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2012/12/30

『むかし原発 いま炭鉱 』

 今年出版された『むかし原発 いま炭鉱 - 炭都[三池]から日本を掘る』には与論島のことも一つの章が割かれて出てくる。

 与論人夫たちの賃金は安かった。一緒に働いていた朝鮮の人夫よりも安かったそうだ。とても暮らしてはいけず、仕事の合間に付近の山畑を耕し、自分たちの食べるさつま芋や野菜をつくり、豚や山羊を飼っていた。(p.267)

 与論から移住した民の炭坑での過酷な労働や賃金格差の歴史をぼくたちは知っている。けれどこの本のなしたことはこうした史実に止まらず、炭坑が原発の構造と似ていることを浮きぼりにしたことだ。

 今回の原発事故で見た光景は、私がかつて炭鉱の出来事として知っていたこととあまりに似ていた。
 福島第一原発の水素爆発であがる白煙と三池炭鉱の炭じん爆発の黒煙、さらに、爆発で吹き飛んだ、原子炉を囲む建物と坑口前の建物。
 日本を動かすエネルギーを掘り、つくり出してきた末端の労働者たちが、国の政策の中で翻弄されている。そして炭坑は廃坑になり、原発は廃炉になる。
 そう思いながら、日々流される記者会見を見ていた時にはっとした。
 そのままなのだ。
 情報を隠して出さない今の政府を当時の政府に、電力会社を鉱山会社に、マスコミなどで“安全”を主張、解説をする原子力工学や医学の専門家たちを、当時の政府調査団の団長ら、御用学者と言われた鉱山学者たちに置き換えるだけでいい。(p.404)

 これがまっすぐに『むかし原発 いま炭鉱』という書名に重なっている。

 ぼくがこの本を知ったのは、雑誌「SIGHT 2013 WINTER」のなかでだった。今年の本を特集するなかで語られた高橋源一郎の言葉。

 そのあともずうっと治療しなきゃならないし、あともうひとつは強制連行されてきた中国人とか朝鮮の炭坑労働者問題。日本人労働者より遥かに過酷な環境にいたので死亡率も圧倒的に高い。与論島から来た労働者も差別をされて、日本人に比べて給料が7割ぐらいだったとか。だから与論って日本じゃなかったわけだよね。そういった差別の問題があって、事故があって後遺症が残って、裁判がずっと続いているんだけど、この裁判が、日本の他の公害裁判と全部一緒。つまり国と会社と学者が一体化して行われていく。水俣病のときも、炭坑も一緒。そして今回の原発も全部一緒なんです。(p.156)

 高橋もこの構造の同一性に驚くわけだけれど、ぼくはここで与論が言及されているのに驚いた。そう、その通り、「与論って日本じゃなかった」のだという認識に共感をしながら、ぼくたちはまたぼくたちが考えていかなければならないテーマの色合いを再確認するわけだ。


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2012/12/29

遠のいた成熟のなかでの綱渡り

 成熟とはどんな芸術家にとっても、どんな生活者にとっても逆説的にしかやってこない。高村にとっても例外的ではなかった。かれが、じぶんの彫刻は世界の彫刻界に一つの位置を占めうるはずだという自信をもつにいたったとき、かれの生活は物質的にも<関係>としてもほとんど危ない断崖にさしかかっていた。この事情は、ふつうの生活者を想定してもおなじようにあてはまるはずである。ふつうの生活人は、かれがやっと一個の生活者として独行の自覚に達したちょうどそのとき、網の目のような社会の関係のなかにからめとられて身動きもできず、すこしも緊張をゆるめることができないようになる。おおくのごくふつうの生活人たちは、そういうことにあまり内省をこころみないかもしれないが、かれが成熟に達したとき、じつはもっともひどい断崖のふちを綱渡りしているということを体験的に知っているはずである。(吉本隆明「成熟について」『高村光太郎選集』p.273)

