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2012/12/24

『与論島の古文書を読む』への応答

 わが与論を取り上げてくれた先田光演の『与論島の古文書を読む』をめくっていたら、後半部分で『奄美自立論』への言及があって驚いた。これには応答しないわけにいかない。

 少し長くなるが、引用する。

 二〇〇九年は薩摩軍が琉球王国に攻め入って降伏させ、勝者の論理で奄美諸島を割譲し、直接支配してから四〇〇年が経過した記念の年であった。
 この年には、奄美諸島の置かれた歴史的な位置が論じられ、それぞれの自立論がいろいろと提唱されてきた年であった。
 以前からよく知られている歴史解釈が、「奄美諸島は大和でもない、琉球でもない二重の疎外を受けてきた」というものであった。その結果「他力本願の歴史を歩み、自立できなかった」という論調が一般化し、この歴史性が日本復帰後の「奄振」依存の体質をさらに醸成し、現在まで悪影響を及ぼしていると論じられてきたのである。

 まず、ここで一拍置こう。ぼくは『奄美自立論』で「二重の疎外」という概念を提出したが、それは「以前からよく知られている歴史解釈」をなぞったわけではない。二十数年前、漠然と感じる生き難さを、奄美の歴史をさほど知ることなく、あくまで自分の実感を抉って、「奄美は鹿児島でもない、沖縄でもない」という構造を抽出し、その核心を「二重の疎外」と表現した。当時、それが他人に通じるものとは思いもつかなかったので、ぼくはそれを公開するつもりも当てもなく書き留めておいた。しかし、二〇〇九年が近づき、奄美系の著書に集中的に触れるに及んで、この実感には奄美の普遍性があると思い、「二重の疎外」を広場に出し、その構造を歴史の由来に沿って、「奄美は大和でもない、琉球でもない」と書き改めることにしたものだ。

 また、「四百年の失語」という新たな概念が提唱されるようになった。この「失語」が具体的にどのような内容を語っているのか理解できないものであるが、おそらく、各島々の歴史が薩摩に支配され抑圧されて「奄美には語るべき歴史がない」失語であり、島民の主体性が失われたことを指しているのであろうか。或は琉球国でなくなった「道之島」は、薩摩でもないという語る術を持たない「失語」であろうか。
 「二重の疎外」や「失語の奄美」や「谷間論」などという概念から導き出された奄美諸島の自立論としては、「奄美独立論」或は「沖縄県統合論」などが提言されてきた。
 これらの評論は、島の人々が負の歴史を自覚し、ここから己の力で這い出すことによって奄美諸島は自立できるのだとういう視点から導き出されたもののようである。
 評論は、個人の視点・史観・思想に基づき論考され主張されるのである。したがって、過去の様々な史実を検索することから始まる歴史学とは異なる立場に立っている。評論には個人の思い入れがあり、個人の思想が先にあって結論付けられるために、賛否両論が渦巻くのである。
 与論島の十五夜踊りの構成伝統芸能から照らし出される歴史解釈は、「二重の疎外」や負の概念とは全く様相を異にする。
 十五夜踊りが伝承にある永禄四(一五六一)年、ないしは天正一七(一五八九)年に踊り始められたとすると、薩摩軍侵攻以前にはすでに踊られていたことになる。そして、当初から、大和踊・琉球踊・奄美踊の三つで意図的に構成された芸能ということになり、他に類を見ない構成伝統芸能をあみ出したことになる。仮にだんだんと後の時代(琉球王国末期から薩摩支配下の近世)に完成したと考えても、これは驚くべき文化の創造である。現代でも、奄美の島々にこれだけの複合芸能を生み出す力量があるだろうか。(p.376)

 もとよりぼくの書いたものがそう呼ぶに値するかどうかは置くとしても、ぼくは批評(評論)を書いたのであり、それは自ずと歴史学とは異なる。そこから言わせてもらえば、「四百年の失語」とは「四百年間の失語」ではない。「奄美には語るべき歴史がない」と感じてきたのはぼくだけでなく広く奄美の島人が身体化しているものだと見なしているが、それは近代以降に生きる奄美の島人がそう感じているのであり、四百年間にわたる実感値ではない。近代以降にぼくたちはともすれば奄美を、自身を無価値と感じ言葉を失くしてきたことに明確な根拠を与えるには少なくとも四百年前までその淵源を遡らなければならない。ぼくが「四百年の失語」として言いたいのはそういうことである。また、ぼくの自立論は「奄美独立論」、「沖縄県統合論」としてのそれではない。

