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2012/04/08

映画『トテチータ・チキチータ』-頬を撫でる霧雨

 映画『トテチータ・チキチータ』は、2011年の10月に福島で撮影されている。これは重たい事実だが、それはこの作品が震災と原発という問題の中心に向かって題材を採ったことを意味していない。むしろ、企画が具体化しかけたときに、震災と原発事故は起こり、実現を断念しかけた経緯を持っている。

 けれど映画化が未曾有の天災と人災に遭遇したのは偶然に過ぎないけれど、ことの甚大さは偶然がもはや偶然には思えない機縁を感じさせる。そう言えるのは気楽な外野からだからなのだが、製作に携わった人たちの懸命の想いはその偶然を必然に置き換えるように、そこに引き寄せられるように映画として具体化されることになった。

 この遭遇を必然として刻み込むように、シナリオはいくぶん変更され、「なぜ、今、福島に行くの?」という罵声や「俺達、もとの学校に戻れるのかな」という高校生のおしゃべりの中に、震災と原発以後の日常が取り入れられることになった。ぼくたちは映画の作品世界に入りこみながら、これらの台詞の度に重たい現実と地続きであるのを感じて我に返るような気になる。しかし、ここでも、この作品は、その現実に依拠していない。あからさまに言えば、現在の問題に便乗していない。

 作品は、福島で撮られた山並みや大木や湖や、そこを泳ぐ水鳥たちの美しい光景を差し挟みながら進行していく。それは福島ならではの広い美しさを湛えた景色であり、この作品の背景を彩るのに欠かせないのだけれど、それでも、それに依存していない。ここから、重たい現実とロケの場所の意味を抜き取ったとしても、この作品は作品として成り立っただろう。震災も原発事故も福島の自然もこの作品の背景をなしているにもかかわらず、『トテチータ・チキチータ』 はそれに依存していない。つまり、福島という印を求めていったのではない。むしろ、福島を特異点の印であるように風聞化されるのに抗い、福島をどこの日常にも接続しているありふれた世界として提示している。ぼくにはそのように感じられた。

 この作品は、戦争によって家族を失った娘が老いの世代に入ったときに、その両親と兄の生まれ変わりと再会するというファンタジーとして設定されている。まず、母の生まれ変わりで現在は小学生の女の子がそれを察知し、兄である中年の男性と父である高校生の男性に、「お兄ちゃん」、「お父さん」と名指すことによって再会の機縁は生まれる。そして東京大空襲の夜の記憶が蘇り錯乱する娘である老女の前に、母である小学生が再会することで家族はふたたび一堂に会することになる。

 しかし、現実とちぐはぐな彼らの行動は次第に周囲と齟齬をきたし、追い詰められてゆく。もっとも敏感に生まれ変わりを察知した小学生である母も、実年齢の少女として周囲の眼に負けるように福島を離れることを決意する。そしてふたたび別れることは生を終えることを意味する他ないのを悟るように、娘である老女は命を落とす。その時、少女である母は、想いを残して死んだ者は龍神となって家族を見守り、彼らが苦しいときに霧雨を降らせて慰めるという言い伝えを信じているのだが、それに従うように、霧雨は降り、物語は出口へと向かう。

 この物語を描くのに映画の時間は充分ではなかったのではないか。ふと、そう思う。それというのも、生まれ変わりを察知する少女と、娘である老女はそれを確信しているのに、兄である中年男性と父である高校生はどこまでそれを信じているのか、その内面は描かれない。むしろ、少女や老女から「お兄ちゃん」「お父さん」とそれぞれに名指されることで、彼らは兄であり父でありを引き受けるしかないように見えている。もう少しその時間があればよかったのにと思いかける。ところが、映画は一時間半が費やされ短いとは言えない時間は取っている。サプライズのシーンが連発してあっという間にクライマックスに引き込む類の映画ではないにも関わらず、時間は足早に過ぎ、もっと由来や内面を知りたいという、なんというか、短編小説にも似た感想を送ってよこす。

