『与論島の古文書を読む』
先田光演が解読と解説を試みた『与論島の古文書を読む』が手元に届いた。本来ならこれは与論人(ゆんぬんちゅ)の手によってなされるべき仕事だという悔しさはあるが、それ以上に先田の労に感謝する気持ちが先立つ。
読み下し文を頼りに「猿渡文書」の読解を試みるが、自ずと限界も見えやすかった。古文書をじっくり読み研究する暇を持たない者にとっては、『与論島の古文書を読む』のような労力に頼らざるをえない。
まだ、ぱらぱらとめくっているだけだが、17~18世紀の島を知る手掛かりとして読み込んでいきたい。今回は、先田が余談のように付け足した個所に目を引かれたので、メモしておく。
なお、和泊村に創建された弁財天宮はウドゥヌヌティラといい、この下の浜をウドゥヌウシュバマと称していて、手札改めのときは島民をここに集めていたという。その後、人口増加により手狭になったために、ハニク浜に集めるようになったという(p.14)
これは、代官記録によると、与論にも「観音堂と弁天堂」が建立されていたことが分かるが、その位置は特定されないことに付されて書かれたものだ。
ぼくが興味を持つのは、他でもない、和泊にあるというウドゥヌウシュバマは与論のウドゥヌスーと地名として同一であるのがうかがい知れるからだ。また、『名瀬のまち いまむかし』 で知ったのは、名瀬にも同一の地名があり、そこは「うどん浜」と呼ばれている。これで、ウドゥヌスーは、与論、名瀬、和泊の三点を結べる。これが、「海の神を神女(ノロ)が祀るための祭屋(神御殿)に由来する」(『名瀬のまち いまむかし』 )ものであれば、この三点だけではなく、琉球弧にウドゥヌスーの流線を引くことができるだろう。
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