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2012/04/29

かがり火が灯すもの

 昨日、4月28日、与論島と辺戸岬では海上集会が開かれ、夜には双方でかがり火を灯しあった。

 その由来を今日の「琉球新報」は次のように伝えている。

国頭村と鹿児島県与論町は28日、奄美群島が1953年に本土復帰した後に、国境となった北緯27度線で、沖縄の本土復帰を求める「海上集会」を43年ぶりに再現した。この日は沖縄や奄美群島が日本から切り離された52年のサンフランシスコ平和条約の発効から60年。ことしは復帰40年の節目にも当たる。

 海上集会は、63年から69年まで7年間に渡って行われた。生まれた年からだから、ぼくは参加したことはない。復帰の時に、沖縄島を眺めながら、その洋上に国境線が引かれていることに違和感を覚えた記憶がある程度だ。

 43年ぶりの海上集会の再現は与論から呼びかけて行われている。これは、与論らしい与論ならではのアクションだ。境界を消すということ、しかも強制的ではなく理論的にでもなく、溶かすようにほどくように線を消してゆくのが島の作法であり、それが与論島が体現しているクオリアだと思っている。

 参加者らは船上から互いに手を振り合い「よく来たね」などと声を掛け合い、約30分間交流。集会の最後には別れを惜しむように汽笛が鳴らされた。宮城村長は「こみ上げてくるものがあった」と語り「(沖縄の)米軍基地の集中は問い直す必要があるだろう」と強調した。 

 こういう素朴な交流が与論が伸ばせる触手なのだ。

 島からのブログ便りやツイート便りをみると、時化の海で集会は行われ、途中、波の上丸も迂回するという配慮を利かせたようだ。

 「沖縄本土復帰40周年記念の海上集会でした。水平線上に沖縄。」

 「洋上集会の時間帯にはちょうど、沖縄からの上りの船が通過する。「なみのうえ」コースを変えて、集会中の船の周りを旋回していきました。船長の粋な演出。」

 北緯27度線上の洋上集会だけではなく、記念行進も行われ、

 「復帰記念行進。路傍の白ユリ。」

 夜には、かがり火が焚かれた。

 「沖縄返還運動海上集会ののろし」

 「辺戸岬のかがり火」

 このかがり火は、海上集会とともに、沖縄が復帰するまで行われていたものだ。火自体は、国境を消す祈願としてだけでなく、その昔には与論でも灯されたか分からないけれど、薩摩軍の来襲を琉球弧に伝達する狼煙だった。火はつなぐ力だ。

 海上集会では、あの、「沖縄も返せ」も歌われている。

船団の中央では、国頭と与論の代表船をロープでつなぎ、宮城村長、麓委員長らが恒久平和や交流の深化を宣言。参加者全員で復帰闘争を象徴する歌「沖縄を返せ」を合唱した。

 これらの再現は、沖縄の日本復帰への祈念を行動に移したものだ。しかも基地のない復帰を祈願したものであれば、これは再現にとどまらず現在も通用する運動になりうる意味を持っている。そこでは、「沖縄を返せ」と言うけれど、誰が誰に何を返すかはそれほど自明ではない。当時の島人の心中の情を辿れば、「返せ」は、沖縄と離れてあることへの寂しさを滲ませた心情吐露でもあったろう。その情感(なさき)をもっと掘ってゆけば、沖縄が日本に復帰するのではない、日本が沖縄に復帰するのだ。そういう言い方でしか表せない課題を抱えている。それはまだ解けていないし優れて現在的である。復帰40周年に本当に問われなければならないのは、そのことだと思う。

 かがり火。それは与論を照らし、辺戸に伝わり、また、辺戸のかがり火は弱くあたたかく与論を灯す。そこに境界は存在しない。

 

 

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2012/04/21

「奄美大島開闢神話の民俗学的研究」

 町健次郎の「奄美大島開闢神話の民俗学的研究」は、地名としての「大島」の古名が「奄美」であることに疑問符を付し、その根拠を宙吊りにすることによって、開闢神話を神話としてではなく信憑として捉え、奄美に関わった、主に大島知識人のアイデンティティの構造を明らかにしたものである。

 町は書いている。

 注意したい点は、これらが「奄美」と呼ばれる集団が南に存在していたことを伝えていても、それが「大島」のことであると語っていないことである。そこに登場してきた「多祢」、「掖玖」、「度感」、「信覺」、「玖美」が音韻の重なりから、それぞれ「種子島」、「屋久島」、「徳之島」、「石垣島」、「久米島」という島名に比定して理解できても、唯一、「奄美(あまみ)」のみは、語呂合わせから「大島(おおしま)」を導くことは困難である」(p.22)

