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2012/04/21

「奄美大島開闢神話の民俗学的研究」

 町健次郎の「奄美大島開闢神話の民俗学的研究」は、地名としての「大島」の古名が「奄美」であることに疑問符を付し、その根拠を宙吊りにすることによって、開闢神話を神話としてではなく信憑として捉え、奄美に関わった、主に大島知識人のアイデンティティの構造を明らかにしたものである。

 町は書いている。

 注意したい点は、これらが「奄美」と呼ばれる集団が南に存在していたことを伝えていても、それが「大島」のことであると語っていないことである。そこに登場してきた「多祢」、「掖玖」、「度感」、「信覺」、「玖美」が音韻の重なりから、それぞれ「種子島」、「屋久島」、「徳之島」、「石垣島」、「久米島」という島名に比定して理解できても、唯一、「奄美(あまみ)」のみは、語呂合わせから「大島(おおしま)」を導くことは困難である」(p.22)

 『日本書紀』、『続日本記』に記された「海見」、「奄美」などの記述から「奄美」という存在は認められてもそれが大島を指すことは文字からは辿れないという点から、町は(奄美)=(大島)という等号に疑問符を突きつける。「奄美」が「大島」であるのは自明ではないとしてその根拠を宙に浮かせ、一端、括弧で括っておく。するとそこにはどういう光景が見えてくるのか。

 町によれば、近代以降、「奄美」という呼称が登場するのは明治6年の海軍資料においてであり、ついで明治30年の『大日本帝国全図』で地図上に「奄美大島」と記され、これが地名呼称としての「奄美大島」の嚆矢となる。そしてこれらの表記に根拠を与えたのが、近世期に記された新井白石の『南島志』だった。『南島志』で、「大島」は初めて「奄美」と断定される。それだけではなく、そこでの記述から、「湯湾嶽」を「阿麻彌嶽」と同一視する見方が生まれ、後年、高天原をめぐる鹿児島と宮崎の本家争いと同質の不毛な論争を招くことになった。『南島志』の影響は大きいと、町は書く。

 近代以降、大島では都成植義が『南島志』を受けて、奄美の歴史を、『大島史談』としてではなく、当時まだ耳新しかっただろう「奄美」を使って、『奄美史談』と題して書く。都成の神話には「阿麻弥姑」と「志仁禮久」が登場し、『南島雑話』にあった「宇奴加那之」と「天加那之」という二神は退けられる。これによって「奄琉同祖」の伏線が引かれる。次に、「阿麻弥姑」と「志仁禮久」のうち、「阿麻弥姑」が前面に立ち、「奄美姑」、「天御子」という漢字操作と日本神話との一致という見做しから、「天孫氏」との血縁関係を導き出している。これが「日奄同祖」の下敷きになり、「奄琉同祖」と合わせて「日奄琉同祖」を説くことになる。ここから現れるのは、開闢神が日本、大島、沖縄を渡っていったという移動経路で、町はこれを<開闢神の三点移動>のモチーフとして抽出している。

 続いて、東北人の笹森儀助は皇国思想を背景に、開闢新の移動を台湾にまで延長する。その後、伊波普猷は『古琉球』のなかのよく知られた一節で、

 琉球開闢の神アマミキヨの名は琉球人の祖先が九州から来て、奄美大島を経て琉球に来たことを証明する手掛かりになると思う。奄美大島の住民もまた自らアマミキヨの後裔と称している。彼らの口碑によれば、アマミキヨは、はじめ海見嶽に天降して大島を経営したが、暫くの後、南の方へ行ったということである。

 と書くが、町はここにいう「口碑」を笹森の『南島探検』からの「翻訳引用」と見ている。伊波は、「奄美」を介して種族の移動という「日奄同祖」を語り、ついで、開闢神「アマミ・キヨ」を通じて「奄琉同祖」を説き、都成と同様、三段論法のように「日奄琉同祖」を説くことになる。ここにも、<開闢神の三点移動>のモチーフが現れる。

