるのだけれど、なるべくそれを招かないように旅人と呼んでいる気がするのだ。島人と旅人は対立関係にあるわけじゃない。そのことへの気遣いを、旅人という言葉は背負っているのではないだろうか。

 もちろん、そうは言っても、島人と区別するときに使われるものであれば、島には厳然と島の者とそうでない者とに区別する意識が働いているのであり、そのことで苦労している移住者の話も耳にしないわけではないし、目の当たりにすることもしばしばだ。それでも、その区別の垣根が他の島に比べると低いように感じられる。山のない島姿のように風通しがいい。

 与論が観光名所として東京を始めとする大和から島の規模に比べたら大量の観光客を迎えた時期があり、その時代を潜り抜けることができたのは、「大和vs島」という対立の構図が浮かび上がりにくかったからだと思う。そしてその歓迎の気持ちを担ったのが旅人(たびんちゅ)という言葉だった。もちろん、垣根が低かったから招くことができたのか、大挙して押し寄せてきたから苦肉の策として垣根を下げたのかは本当のところは分からない。けれど、多くの旅人たちと接するなかで、「大和vs島」という対立の垣根を下げてきた努力があったことは確かだと思う。

 ここにある身ぶり。既存にある大和人という言葉を使わずに、旅人という言葉を使う。そこにも、「大和vs島」という境界を消し去ろうとする与論ならではの振る舞いを感じるのだ。

「旅人 1」

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2013/01/17

境界を溶かす珊瑚礁

 境界を溶かす珊瑚礁

 珊瑚礁の海は死滅が危惧されている珊瑚が母胎となって、さまざまな生物を育む。ふだんでも、青さが採れ、ベラやハゼなどの魚を採れる。ニモが愛称のクマノミも場所を選べば海亀に出会うことも稀ではない。六月になれば、不思議な魚、アイゴの稚魚(与論ではイューガマ)が外海から大挙してやってくる。珊瑚礁大潮で潮が引いて珊瑚礁が陸地として浮上すると、ウニや貝も採れる。その場で食べるウニは鮨屋のウニではなく、命をいただいている敬虔な気持ちにさせてくれる。礁湖(礁池)は琉球弧の島ではイノーと呼ばれるが、イノーは別名、海の畑と呼ばれる所以だ。珊瑚礁が発達して人が住める環境が整ったというのはその通りだと思える。

 人類学の高宮広土は狩猟採集の生活が成り立つためにはそれに見合う土地の面積が必要だけれど、「沖縄のような島々で狩猟採集を糧として生きてきた人々がいたという事実は世界的に大変珍しいと思われる」(「沖縄タイムス」2012年2月13日)と書いているが、そうだとしたら、イノーの恵みがどれほど大きかったが分かる。

 驚くことに与論には数多の地名があるけれど、地名が存在するのは陸地だけではない。イノーにだって、地名が名づけられていて、所有者がいたこともあった。畑と呼ぶにふさわしいのはこうしたことでも言える。

 与論は珊瑚礁でできているというだけでなく、与論にとっては格別の意味を持っている。与論島の礁湖は琉球弧のなかでも「最も幅が広い」と言われていて、それだけ珊瑚礁の海を堪能できるしその恩恵に預かってきた。その上、砂浜は南岸の一部を除いて島全部を囲っている。与論は砂浜に恵まれた島だ。

 砂浜の向こうには珊瑚礁が控えている。白砂があるということは、海は遠浅に連なる。外海との距離が大きければ大きいほど、浅い穏やかな海が広がる。黒潮の流れる外海とは違う。珊瑚礁の湛える海は礁池や礁湖とよばれるように静かなときは池や湖のように穏やかなのだ。

 白の砂浜に立てば、穏やかにさざ波が足を洗ってくれる。波は透き通っていて砂浜をそのままに見せている。波がどこまで届くか目をやれば、波の線を描いてまた引いていく。次に寄せる波はまた違う波の線を描く。そこに陸地と海とを区別する境界線を引こうとしても、実はそれは定かではない。そのときどきの波の線が違うというだけではなく、引き潮のとき満ち潮のときでそれは違うからだ。

