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2012/12/29

少なくとも二度、珊瑚礁は産まれた

 吉成直樹が、管浩伸の「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」(2010年)を引いて整理しているのが次の内容。

 南琉球(石垣島周辺)と沖縄島などで約八五〇〇年前に現海面下一五~二〇メートルから、沖永良部島で約七九〇〇メートルから礁形成が始まる。活発に隆起する喜界島では完新世珊瑚礁が約二五メートルの層厚を持ち、形成開始も九九〇〇年前と古い。また、珊瑚礁が海面に到達した時期は、石垣・西表間の石西礁や沖縄島南部で約六五〇〇年前、久米島で約五五〇〇年前、沖縄島北部や与論島で約三五〇〇年前と地域差がある。その後、地形が成熟していく過程が数千年続く。縄文後期並行期には遺跡数が顕著に増加するが、この頃、珊瑚礁の発達が砂州や浜堤列など海岸平野をつくる地形の形成と海浜の安定をもたらし、人類の居住に適した土地をつくったこと、そして浅く穏やかな浅礁湖の形成によって資源を利用する環境が整ったことが要因である。また、沖縄島の野国貝塚群から出土した貝類相から、縄文早期並行期には珊瑚礁環境が成立していたとする見解も傾聴に値するという。(『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』p.69)

 ぼくは今年ずっと勘違いしていたが、与論島が海面に到達したのが「約三五〇〇年前」とされているが、これは島自体ではなく、現在の珊瑚礁の礁嶺のことなのだった。考えてみれば当たり前なことで、珊瑚礁の内側にはその内円のように島は既にあったのだ。 ぼくはそれを、「ミナタ海岸の漁港から1,800m、ピシバナ外水深35mのところに海中洞窟があり、第二ピシバナ(あるそうで)の落ち込み口のところにあり、鍾乳石が下がっている」 という基昭夫さんの指摘で気づいた。うかつなこと、はなはだしい。

 たとえば、喜界島の百之台のサンゴ礁段丘は10万年前に形成されたという。10万年前は現在より14メートル海水準が低く、百之台の標高は200メートルだから、10万年のあいだに214メートル、喜界島は隆起したことになる。ただ、この間、平均的に隆起しているわけではなく、

「過去7000年間に少なくとも4回の隆起イベントが1000~2000年周期で起こっていたことが分かります(Sugihara et al., 2003 など).約1400年前に起こった隆起イベントを最後に,喜界島は隆起をせず,安定な状態が続いている」。(「喜界島の隆起速度に関する最新の研究成果を教えてください」

 過去7000年以前の隆起イベントについては言及されていないので不明だが、隆起は不断にではなく断続的に起こっていると見なして差し支えないだろう。

 喜界島と比較してみれば、与論の標高は100メートル弱なので、喜界島の約半分の隆起に止まり隆起速度も大人しい。ただ、喜界島と同様に言えるのは、珊瑚礁の島としての与論は、珊瑚礁が形成の後、隆起して島となり、その外周にふたたび新たな珊瑚礁が形成されて現在の姿になったということだ。少なくとも二度、珊瑚礁は産まれたわけだ。

 約2万年前の最終氷期には現在より海水準は120~140メートル低く、当時、どれだけ島が隆起していたかは分からないが、現在の与論島も120~140メートルプラス100メートル未満、つまり、120~140以上220~240メートルの標高を持っていたことになる。島はもっと高くもっと広かったのだ。

 管によれば、縄文時代後期並行期、約4,500 ~3,300年前には琉球列島の「遺跡数が顕著に増加」するが、この頃に「珊瑚礁の発達が砂州や浜堤列など海岸平野をつくる地形の形成と海浜の安定をもたらし、人類の居住に適した土地をつくったこと、そして浅く穏やかな浅礁湖の形成によって資源を利用する環境が整ったことが要因」に挙げられていて、与論の遺跡の上限が3500年前を遡らないことと符合している。

 ただし、これは与論にそれ以前に島人がいたと仮説することを妨げない。海面下120~140メートルのどこかに、与論でいえば、「第二ピシバナ」と呼ばれるどこかに遺跡が残っていないとも限らないからだ。けれど仮に奄美や沖縄島の例のように数万年前に島人がいたとしても、それは3500年前の遺跡人と同じとは言えないだろう。現在の島人(ゆんぬんちゅ)との連続性もうろんなことだと思う。


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