 今年は、「網の目のような社会の関係のなかにからめとられて身動きもできず、すこしも緊張をゆるめることができな」ず、「もっともひどい断崖のふちを綱渡りしている」という実感が切実だった。この文章はこういうことを指しているのかという内省をひとしきり味わった気がする。しかし、それを「成熟」と言い切る場所にはぼく(たち)はいないのではないだろうか。むしろ、成熟することもできないのに、身動きも取れず断崖のふちを綱渡りしているという方が実感に適っている。

 吉本がこれを書いたのは1967年、かれが四十二歳のときだが、それから半世紀以上経ち、社会はより一層、「成熟」を許さなくなったように思える。ジョン・レノンの言葉を借りれば、「It's getting hard to be someone」だ。そして個人的にはこの状態はしばらく続くような気がしている。むしろ、しばらくであってほしいと願うほどだ。

 「土俵の真中で四つに組んで動かない力士は、外観上至極平和さうに見える」(夏目漱石)ほどには、「平和」の装いを保ちたいがはたしてそれも覚束ない。せめて、相手の力士が自分の勝手に作り上げた妄想でないか、振り払うことはできないのか、その手を考えることを止めてしまわない気力を奮い起こしたいと思う。

 これがクントゥグンジューの状況かとうなだれるが、幸い今日は空は蒼い。

 今年はブログを書いていこうと思っていたが、あまり実行できずに来た。それでも島のことを書く執着だけは衰えず想いは旺盛になる一方で、それは他のことに比べれば突出しているのだから少しずつ果たしていきたい。

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少なくとも二度、珊瑚礁は産まれた

 吉成直樹が、管浩伸の「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」(2010年)を引いて整理しているのが次の内容。

 南琉球(石垣島周辺)と沖縄島などで約八五〇〇年前に現海面下一五~二〇メートルから、沖永良部島で約七九〇〇メートルから礁形成が始まる。活発に隆起する喜界島では完新世珊瑚礁が約二五メートルの層厚を持ち、形成開始も九九〇〇年前と古い。また、珊瑚礁が海面に到達した時期は、石垣・西表間の石西礁や沖縄島南部で約六五〇〇年前、久米島で約五五〇〇年前、沖縄島北部や与論島で約三五〇〇年前と地域差がある。その後、地形が成熟していく過程が数千年続く。縄文後期並行期には遺跡数が顕著に増加するが、この頃、珊瑚礁の発達が砂州や浜堤列など海岸平野をつくる地形の形成と海浜の安定をもたらし、人類の居住に適した土地をつくったこと、そして浅く穏やかな浅礁湖の形成によって資源を利用する環境が整ったことが要因である。また、沖縄島の野国貝塚群から出土した貝類相から、縄文早期並行期には珊瑚礁環境が成立していたとする見解も傾聴に値するという。(『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』p.69)

 ぼくは今年ずっと勘違いしていたが、与論島が海面に到達したのが「約三五〇〇年前」とされているが、これは島自体ではなく、現在の珊瑚礁の礁嶺のことなのだった。考えてみれば当たり前なことで、珊瑚礁の内側にはその内円のように島は既にあったのだ。 ぼくはそれを、「ミナタ海岸の漁港から1,800m、ピシバナ外水深35mのところに海中洞窟があり、第二ピシバナ(あるそうで)の落ち込み口のところにあり、鍾乳石が下がっている」 という基昭夫さんの指摘で気づいた。うかつなこと、はなはだしい。

 たとえば、喜界島の百之台のサンゴ礁段丘は10万年前に形成されたという。10万年前は現在より14メートル海水準が低く、百之台の標高は200メートルだから、10万年のあいだに214メートル、喜界島は隆起したことになる。ただ、この間、平均的に隆起しているわけではなく、

「過去7000年間に少なくとも4回の隆起イベントが1000~2000年周期で起こっていたことが分かります(Sugihara et al., 2003 など).約1400年前に起こった隆起イベントを最後に,喜界島は隆起をせず,安定な状態が続いている」。(「喜界島の隆起速度に関する最新の研究成果を教えてください」