 ことは汀だけではない。珊瑚礁が海で浸っているとき、そこは海だけれど、大潮のときは陸になって、海の境界はリーフの外になる。浜辺とリーフと。二重の意味で、海と陸の境界はあいまいにされ、境界はその都度変わる幅を持つ。ここに明確な境界を引くことは、本当はできない。

 徳之島の民俗学者、松山光秀は珊瑚礁の地域の文化を「コーラル文化」と呼んだが、その文化圏の基本構造をます珊瑚礁について、三段階に分け、それを沖のコバルトブルー、干瀬のブラウン、砂浜のホワイトと色合いの変化として言い当てている(『徳之島の民族2』2004年)。与論ではこの三段階の色の変化が島を覆っている。いや、コバルトブルーは、それにとどまらず、陽の加減で淡い青や緑も鮮やかに放つ。

 与論は島の周りのほとんどがこの浜辺とリーフによって境界を振幅させる。汀に立つだけでも、寄せては返すさざ波の安らかな音色に耳を澄ませていると、心は次第に心身を離れていく。あれこれ悩んで囚われている身体を抜けだして、心ここに非ずになるだろう。自分が動物や植物だった頃に戻っていくような気がしてくる。それは懐かしい感覚だ。懐かしいから怖くない。与論ではほとんどどの海辺でもこうした放心を味わうことができるだろう。これが与論ならではの、あの感じ、与論島クオリアのひとつだ

「島のはじまり 4」

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2013/01/16

島人のはじまり

 島人のはじまり

 島はそもそも海中にあった珊瑚が海上を目指すように上へ上へ押し上げられたことで生まれた。そして、今ぼくたちが泳いでいる珊瑚礁ができたのはそれからずっとあとのことになる。

 珊瑚礁は海面下から形成を始める。ある研究では、与論の珊瑚礁の外海と隔てるリーフ部分は海面下3m付近から海面に向かって5,260年から3,230年前にかけて形成された(「琉球列島与論島の現成裾礁の地形発達」)。そして別の研究では与論島の現在の珊瑚礁が海の中から姿を現したのは3500年前とされている。これはお隣りの沖縄北部も同様だったようだ。3500年前という海面への到達時期は、石垣島と西表島の間の石西礁で約6500年前、久米島で約5500年前というから、与論は遅い。

 この、珊瑚礁成長ののんびりさ加減においても与論らしさを感じてしまう。自然に属することだから単純に擬人化してはいけれないけれどそう思えてしまう。いや、こののんびりさ加減こそは与論の島人の性質の土台になってきたものではないかと思ってしまうほどだ。

 珊瑚礁が形成されるということは人類にとって重要な出来事だった。それは、珊瑚礁ができることで砂州が形成され、打ち上げられた砂礫がちょっとした峰となって海岸平野をつくり、また同時に珊瑚礁が浜辺を安定させる。浅く穏やかな礁湖ができてそこに生息する海の生き物たちが人の資源になるからだ。

 与論も例外ではなかった。それというのも、与論で人類の痕跡が認められるのも現在までのところ三千数百年前を上限としているからだ(イチョーキ長浜貝塚)。珊瑚礁が海面に浮上したとされる頃、島には島人の形跡が残されている。この符合は、与論が珊瑚の島となって人類はここを居住地に選べるようになったと見なすことができる。他の島より遅く珊瑚礁ができ、それならばと、与論に上陸しいついた島人がいたと考えられてくる。