 この淡さはしかし、この作品の特徴なのかもしれない。名指されることによってしか、父や兄という存在のリアリティを確認できないということは、彼らの内面が明かされないということではなく、名指されることによってしか父や兄ではありえないという淡さを示しているのかもしれない。しかし、それは頼りないということではなく、むしろ名指すということの力であり、名指すことによって関係が生まれるという可能性なのではないだろうか。

 物語の出口に降る霧雨は淡く、希薄に降り注ぐ。それは、頬を濡らすほどもなく、頬をそっと撫でるように降り、そして消えてゆく。重たい現実と向き合うように霧雨が濡らすというのではなく、それに抗するような、淡い気配と化す霧雨。中島みゆきの作品をして、「私がせっかく乾かした洗濯物を、またじとーっとしめらせてしまう、こぬか雨のよう」と言い放った松任谷由美に、「霧雨で見えない」という失恋の喪失感を歌った作品があるが、そのユーミンの「霧雨」ですら、この作品の前では濃い。

 少女の時代に家族を戦争で失い、生まれ変わりによってその再会を願うという孤独な老女を主人公の一人にし、震災と原発事故を抱える場所を舞台に選んでいるにもかかわらず、その重たさを希釈するように、作品は淡く、時折、笑い声が客席からも聞こえるようなユーモアを交えながらあっという間に終わる。エンドロールに流れる「美しい星」の歌も朗らかで愉しくどこか励まされる。それは監督の含羞が押しつけがましさを寄せ付けていないようにも思えるが、その控えめさが、1時間半という時間にもかかわらず、この背後には描かれない多くの言葉と世界があるに違いないという、愛すべき掌編とでも言うような、凝縮された印象を届けている。

 もうひとつ、琉球弧の内側から言えることを書いておきたい。監督は奄美の徳之島ゆかりの出身であり、そこから見える景色もあるからだ。監督がそれを意識しているのは、主人公の名が「一徳」と、ひそかに島の字を潜ませていることからもうかがい知れる。徳之島は、戦時中、特攻基地のあった場所であり、また、一昨年には普天間移設の候補としてその名が浮上したことは記憶に新しい。古勝監督にとって、戦争は年齢に比しても遠いものではない。

 また、姉妹が兄弟を守護するという「をなり神」、「えけり神」という兄弟姉妹の関係も、生まれ変わりを巡るこの作品の成り立ちに欠かせない要素になっている。父や兄との関係を察知し名指すのは母であり妹なのだ。龍神の伝承も生まれ変わりの信仰も、監督にとって頭だけで考えたものではない、その気配を知っている、不思議なことはあり得るという感得が身体のなかに、まだある。それが、龍神であり生まれ変わりであり、もっと言えば霧雨を実体化し強調し過ぎていない所以ではないだろうか。大袈裟に云わなくても、そういうことはある。とでも言いたくなる、奄美にはまだそういう場の力が残っている。そこに由来を持った人の作品であることは言い添えておきたい。監督がそう言っているのではなく、この作品がそのように語りかけてくるという意味で。


 映画『トテチータ・チキチータ』公式サイト

 映画『トテチータ・チキチータ』Facebookページ

 

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コメント

すばらしいコメントをありがとうございました。その通りです!
ご存じの通り、私は福島の人間ですが、奄美、徳之島に行くたびに、生命の不思議さと大地の持つ妖しいとも言える力を感じておりました。それは、何万年も変わらぬ生態系を持つ島とそこに暮らす人との絶妙なバランスがここにはあるからだと、とそう思っております。地球事態が、宇宙の奇跡であるように、ここに生まれ生きている事は、当たり前なのではなく、それ自体が特別な事なのだと、そう思ってきました。
今、福島はそのありがたみを一番痛感できる県になりました。
だからこそ、ここにいて、大切な事を伝えたい。ありきたりな言葉でしか言えない自分がもどかしくもありますが、そう思っています。
映画を観て下さってありがとうございます。
近いうち、また、お会いできたらと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 古勝たつ子 | 2012/04/11 11:24

古勝さん

コメントありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。福島発にして奄美発という点も嬉しい作品です。

ぜひ、またお話させてください。

投稿: 喜山 | 2012/04/21 17:12

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