 過去7000年以前の隆起イベントについては言及されていないので不明だが、隆起は不断にではなく断続的に起こっていると見なして差し支えないだろう。

 喜界島と比較してみれば、与論の標高は100メートル弱なので、喜界島の約半分の隆起に止まり隆起速度も大人しい。ただ、喜界島と同様に言えるのは、珊瑚礁の島としての与論は、珊瑚礁が形成の後、隆起して島となり、その外周にふたたび新たな珊瑚礁が形成されて現在の姿になったということだ。少なくとも二度、珊瑚礁は産まれたわけだ。

 約2万年前の最終氷期には現在より海水準は120~140メートル低く、当時、どれだけ島が隆起していたかは分からないが、現在の与論島も120~140メートルプラス100メートル未満、つまり、120~140以上220~240メートルの標高を持っていたことになる。島はもっと高くもっと広かったのだ。

 管によれば、縄文時代後期並行期、約4,500 ~3,300年前には琉球列島の「遺跡数が顕著に増加」するが、この頃に「珊瑚礁の発達が砂州や浜堤列など海岸平野をつくる地形の形成と海浜の安定をもたらし、人類の居住に適した土地をつくったこと、そして浅く穏やかな浅礁湖の形成によって資源を利用する環境が整ったことが要因」に挙げられていて、与論の遺跡の上限が3500年前を遡らないことと符合している。

 ただし、これは与論にそれ以前に島人がいたと仮説することを妨げない。海面下120~140メートルのどこかに、与論でいえば、「第二ピシバナ」と呼ばれるどこかに遺跡が残っていないとも限らないからだ。けれど仮に奄美や沖縄島の例のように数万年前に島人がいたとしても、それは3500年前の遺跡人と同じとは言えないだろう。現在の島人(ゆんぬんちゅ)との連続性もうろんなことだと思う。


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2012/12/24

『与論島の古文書を読む』への応答

 わが与論を取り上げてくれた先田光演の『与論島の古文書を読む』をめくっていたら、後半部分で『奄美自立論』への言及があって驚いた。これには応答しないわけにいかない。

 少し長くなるが、引用する。

 二〇〇九年は薩摩軍が琉球王国に攻め入って降伏させ、勝者の論理で奄美諸島を割譲し、直接支配してから四〇〇年が経過した記念の年であった。
 この年には、奄美諸島の置かれた歴史的な位置が論じられ、それぞれの自立論がいろいろと提唱されてきた年であった。
 以前からよく知られている歴史解釈が、「奄美諸島は大和でもない、琉球でもない二重の疎外を受けてきた」というものであった。その結果「他力本願の歴史を歩み、自立できなかった」という論調が一般化し、この歴史性が日本復帰後の「奄振」依存の体質をさらに醸成し、現在まで悪影響を及ぼしていると論じられてきたのである。

 まず、ここで一拍置こう。ぼくは『奄美自立論』で「二重の疎外」という概念を提出したが、それは「以前からよく知られている歴史解釈」をなぞったわけではない。二十数年前、漠然と感じる生き難さを、奄美の歴史をさほど知ることなく、あくまで自分の実感を抉って、「奄美は鹿児島でもない、沖縄でもない」という構造を抽出し、その核心を「二重の疎外」と表現した。当時、それが他人に通じるものとは思いもつかなかったので、ぼくはそれを公開するつもりも当てもなく書き留めておいた。しかし、二〇〇九年が近づき、奄美系の著書に集中的に触れるに及んで、この実感には奄美の普遍性があると思い、「二重の疎外」を広場に出し、その構造を歴史の由来に沿って、「奄美は大和でもない、琉球でもない」と書き改めることにしたものだ。