 先田は近代以降の奄美の受苦を感じたことがないのだろうか。いやそれはあるまい。『与論島の古文書を読む』の少し前に上梓された『奄美諸島の砂糖政策と倒幕資金』は、原口泉の「黒砂糖の収益なんて、(薩摩統幕資金としては)もうとるにたりません」というひと言を巡って疑義と反駁を提出したもので、奄美の受難を知っている者として、歴史認識への危機をモチーフに書いたはずだからである。

 だが先田は先田自身が危機感を覚えた奄美の歴史を事実の羅列として認識しても、これを構造化して捉えることができていないのではないだろうか。その印象は「失語」を「具体的にどのような内容を語っているのか理解できない」とあっさり見なしてしまっていることからやってくる。それは、島を出たことがある人なら特に、歴史を知らずとも実感として迫ってくれるものではないのか。そしてこの疑念は、与論「十五夜踊り」への無防備な礼讃に触れるに当り、確信に近づく。

 ぼくは出身者として与論「十五夜踊り」をくさす理由を持たないし批判したこともない。いかにも与論が産み出した芸能として愛着するが、しかし「驚くべき文化の創造」だと断じることはとてもできない。よく言われるように、与論十五夜踊りは、大和系と琉球系の芸能を取り入れている。というより、大和と琉球の芸能をなぞって混合させたものだ。この構成自体に島独自の歴史の古層を感じさせるものはない。その起源も十六世紀を遡ることのできない新しいものだ。

 むしろ与論らしさを感じるとすれば構成自体にではなく、たとえば先田も指摘するように、二番組の扇踊が「大和台詞にもウシデークの手踊を添えている」ように、身体は琉球、言語は大和と、中身を編集している点にある。この厳密さのない土着化はいかにも与論だと思わせる。もっと言えば、十五夜踊りの芸能が演じられている脇を子どもが自分たちの遊びに夢中で走り抜けて行っても咎める者もない。むしろこの芸能と観衆のあいだに舞台の境界が設けられず、溶解してしまう、だらしなくおおらかな様に与論らしさは現れていると思える。先田のように、「このような組み換えや創作を成し遂げた与論島の先祖たちの魂は崇高である」と言うことはとてもできない。

 先田は、事実をそのまま受け取ることはできても、それを関係の構造として捉えていない。それが「失語」に不感症になり伝統芸能の手放しな礼讃につながっているのではないか。

 しかし、島民自身が「琉球でもない、大和でもない」という時代になったことを実感することは、まずなかったと考える。したがって、「疎外」や「失語」という観念そのものが存在しないのである。(p.376)
 ここには、島の中に孤立し、無気力に日々を送った「疎外」された島人の姿は見出すことは出来ない。(p.378)

 先田は、「十五夜踊り」の解説の後半で繰り返し、「二重の疎外」や「失語」は無かったと強調する。ぼくも繰り返しになるが、個人という意識を手にする以前に「二重の疎外」や「失語」が、島人の実感に迫ってくるわけがない。だが、領内と身分を越境して人々が交わる近代以降に、それが意識化される根拠になる関係の構造はこのとき組み立てられている。中国からの冊封使が訪れれば姿を隠した薩摩武士や、大和船が漂流の果てに他国に流れ着いた際、乗船した琉球人が月代を剃り大和風に変名して琉球人であることを隠したというような事態としてその伏線は引かれていたのである。

 近代になって「二重の疎外」が個人の実感となる要因は、1609年以降に社会構造として埋め込まれた。だが、それは政治的共同体の構造としてであり、個人の生の意識に降りてくることはなかった。そこに、猶予、遊びの空隙が生まれる。この空隙のなかで、与論「十五夜踊り」も命脈を保ち生き永らえてきたと言うことができる。

 先田は与論にとって恩恵である『与論島の古文書を読む』という歴史書解説のなかで、『奄美自立論』などを取り上げる必要はなかったし、むしろそうしないほうがこの解説書の価値を高めただろう。先田自身が、「評論は、個人の視点・史観・思想に基づき論考され主張されるのである。したがって、過去の様々な史実を検索することから始まる歴史学とは異なる立場に立っている」と断りを入れるならなおのことである。


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