遠のいた成熟のなかでの綱渡り
成熟とはどんな芸術家にとっても、どんな生活者にとっても逆説的にしかやってこない。高村にとっても例外的ではなかった。かれが、じぶんの彫刻は世界の彫刻界に一つの位置を占めうるはずだという自信をもつにいたったとき、かれの生活は物質的にも<関係>としてもほとんど危ない断崖にさしかかっていた。この事情は、ふつうの生活者を想定してもおなじようにあてはまるはずである。ふつうの生活人は、かれがやっと一個の生活者として独行の自覚に達したちょうどそのとき、網の目のような社会の関係のなかにからめとられて身動きもできず、すこしも緊張をゆるめることができないようになる。おおくのごくふつうの生活人たちは、そういうことにあまり内省をこころみないかもしれないが、かれが成熟に達したとき、じつはもっともひどい断崖のふちを綱渡りしているということを体験的に知っているはずである。(吉本隆明「成熟について」『高村光太郎選集』p.273)
今年は、「網の目のような社会の関係のなかにからめとられて身動きもできず、すこしも緊張をゆるめることができな」ず、「もっともひどい断崖のふちを綱渡りしている」という実感が切実だった。この文章はこういうことを指しているのかという内省をひとしきり味わった気がする。しかし、それを「成熟」と言い切る場所にはぼく(たち)はいないのではないだろうか。むしろ、成熟することもできないのに、身動きも取れず断崖のふちを綱渡りしているという方が実感に適っている。
吉本がこれを書いたのは1967年、かれが四十二歳のときだが、それから半世紀以上経ち、社会はより一層、「成熟」を許さなくなったように思える。ジョン・レノンの言葉を借りれば、「It's getting hard to be someone」だ。そして個人的にはこの状態はしばらく続くような気がしている。むしろ、しばらくであってほしいと願うほどだ。
「土俵の真中で四つに組んで動かない力士は、外観上至極平和さうに見える」(夏目漱石)ほどには、「平和」の装いを保ちたいがはたしてそれも覚束ない。せめて、相手の力士が自分の勝手に作り上げた妄想でないか、振り払うことはできないのか、その手を考えることを止めてしまわない気力を奮い起こしたいと思う。
これがクントゥグンジューの状況かとうなだれるが、幸い今日は空は蒼い。
今年はブログを書いていこうと思っていたが、あまり実行できずに来た。それでも島のことを書く執着だけは衰えず想いは旺盛になる一方で、それは他のことに比べれば突出しているのだから少しずつ果たしていきたい。
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