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2012/08/13

「かなしゃ」No.3

 楽しみにしていた「かなしゃ」が手元に届き、早速読んだ。今回も充実の内容だ。

 「かなしゃ」の底で流れているのは「旅人(たびんちゅ)」の視線だ。「旅人」とは何か。

 旅人は、孤島の無垢で美しい自然の静寂につつまれて、日常を忘れて孤独になる。自然と一体となって同一化する。自らの生と存在のはかなさを感じるが、それによって癒され、ひとたび己を無と化し浄化して生まれ変わる。そして、旅を終える。旅人にとって、自然は「観光」の対象ではなく、「帰依」する対象であるはずだ。

 自然が「観光」の対象ではなく「帰依」の対象であるとしたら、「旅人」は「観光客」ではない。それどころから、自然が「帰依」の対象であるなら、そこで「旅人」と「島人(しまんちゅ)」は交錯し共鳴するはずである。けれど、島では「旅人(たびんちゅ)」は「旅人」であるしかない。

 島に移住して住んでいる人たちでも、島では「旅人」(たびんちゅう)と呼ばれる。島に住み慣れても旅人としての感性を失いたくないと思っている。

 島のなかで何年経っても「旅人」と呼ばれ続けることはひとつの疎外に他ならないし、ある場合には「旅人」を不用意に傷つける言葉でもある。しかし、ここで云われているのはそういうことではない。「旅人」の感性をむしろ失いたくないと書き手は言っている。「旅人」の感性とは何だろう。それは、島の外からの視線を持ちながら、「観光」として眺めるだけではなく、島の生活の視線と同化する場所に自らを置いた視線の二つを兼ねることだ。

 そうだとしたら、「かなしゃ」に旅人の書き手が多いとしても、それは島人(しまんちゅ)に開かれたものであり、主宰者も島人(しまんちゅ)の書き手がもっと増えることを望んでいるのに違いない。現段階では、「旅人」だからこそ、島がよく見えるということなのだ。ぼくにはむしろ、「かなしゃ」の内容は島人(しまんちゅ)を鼓舞しているのを疑いようがない。

 実際、島人(しまんちゅ)にとってもこれはいいガイドだ。朝戸を散策しようとすれば、ぼくなど今もっと島をよく知る人の導きなしには巡れないけれど、「朝戸 逍遥」の地図があれば、ひとりでも巡ることができそうだ。おまけに細やかな解説もあるから知識も自ずと助けてくれる。

 写真といい絵といいフォントといいレイアウトいい、コピーといい文章といい、相当なクオリティで、わが故郷からこんな情報誌が出されていることに驚かずにいられない。ぼくはその分には、まだ「旅人」になりきれない、島の価値に引け目を覚えている島人(しまんちゅ)を引きずっているのだと思う。

 表紙を含めて濃密な四十頁。与論には「かなしゃ」のあることを誇らしく思う。


 ※「かなしゃ」は購読可能です。「かなしゃ」ブログ

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