 また、「四百年の失語」という新たな概念が提唱されるようになった。この「失語」が具体的にどのような内容を語っているのか理解できないものであるが、おそらく、各島々の歴史が薩摩に支配され抑圧されて「奄美には語るべき歴史がない」失語であり、島民の主体性が失われたことを指しているのであろうか。或は琉球国でなくなった「道之島」は、薩摩でもないという語る術を持たない「失語」であろうか。
 「二重の疎外」や「失語の奄美」や「谷間論」などという概念から導き出された奄美諸島の自立論としては、「奄美独立論」或は「沖縄県統合論」などが提言されてきた。
 これらの評論は、島の人々が負の歴史を自覚し、ここから己の力で這い出すことによって奄美諸島は自立できるのだとういう視点から導き出されたもののようである。
 評論は、個人の視点・史観・思想に基づき論考され主張されるのである。したがって、過去の様々な史実を検索することから始まる歴史学とは異なる立場に立っている。評論には個人の思い入れがあり、個人の思想が先にあって結論付けられるために、賛否両論が渦巻くのである。
 与論島の十五夜踊りの構成伝統芸能から照らし出される歴史解釈は、「二重の疎外」や負の概念とは全く様相を異にする。
 十五夜踊りが伝承にある永禄四(一五六一)年、ないしは天正一七(一五八九)年に踊り始められたとすると、薩摩軍侵攻以前にはすでに踊られていたことになる。そして、当初から、大和踊・琉球踊・奄美踊の三つで意図的に構成された芸能ということになり、他に類を見ない構成伝統芸能をあみ出したことになる。仮にだんだんと後の時代(琉球王国末期から薩摩支配下の近世)に完成したと考えても、これは驚くべき文化の創造である。現代でも、奄美の島々にこれだけの複合芸能を生み出す力量があるだろうか。(p.376)

 もとよりぼくの書いたものがそう呼ぶに値するかどうかは置くとしても、ぼくは批評(評論)を書いたのであり、それは自ずと歴史学とは異なる。そこから言わせてもらえば、「四百年の失語」とは「四百年間の失語」ではない。「奄美には語るべき歴史がない」と感じてきたのはぼくだけでなく広く奄美の島人が身体化しているものだと見なしているが、それは近代以降に生きる奄美の島人がそう感じているのであり、四百年間にわたる実感値ではない。近代以降にぼくたちはともすれば奄美を、自身を無価値と感じ言葉を失くしてきたことに明確な根拠を与えるには少なくとも四百年前までその淵源を遡らなければならない。ぼくが「四百年の失語」として言いたいのはそういうことである。また、ぼくの自立論は「奄美独立論」、「沖縄県統合論」としてのそれではない。

 先田は近代以降の奄美の受苦を感じたことがないのだろうか。いやそれはあるまい。『与論島の古文書を読む』の少し前に上梓された『奄美諸島の砂糖政策と倒幕資金』は、原口泉の「黒砂糖の収益なんて、(薩摩統幕資金としては)もうとるにたりません」というひと言を巡って疑義と反駁を提出したもので、奄美の受難を知っている者として、歴史認識への危機をモチーフに書いたはずだからである。

 だが先田は先田自身が危機感を覚えた奄美の歴史を事実の羅列として認識しても、これを構造化して捉えることができていないのではないだろうか。その印象は「失語」を「具体的にどのような内容を語っているのか理解できない」とあっさり見なしてしまっていることからやってくる。それは、島を出たことがある人なら特に、歴史を知らずとも実感として迫ってくれるものではないのか。そしてこの疑念は、与論「十五夜踊り」への無防備な礼讃に触れるに当り、確信に近づく。

 ぼくは出身者として与論「十五夜踊り」をくさす理由を持たないし批判したこともない。いかにも与論が産み出した芸能として愛着するが、しかし「驚くべき文化の創造」だと断じることはとてもできない。よく言われるように、与論十五夜踊りは、大和系と琉球系の芸能を取り入れている。というより、大和と琉球の芸能をなぞって混合させたものだ。この構成自体に島独自の歴史の古層を感じさせるものはない。その起源も十六世紀を遡ることのできない新しいものだ。

 むしろ与論らしさを感じるとすれば構成自体にではなく、たとえば先田も指摘するように、二番組の扇踊が「大和台詞にもウシデークの手踊を添えている」ように、身体は琉球、言語は大和と、中身を編集している点にある。この厳密さのない土着化はいかにも与論だと思わせる。もっと言えば、十五夜踊りの芸能が演じられている脇を子どもが自分たちの遊びに夢中で走り抜けて行っても咎める者もない。むしろこの芸能と観衆のあいだに舞台の境界が設けられず、溶解してしまう、だらしなくおおらかな様に与論らしさは現れていると思える。先田のように、「このような組み換えや創作を成し遂げた与論島の先祖たちの魂は崇高である」と言うことはとてもできない。

