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2012/06/23

『名瀬のまち いまむかし』

 少なくとも高度経済成長前までは奄美諸島の出身者にとって奄美大島、ことに名瀬は離島する際のいちばんの進学先であり就職先であり、唯一の都会であった。『名瀬のまち いまむかし』は、その名瀬の変遷をできる限り歴史を遡って、ことに近世以降に焦点を当てて紐解くものだ。

 その幹になっているのは、岩多雅朗による「絵図で読み解く名瀬の歴史」で、近世の絵図に始まり地籍図などの史料を頼りに、名瀬の変化を克明に辿ろうと試みている。場所に関する記憶は不確かなもので、建物が取り壊され更地になり、新しい建築物が出来上がると、もう以前の建物のことを思い出すことができない。あとは忘却の彼方に押しやられて、そのことを覚えている人が鬼籍に入ればそれで場所の歴史はいったん失われてしまう。

 岩多の試みは、それ絵図のなかの集落や自然景観のあやふやさを文献によって埋め、地租改正時の字の範囲を相互関係によって正確な位置関係を読み解くという丹念な作業のう上に成り立つ。イメージとして思い浮かべれば、ある時代の地図を描き、それぞれの時代を重ねていくことで名瀬の時系列の変化を可視化させるのだ。文献だけではなく、また文献では盲点を生みかねない不足を生める地図の役割を果たすもので、デジタル機器の発達なしでは成り立たなかった作業と言える。

 研究は端緒に付いたばかりなのかもしれないが、名瀬の海岸線が「幕末・明治当時の海岸線からみても、五〇〇~六〇〇メートルほど内陸」であるという指摘も興味深い。「なぜ海岸線が移動したのかもわからない」と岩多は書くが、地図の作業がなければ、海岸線の移動の認識も生まれにくく、この「なぜ」こそが新たな課題を生み歴史の空白を埋める作業につながっていくのであり、重要なものだと思える。

 近世から近代にかけての変遷は、弓削政己の「名瀬のまち構成の要素と空間、及びその形成」に詳しい。ぼくの関心に引き寄せれば、大島郡の役所名の変遷をおさらいしたくなるところだ。明治以降、名瀬の役所は、大支庁、支庁、郡役所、金久支庁、大島々庁とめまぐるしく変わるのだが、なかでもメルクマールとなるのは、大支庁と金久支庁の設置だ。

 大支庁になったのは、県と大蔵省の対立から。大蔵省は外国貿易の赤字解消のため第二の輸入品であった砂糖の国内増産を構想するが大島郡が鹿児島県統治下では増産は困難と判断し、大島郡を県に昇格する構想を持つ。しかし、大きな財源である砂糖を手放すことが惜しい鹿児島県は、大支庁を、残る四島には喜界島支庁、徳之島支庁、沖永良部支庁、与論支庁を開庁し、大島県構想を頓挫させる。

 ここでぼくが分からないのは、大支庁設置がどうして県構想を頓挫させることになるのか、ということなのだ。推察の域を出ないが、役所を大支庁とすることによって、大島の役所は権限を引き上げられ、他四島を統括する力を持つことになる。そうした独立性の高い機能を持たせることで、県という構想に拮抗させたということだろうか。

 次い郡役所が金久支庁になったいきさつは理解しやすい。大島郡の財政は「共通経済」と呼ばれるように鹿児島県の財政の一部に組み込まれていたが、本土の税収を奄美諸島に分配するのは不合理であり、奄美諸島の税収を本土に分配するのも不合理という理屈から財政を分離する「独立経済」が県議会から主張されるようになる。県令ら県当局は、もしそれを実行すれば、惨状を招くのは必定という認識を持っており、県議会の主張が通る代わりに行政費用を国庫負担とする方法として金久支庁を設置した。

 この他、「名瀬のまち構成の要素と空間、及びその形成」には、藩とグラバーとによる上海貿易も視野に入れた名瀬での白糖工場の設置、いわゆる大島スキーム構想も説明されている。この構想は、燃料を運びこむことの困難や暴風による建物被害で長続きしないが、跡地は三菱財閥を築いた岩崎弥太郎が買いあげている。名瀬が日本近代の歴史と接点を持った瞬間だ。歴史といえば、この白糖工場には動力源として蒸気機関が用いられるが、それは鹿児島よりはやく導入されており、坊の津などの鹿児島の港の発展にも寄与した。こうした史実の発掘は、無力感に囚われがちな奄美の歴史にとって重要な指摘だ。

 白糖工場周辺は、黒糖目当ての大島商社を始めとした商社の人々らが行き交う寄留商人の街となり繁華街として「屋ン川」に料飲店が集まるが、そこで歌われる唄はシマウタではなく、大和の唄が中心であったというのも、名瀬が加えていった新しい表情だった。

 飯田卓の「近代空間としての名瀬市」では、市街地の変遷のシンボリックな例として挙げられている「うどん浜」の来歴が興味深かった。『名瀬市誌』によれば、「うどん浜」の地名の由来は、海の神を神女(ノロ)が祀るための祭屋(神御殿)に由来する。与論の浜辺のウドゥヌスーについてぼくは由来が分からなかったのだが、「御殿の後ろ」ではないかと教えてもらい合点したことがあった(「ウドゥヌスー=御殿の後」)。しかし、御殿(うどぅん)は藩の仮屋的なものと考えてきたが、神御殿と同じくノロの祭場であったのかもしれない。

 これだけでは、『名瀬のまち いまむかし』の全体観を紹介したことにならないのだが、奄美随一の都会である名瀬の変遷を正面から見据える研究成果が登場したことを頼もしく思い、いったん書き終えることにしたい。

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