 けれどそれは、その前には与論には人はいなかったと断言できることにはならない。約2万年前の最終氷期には現在より海面の水準は120~140メートル低くかったから、与論の標高も当時は百メートルを上回っていたことになり、ということは、かつての陸地は海に没していることになる。与論でダイビングをすれば、洞窟が見つかるという話しも聞く。今は海中だけれど、そこに島人が住んだ痕跡が見つからないとは限らない。現に那覇市で見つかった「山下町第一洞人」の化石人骨は後期旧石器時代の三万二千年前の頃のものであり、奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡も同じ後期旧石器時代のもので、3500年前に比べても恐ろしく古い。だから、珊瑚礁形成時に島人も住み始めたとするのは、少なくとも、と注意して置く必要はあるのだ。

「島のはじまり 3」

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2013/01/15

島のはじまり

 島のはじまり

 ともあれ、与論は隆起珊瑚礁の島。そのことは、島のあちこちで見かける珊瑚岩からも知ることができる。開拓のため土地を掘れば生まれたてのような真っ白な珊瑚岩に出会う。それを民家では石垣に使ってきた。

 船の誘導灯があるほどの高さの島の中央の高台にも珊瑚岩が見つかる。いや見つかるどころではなく、珊瑚岩がちょっとした渓谷のように連なっていて、与論らしくないちょっとした壮大な景観を楽しめる。そしてその壮大さに見合うように、実はそこは与論の神話に名高いハジピキパンタなのだ。以前は鬱蒼とした森の状態で知る人ぞ知る、知る人しか行けない場所だったが、いまは整地されて誰でも足を踏み入れることができる。もっとも聖地だから、それがいいことなのかどうかは分からないけれど。

 その神話で、島のはじまりはこう言われている。

 むかしむかし、とてもとても、はるかに遠い大昔のことです。
 与論島が、まだ島としてでき上がっていない時代に、アマミクとシニグクのおふたりの神が、魚取りをしようとして舟に乗って、遠いところへ行っている時、舟の舵が浅い瀬にかかって、舟はついに止まってしまった、ということです。
 そこで、ふたりの神は驚いてしまって、その浅い瀬のところへ降りて瀬を見ていると、瀬はしだいに波の上に盛り上がって来つつあるのです。
  島産みをしている。島が成っていく(できてきつつある)。島が生まれつつある。良い島でございます。
 と、アマミクの神がシニグクの神へ、いってくださったということです。シニグクの神は、
  良い島にしましょう。
 といったということです。
 その舟の舵が懸かってしまったところは、「舵引キパンタ」といっている。(山田実『与論島の生活と伝承』1984年)

 船の舵が引っかかったから、「舵引きのパンタ」、舵引きの丘というわけだ。この一対の男女(兄と妹とされることが多い)が浅瀬に乗り上げて島に辿りつくという神話は、南の島々に見られるもので、特に珍しいものではない。アマミクとシニグクというのは琉球弧の創世神話のなかに登場する男女の二神で、日本神話のイザナギとイザナミと同じだと思えばいい。神話の中身にしても、島に訪れて最初に住んだ人たちが隆起珊瑚礁の島の浮上を目撃してたわけでもない。与論の出現を百之台にならって約十万年前と想定してみても、人類はまだ琉球弧には到達していない。

 でも、島のはじまりはハジピキパンタとするところ、神話の型とはいえ、地層の歴史にかなっていて面白い。いやひょっとしたら神話を編んだ島人たちはそのことが分かったのかもしれない。そう思うと胸が高鳴ってくる。

 この神話が面白いのはそれだけではなく、このあとに続く物語にあるのだが、それは後段で書くことができるだろう。

「島のはじまり 2」

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2013/01/14

隆起珊瑚礁の島

 隆起珊瑚礁の島

 与論は隆起珊瑚礁の島。これは、珊瑚礁のある島ということではなく、島自体が珊瑚礁でできたということ、言って見ればまるごと珊瑚礁製ということだ。その上それが盛り上がって島になったという。なんだかすごい。