 先田は、事実をそのまま受け取ることはできても、それを関係の構造として捉えていない。それが「失語」に不感症になり伝統芸能の手放しな礼讃につながっているのではないか。

 しかし、島民自身が「琉球でもない、大和でもない」という時代になったことを実感することは、まずなかったと考える。したがって、「疎外」や「失語」という観念そのものが存在しないのである。(p.376)
 ここには、島の中に孤立し、無気力に日々を送った「疎外」された島人の姿は見出すことは出来ない。(p.378)

 先田は、「十五夜踊り」の解説の後半で繰り返し、「二重の疎外」や「失語」は無かったと強調する。ぼくも繰り返しになるが、個人という意識を手にする以前に「二重の疎外」や「失語」が、島人の実感に迫ってくるわけがない。だが、領内と身分を越境して人々が交わる近代以降に、それが意識化される根拠になる関係の構造はこのとき組み立てられている。中国からの冊封使が訪れれば姿を隠した薩摩武士や、大和船が漂流の果てに他国に流れ着いた際、乗船した琉球人が月代を剃り大和風に変名して琉球人であることを隠したというような事態としてその伏線は引かれていたのである。

 近代になって「二重の疎外」が個人の実感となる要因は、1609年以降に社会構造として埋め込まれた。だが、それは政治的共同体の構造としてであり、個人の生の意識に降りてくることはなかった。そこに、猶予、遊びの空隙が生まれる。この空隙のなかで、与論「十五夜踊り」も命脈を保ち生き永らえてきたと言うことができる。

 先田は与論にとって恩恵である『与論島の古文書を読む』という歴史書解説のなかで、『奄美自立論』などを取り上げる必要はなかったし、むしろそうしないほうがこの解説書の価値を高めただろう。先田自身が、「評論は、個人の視点・史観・思想に基づき論考され主張されるのである。したがって、過去の様々な史実を検索することから始まる歴史学とは異なる立場に立っている」と断りを入れるならなおのことである。


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2012/12/08

『与論島の古文書を読む』

 先田光演が解読と解説を試みた『与論島の古文書を読む』が手元に届いた。本来ならこれは与論人(ゆんぬんちゅ)の手によってなされるべき仕事だという悔しさはあるが、それ以上に先田の労に感謝する気持ちが先立つ。

 読み下し文を頼りに「猿渡文書」の読解を試みるが、自ずと限界も見えやすかった。古文書をじっくり読み研究する暇を持たない者にとっては、『与論島の古文書を読む』のような労力に頼らざるをえない。

 まだ、ぱらぱらとめくっているだけだが、17~18世紀の島を知る手掛かりとして読み込んでいきたい。今回は、先田が余談のように付け足した個所に目を引かれたので、メモしておく。

 なお、和泊村に創建された弁財天宮はウドゥヌヌティラといい、この下の浜をウドゥヌウシュバマと称していて、手札改めのときは島民をここに集めていたという。その後、人口増加により手狭になったために、ハニク浜に集めるようになったという(p.14)

 これは、代官記録によると、与論にも「観音堂と弁天堂」が建立されていたことが分かるが、その位置は特定されないことに付されて書かれたものだ。

 ぼくが興味を持つのは、他でもない、和泊にあるというウドゥヌウシュバマは与論のウドゥヌスーと地名として同一であるのがうかがい知れるからだ。また、『名瀬のまち いまむかし』 で知ったのは、名瀬にも同一の地名があり、そこは「うどん浜」と呼ばれている。これで、ウドゥヌスーは、与論、名瀬、和泊の三点を結べる。これが、「海の神を神女(ノロ)が祀るための祭屋(神御殿)に由来する」(『名瀬のまち いまむかし』 )ものであれば、この三点だけではなく、琉球弧にウドゥヌスーの流線を引くことができるだろう。


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