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2012/10/15

「試行」での原発問題への発言を振り返って

 福島の原発事故が起きる12年前の1989年2月、吉本隆明は「試行」において原発問題について4つの層で検討している。

 1つ目jは「安全性の層」。
 吉本は技術者が技術者として議論している大前研一の『加算混合の発想』を引く形で安全性についてコメントしている。

 おれは少しも原発促進派ではない。だが原発を廃棄せよと主張するような根拠はどこにもない。ソ連原発事故のようなものは確率論的にはあと半世紀は起らない。半世紀も人命にかかわる事故が起こらない装置などほかにないし、航空機や乗用車事故よりも危険が多いとも思わない。大衆や婦女子の恐怖心に訴えるソフト・テロなど粉砕すべきだし、改廃を論議し市民の運動としたいなら大衆の理性と知性に訴えられなければ、そんなもの反動にすぎないのだ。

 そしてこう結論している。

 (1)の安全性について賛否をいえば、おれなら反原発運動に反対、原発促進にも積極的に同意する根拠と立場をもたない。だからといって原発促進に直ぐに賛成ということにはならない。それは一般大衆の場所と政府や原子力公団の場所との距離の遠さを無視することになるからだ。

 2つ目は「地域・経済・利害的な層」。これは工事を請け負った土建業、公団の利益と地域住民の危険感とを照らして、「おれならば、『反原発』ないし『地域管理原発』を主張したいのはこの問題の層だけだ」としている。

 3つ目は「科学技術的な層」。これについては、「原発の科学技術的な安全性の課題を解決するのもまた科学技術だ」ということから、「おれは科学技術的な層の問題として原子力発電(所)が存在することに賛成だ」とする。

 4つ目は、「文明史的な層」。文明史の到達点としての原発を否定するのは、いいかえれば焼石や水片マサツ、風車や水車から蒸気機関というようなエネルギー獲得の手段として原子力発電(所)をみたばあい、これに反対するのは人類の文明史にたいする蒙昧と反動だ」として、「疑問の余地はない」としている。

 ぼくもこの見解に倣ってきたけれど、12年後の2011年に事実としてこの考察と決定的に異なる事故が起きてしまった。「確率論的にはあと半世紀は起らない」と見なされた事故が当の国内で起きてしまった。ことが起きてしまえば、反原発は「大衆の理性と知性に訴え」た市民運動として組織されるべきだった。そう言えるのだと思う。

 これを読んでも吉本が原発推進派でないことは一目瞭然でその議論にはさまざまな層の含みがある。しかし、今は事実の重みから考え始めなければならない地点にぼくたちはいる。そのことを確認しておきたい。

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