 島はいつ海上に出現したのか、定かではない。与論と同じ隆起珊瑚礁の島、喜界島の高台をなしている百之台は、最近の研究によれば約十万年前にできたという。それから隆起が始まり島となって、現在では百之台の標高は二百メートルに達している。十万年間で二百メートル隆起したことになるが、これは世界でも最高水準の隆起速度なのだという。

 対するにわが与論はというと、標高は97.2メートルと百メートルにも満たない。その高さは百之台の半分以下で、喜界島と大きく変わらない時代に隆起が始まっているとしたら、隆起速度にかけても与論は与論らしくのんびりだったのだ。

 琉球の古典歌謡集である「おもろそうし」で、与論は「かゐふた」と歌われている。「かゐふた」と言われると「貝の蓋」と連想したくなるが、それは標準語の誤解というもので、「ふた」は集落の意味らしい。「かゐ」の意味はいまだ謎。いったいどんな集落だ形容されていたんでしょう。ただ、この誤解の連想はゆえないことではなく、船旅で与論に近づくと島影はいまに海にも没してしまいそうなほど水面すれすれに見える。それは切なくなってしまうほどだ。「与論小唄」で「木の葉みたいなわが与論」とはよく歌ったもの。与論はそのたたずまいからしてその存在を主張してないかのよう。抱きしめたくなる島なのはこのはかなげなさまからもやってくる気がするのだ。

 けれど、ほんとうはただ平べったいというだけではない。仔細にみると島は三つの台地からできている。島の中央よりやや西に南北に走る崖があって、それがまず島を東西に分けており、崖の西側は低地で茶花などの街がある。東側は東西に走る崖で分かれていて、東北の台地とそれより高く古い街が密集している東南の台地に分かれている。

 そして地図をよく眺めていると、中央に走る崖は、宇勝の手前当りで北北西を軸にずれたような痕跡が見られる。確かなことは分からないけれど、単に珊瑚礁がそのまま均等に盛り上がったわけではなく、地層としてのこの島の成り立ちにもドラマがあったことを伺わせるのだ。

 だから、はかない島影と言っても島内を歩いてみれば小さな坂の繰り返しで起伏に富んでいる。島を二周するヨロンマラソンもかなりハードだという呼び声が高いのは低地にみえるのにアップダウンの激しい島の起伏によるものだ。

「島のはじまり 1」

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2013/01/06

境界が溶けるときの放心

 与論では境界は溶けやすい。

 さざ波となって浜辺に届く海は、白砂を静かに洗うけれど、透明と白の共演はどこまでが波でどこまでが砂浜なのか見分けにくい。おまけにその波形は定まることはなく押し寄せる波のたびに形を変える。しかも、大潮ともなれば、沖あいのリーフまで珊瑚礁が浮上して、その向こうに外海が広がり、陸はその範囲を広げる。ほんとは海と陸を区別する線を引くのは難しい。

 島は南岸の一部を除けば、白砂の浜辺なのだから、与論はどこもそう。潮の加減で東方の礁湖に浮かびその度に形を変える百合が浜は境ゆらめく島の象徴だ。

 他界した人を土葬のあとに洗骨するのは、別れの儀式であるというだけでなく近親者との再会だ。また、旅人への歓待と称して黒糖焼酎を飲み交わし続ければ酩酊はほどなくやってきて、心は相手へと浮遊しだす。安易な方法だけれど極度な人見知りが一夜にして仲良くなるための苦肉の策ではある。

 与論では、陸と海、死者と生者のあいだはひと続きになっていてそこに明確な境界は引けない。境界を引こうとすれば、それはその瞬間からゆらめきだすだろう。酒の酩酊どころではなく、魂もいつでも浮遊していきやすい。

 与論でしか味わえないあの感じを言葉にしようとすれば、それはこの境界が溶けるときの心ここにあらずの放心のことだと言えるような気がする。それは島人だけが知っていることではない。島を訪れた誰しもに、そういう構えさえあればいつでも訪れる。境界が溶けるときの放心。それが与論島クオリアではないかと思う。


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