 『日本書紀』、『続日本記』に記された「海見」、「奄美」などの記述から「奄美」という存在は認められてもそれが大島を指すことは文字からは辿れないという点から、町は(奄美)=(大島)という等号に疑問符を突きつける。「奄美」が「大島」であるのは自明ではないとしてその根拠を宙に浮かせ、一端、括弧で括っておく。するとそこにはどういう光景が見えてくるのか。

 町によれば、近代以降、「奄美」という呼称が登場するのは明治6年の海軍資料においてであり、ついで明治30年の『大日本帝国全図』で地図上に「奄美大島」と記され、これが地名呼称としての「奄美大島」の嚆矢となる。そしてこれらの表記に根拠を与えたのが、近世期に記された新井白石の『南島志』だった。『南島志』で、「大島」は初めて「奄美」と断定される。それだけではなく、そこでの記述から、「湯湾嶽」を「阿麻彌嶽」と同一視する見方が生まれ、後年、高天原をめぐる鹿児島と宮崎の本家争いと同質の不毛な論争を招くことになった。『南島志』の影響は大きいと、町は書く。

 近代以降、大島では都成植義が『南島志』を受けて、奄美の歴史を、『大島史談』としてではなく、当時まだ耳新しかっただろう「奄美」を使って、『奄美史談』と題して書く。都成の神話には「阿麻弥姑」と「志仁禮久」が登場し、『南島雑話』にあった「宇奴加那之」と「天加那之」という二神は退けられる。これによって「奄琉同祖」の伏線が引かれる。次に、「阿麻弥姑」と「志仁禮久」のうち、「阿麻弥姑」が前面に立ち、「奄美姑」、「天御子」という漢字操作と日本神話との一致という見做しから、「天孫氏」との血縁関係を導き出している。これが「日奄同祖」の下敷きになり、「奄琉同祖」と合わせて「日奄琉同祖」を説くことになる。ここから現れるのは、開闢神が日本、大島、沖縄を渡っていったという移動経路で、町はこれを<開闢神の三点移動>のモチーフとして抽出している。

 続いて、東北人の笹森儀助は皇国思想を背景に、開闢新の移動を台湾にまで延長する。その後、伊波普猷は『古琉球』のなかのよく知られた一節で、

 琉球開闢の神アマミキヨの名は琉球人の祖先が九州から来て、奄美大島を経て琉球に来たことを証明する手掛かりになると思う。奄美大島の住民もまた自らアマミキヨの後裔と称している。彼らの口碑によれば、アマミキヨは、はじめ海見嶽に天降して大島を経営したが、暫くの後、南の方へ行ったということである。

 と書くが、町はここにいう「口碑」を笹森の『南島探検』からの「翻訳引用」と見ている。伊波は、「奄美」を介して種族の移動という「日奄同祖」を語り、ついで、開闢神「アマミ・キヨ」を通じて「奄琉同祖」を説き、都成と同様、三段論法のように「日奄琉同祖」を説くことになる。ここにも、<開闢神の三点移動>のモチーフが現れる。

 さらに、昇曙夢は <開闢神の三点移動>による「日奄琉同祖」に従いつつも、アマミコに焦点を当て、都成が退けた『南島雑話』の「宇奴加那之」と「天加那之」の二神の引用を可能にする。かつ、「天孫」に「アマミコ」とルビを振ることによって、日本との連結に照準するが、これは後の「日奄同祖」強調の前段でもあった。

 町によれば、奄美大島の開闢神話は、新井白石の『南島志』に端を発した、「大島」を「奄美」と呼ぶことによって可能となった言説であり、「日本・琉球の狭間に位置する開闢の古典なき大島」にとって、外から奄美を根拠づける要請に応えるものだった。

 大正期に入り、徳之島人である坂口徳太郎は開闢神話の「奄美」を、「大島」に限定せず奄美諸島に拡張する。この後、昭和戦前期では、「大島人」が「日奄同祖」と「奄琉同祖」を非対称に置き、「日奄同祖」を「奄琉同祖」の上位に位置づけ、<開闢神の二点移動>をモチーフとするようになるが、これは戦後の分離期に昇曙夢と泉芳朗によって再度、強調されることになった。

 復帰後、田畑勇弘は、近代以降、知識人によって文字化されてきた開闢神話が、土地に伝承されていないという問題を投げかけるが、一方でその指摘は、奄美の開闢神話の存在が「日本」との異質性を際立たせるという怖れからなされたものだった。現代では、それは経済資源として捉え返される面も持つようになっている。