 さらに、昇曙夢は <開闢神の三点移動>による「日奄琉同祖」に従いつつも、アマミコに焦点を当て、都成が退けた『南島雑話』の「宇奴加那之」と「天加那之」の二神の引用を可能にする。かつ、「天孫」に「アマミコ」とルビを振ることによって、日本との連結に照準するが、これは後の「日奄同祖」強調の前段でもあった。

 町によれば、奄美大島の開闢神話は、新井白石の『南島志』に端を発した、「大島」を「奄美」と呼ぶことによって可能となった言説であり、「日本・琉球の狭間に位置する開闢の古典なき大島」にとって、外から奄美を根拠づける要請に応えるものだった。

 大正期に入り、徳之島人である坂口徳太郎は開闢神話の「奄美」を、「大島」に限定せず奄美諸島に拡張する。この後、昭和戦前期では、「大島人」が「日奄同祖」と「奄琉同祖」を非対称に置き、「日奄同祖」を「奄琉同祖」の上位に位置づけ、<開闢神の二点移動>をモチーフとするようになるが、これは戦後の分離期に昇曙夢と泉芳朗によって再度、強調されることになった。

 復帰後、田畑勇弘は、近代以降、知識人によって文字化されてきた開闢神話が、土地に伝承されていないという問題を投げかけるが、一方でその指摘は、奄美の開闢神話の存在が「日本」との異質性を際立たせるという怖れからなされたものだった。現代では、それは経済資源として捉え返される面も持つようになっている。

◇◆◇

 「奄美大島開闢神話の民俗学的研究」を辿って改めて感じるのは「奄美」の空虚感(大島の空虚感ではない)の大きさである。自分たちを語る神話がないという空虚は、近代以降、知識人に開闢神話を紡ぐ余地を与えた空隙であったが、開闢神話の民俗学的研究の対象が、近代以降の知識人の表現に限定されるというこの論考の特異なアプローチを産み落とすことにもなった。

 町の論考からは、奄美(大島)が、「日奄同祖」によって沖縄を視野から外し、沖縄が「日琉同祖」のなかから同質的な奄美のみを抽出しその存在を希薄化するという相互疎外の経緯もよく見えてくる。(奄美)=(大島)の根拠を宙づりにすると、空虚を露わにするのは、当の「奄美」だけではなく、それを橋渡しに使った伊波の「日琉同祖」も根拠を揺るがされるということだ。

 また、この論考は「奄美」の空虚を開闢神話によって埋めるのは、大島の知識人にとっては切実であったが、地名として奄美諸島を覆う包含力はもともと持っていないことも明らかにするものであり、与論から見たときの「奄美」という言葉の疎隔感の由来もよく教えてくれる。言い換えれば、これは大島の外からはよく見える光景なのだ。町健次郎にとってもそうであったに違いない。欲を言えば、これは「奄美」の解体であり、そうであればこの仕事は大島人によってなされるべきではなかったのか。

 昇曙夢の奄美語りや泉芳朗の詩に接して感じるのは、何がなんでも日本人と見なされたいという表現の情けなさだ。奄美の知識人としてリーダーシップを発揮する者たちのこの情けなさは落胆する以外ない。この情けなさが、与論の郷土誌にしても、与論の民の「主体」は「天孫氏」の末裔であるという語り始めにも波及していったのだ。しかし、そう言えるのはぼくが現在という位置にいるからであり、渦中にいた際に彼らを笑うことはできなかっただろう。だから、この落胆はぼくたちの足場だ。「奄美」には語るべき神話がないことに始まり、語るべきことがないという自信のなさに通じる。しかしこれは、西洋近代に直面して正体を失いやみくもに突き進んだ近代日本の縮小再生産としての縮図でもある。何もないと感じられても、そこからしか語り始めるしかない。そういう意味では、町健次郎の論考も奄美ならではの奄美語りの系譜に連なるものだ。

