かがり火が灯すもの
昨日、4月28日、与論島と辺戸岬では海上集会が開かれ、夜には双方でかがり火を灯しあった。
その由来を今日の「琉球新報」は次のように伝えている。
国頭村と鹿児島県与論町は28日、奄美群島が1953年に本土復帰した後に、国境となった北緯27度線で、沖縄の本土復帰を求める「海上集会」を43年ぶりに再現した。この日は沖縄や奄美群島が日本から切り離された52年のサンフランシスコ平和条約の発効から60年。ことしは復帰40年の節目にも当たる。
海上集会は、63年から69年まで7年間に渡って行われた。生まれた年からだから、ぼくは参加したことはない。復帰の時に、沖縄島を眺めながら、その洋上に国境線が引かれていることに違和感を覚えた記憶がある程度だ。
43年ぶりの海上集会の再現は与論から呼びかけて行われている。これは、与論らしい与論ならではのアクションだ。境界を消すということ、しかも強制的ではなく理論的にでもなく、溶かすようにほどくように線を消してゆくのが島の作法であり、それが与論島が体現しているクオリアだと思っている。
参加者らは船上から互いに手を振り合い「よく来たね」などと声を掛け合い、約30分間交流。集会の最後には別れを惜しむように汽笛が鳴らされた。宮城村長は「こみ上げてくるものがあった」と語り「(沖縄の)米軍基地の集中は問い直す必要があるだろう」と強調した。
こういう素朴な交流が与論が伸ばせる触手なのだ。
島からのブログ便りやツイート便りをみると、時化の海で集会は行われ、途中、波の上丸も迂回するという配慮を利かせたようだ。
「沖縄本土復帰40周年記念の海上集会でした。水平線上に沖縄。」
「洋上集会の時間帯にはちょうど、沖縄からの上りの船が通過する。「なみのうえ」コースを変えて、集会中の船の周りを旋回していきました。船長の粋な演出。」
北緯27度線上の洋上集会だけではなく、記念行進も行われ、
夜には、かがり火が焚かれた。
このかがり火は、海上集会とともに、沖縄が復帰するまで行われていたものだ。火自体は、国境を消す祈願としてだけでなく、その昔には与論でも灯されたか分からないけれど、薩摩軍の来襲を琉球弧に伝達する狼煙だった。火はつなぐ力だ。
海上集会では、あの、「沖縄も返せ」も歌われている。
船団の中央では、国頭と与論の代表船をロープでつなぎ、宮城村長、麓委員長らが恒久平和や交流の深化を宣言。参加者全員で復帰闘争を象徴する歌「沖縄を返せ」を合唱した。
これらの再現は、沖縄の日本復帰への祈念を行動に移したものだ。しかも基地のない復帰を祈願したものであれば、これは再現にとどまらず現在も通用する運動になりうる意味を持っている。そこでは、「沖縄を返せ」と言うけれど、誰が誰に何を返すかはそれほど自明ではない。当時の島人の心中の情を辿れば、「返せ」は、沖縄と離れてあることへの寂しさを滲ませた心情吐露でもあったろう。その情感(なさき)をもっと掘ってゆけば、沖縄が日本に復帰するのではない、日本が沖縄に復帰するのだ。そういう言い方でしか表せない課題を抱えている。それはまだ解けていないし優れて現在的である。復帰40周年に本当に問われなければならないのは、そのことだと思う。
かがり火。それは与論を照らし、辺戸に伝わり、また、辺戸のかがり火は弱くあたたかく与論を灯す。そこに境界は存在しない。
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