◇◆◇

 さて、現象学的な方法論を採った論考の外に出るには、ぼくたちは町が宙吊りにした「奄美」と向き合わなければならない。するとぼくには、「海見」ないしは「奄美」などの地名呼称は、消去法によっても現在の奄美大島を指すのではないかという従来通りの信憑がやってくる。町は、「これらが「奄美」と呼ばれる集団が南に存在していたことを伝えていても、それが「大島」のことであると語っていない」と書いているが、『日本書紀』、『続日本記』が伝えているのは、「奄美」と呼んだ、あるいは呼ばれた「地名」が存在したということであり、それが遅くとも近世以降に「大島」と称された現在の奄美大島であることを地名からは辿れないということだ。むしろ、それが地名として残っていないなら、それは神名が地名となることがあるように、神名であった可能性を残している。すると、その神名を戴いた「集団」が現地に不在ということが謎になる。

 『日本書紀』、『続日本記』の段階で、「大島」という地名はまだなかったとしても不思議ではない。それは奄美大島のヤポネシア列島上の位置と巨大さから言って、そう他称される必然性も自称する必然性もなかったと思える。大島には他の島と同様、その内部は数多のシマ(集落)で形成されており、個々のシマには完結した生活宇宙が存在しているから、島人が島の全体を指す呼称を持っていなくても不都合はない。また、明治期に海軍が「奄美」と呼び始めたように、全体を指す言葉は政治に典型とされる俯瞰する視線が招来するものだ。ここに、「大島」の前に「海見」と呼ばれる余地があった。

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コメント

おはようございます。 
西日暮里ではお世話になりました。
美味しい酒が飲めました。
ありがとうございます。
 先月末、カケロマ島に女房を連れて行きました。
島尾文学碑を訪ねてなかったのも気がかりでした。
途中、ほんのちょっと 町さんにも会うことができました。貴殿の影響で かなり奄美を意識するようになりました。 僕は奄美んちゅではないと断言してますが、学校区で教えられ育ってきているので 否めないものがあります。それは  それでいいのですが、 与論郷土研究についてはやっと本格的に動き出していると実感しています。 麓事務局長が張り切っていますので、新しい会員がエネルギーを注ぎ込んでくれるものと期待します。私はそろそろ自分の農業史をまとめる準備にかかりたいと思っています。 NPOに時間をさかれていたので、そちらのほうからも開放されたいと思っております。 「田舎で働き隊」の石田さんは今日の船で沖縄から戻ってきます。今晩は清野さんところで 読み聞かせメンバーによる送別会。
振り返るとこの半年は色々学ぶことが多かった。

これからも ヨロシクお願いします。

投稿: 泡 盛窪 | 2012/04/25 04:27

 " 「奄美」を「大島」に限定せず奄美諸島に拡張" 。。。これは真相に近いのでしょう。

 沖縄諸島の者にとっての「大島」は、奄美大島と加計呂麻&与路&請で、場合によっては喜界島を含むこともあるんですが、少なくとも徳之島、沖永良部&与論は「大島」ではないですね。

 また「アマミ」という言い方も、沖縄ではほとんどされてなく、薩摩侵略以前の古琉球時代でさえ、与論以北を「奧戸より上」と総称しているに過ぎなくて、全体を「アマミ」とする認識はなさそうです。

 また、これはどうなんでしょう?「アマミ」は本土側の名称で、「大島」は徳之島以南の認識ではないかと。。。外間守善先生によると「オヲ(大・青・粟・淡)」などは海人地名で、神々の中継地とされてますね。
 いわゆる "大島" は、徳之島、沖永良部、与論&沖縄にとっても、南九州の勢力にとっても、「アマミキヨ」の中継地なのではと考えますがどうでしょうか。

投稿: 琉球松 | 2012/04/25 10:32

盛窪さん

奄美関心は、ブログつながりと1609年絡みによるもので、ぼくももともと持っていませんでした。与論の郷土研究はいつか参加したいですね。


琉球松さん

ぼくも地名としての「奄美」は他称だと思います。「大島」は徳之島以南からの呼称が定着したものかもしれませんね。

中継地という観方。関心をそそられます。

投稿: 喜山 | 2012/05/05 14:52

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