◇◆◇

 「奄美大島開闢神話の民俗学的研究」を辿って改めて感じるのは「奄美」の空虚感(大島の空虚感ではない)の大きさである。自分たちを語る神話がないという空虚は、近代以降、知識人に開闢神話を紡ぐ余地を与えた空隙であったが、開闢神話の民俗学的研究の対象が、近代以降の知識人の表現に限定されるというこの論考の特異なアプローチを産み落とすことにもなった。

 町の論考からは、奄美(大島)が、「日奄同祖」によって沖縄を視野から外し、沖縄が「日琉同祖」のなかから同質的な奄美のみを抽出しその存在を希薄化するという相互疎外の経緯もよく見えてくる。(奄美)=(大島)の根拠を宙づりにすると、空虚を露わにするのは、当の「奄美」だけではなく、それを橋渡しに使った伊波の「日琉同祖」も根拠を揺るがされるということだ。

 また、この論考は「奄美」の空虚を開闢神話によって埋めるのは、大島の知識人にとっては切実であったが、地名として奄美諸島を覆う包含力はもともと持っていないことも明らかにするものであり、与論から見たときの「奄美」という言葉の疎隔感の由来もよく教えてくれる。言い換えれば、これは大島の外からはよく見える光景なのだ。町健次郎にとってもそうであったに違いない。欲を言えば、これは「奄美」の解体であり、そうであればこの仕事は大島人によってなされるべきではなかったのか。

 昇曙夢の奄美語りや泉芳朗の詩に接して感じるのは、何がなんでも日本人と見なされたいという表現の情けなさだ。奄美の知識人としてリーダーシップを発揮する者たちのこの情けなさは落胆する以外ない。この情けなさが、与論の郷土誌にしても、与論の民の「主体」は「天孫氏」の末裔であるという語り始めにも波及していったのだ。しかし、そう言えるのはぼくが現在という位置にいるからであり、渦中にいた際に彼らを笑うことはできなかっただろう。だから、この落胆はぼくたちの足場だ。「奄美」には語るべき神話がないことに始まり、語るべきことがないという自信のなさに通じる。しかしこれは、西洋近代に直面して正体を失いやみくもに突き進んだ近代日本の縮小再生産としての縮図でもある。何もないと感じられても、そこからしか語り始めるしかない。そういう意味では、町健次郎の論考も奄美ならではの奄美語りの系譜に連なるものだ。

◇◆◇

 さて、現象学的な方法論を採った論考の外に出るには、ぼくたちは町が宙吊りにした「奄美」と向き合わなければならない。するとぼくには、「海見」ないしは「奄美」などの地名呼称は、消去法によっても現在の奄美大島を指すのではないかという従来通りの信憑がやってくる。町は、「これらが「奄美」と呼ばれる集団が南に存在していたことを伝えていても、それが「大島」のことであると語っていない」と書いているが、『日本書紀』、『続日本記』が伝えているのは、「奄美」と呼んだ、あるいは呼ばれた「地名」が存在したということであり、それが遅くとも近世以降に「大島」と称された現在の奄美大島であることを地名からは辿れないということだ。むしろ、それが地名として残っていないなら、それは神名が地名となることがあるように、神名であった可能性を残している。すると、その神名を戴いた「集団」が現地に不在ということが謎になる。

 『日本書紀』、『続日本記』の段階で、「大島」という地名はまだなかったとしても不思議ではない。それは奄美大島のヤポネシア列島上の位置と巨大さから言って、そう他称される必然性も自称する必然性もなかったと思える。大島には他の島と同様、その内部は数多のシマ(集落)で形成されており、個々のシマには完結した生活宇宙が存在しているから、島人が島の全体を指す呼称を持っていなくても不都合はない。また、明治期に海軍が「奄美」と呼び始めたように、全体を指す言葉は政治に典型とされる俯瞰する視線が招来するものだ。ここに、「大島」の前に「海見」と呼ばれる余地があった。

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2012/04/08

映画『トテチータ・チキチータ』-頬を撫でる霧雨

 映画『トテチータ・チキチータ』は、2011年の10月に福島で撮影されている。これは重たい事実だが、それはこの作品が震災と原発という問題の中心に向かって題材を採ったことを意味していない。むしろ、企画が具体化しかけたときに、震災と原発事故は起こり、実現を断念しかけた経緯を持っている。

 けれど映画化が未曾有の天災と人災に遭遇したのは偶然に過ぎないけれど、ことの甚大さは偶然がもはや偶然には思えない機縁を感じさせる。そう言えるのは気楽な外野からだからなのだが、製作に携わった人たちの懸命の想いはその偶然を必然に置き換えるように、そこに引き寄せられるように映画として具体化されることになった。

 この遭遇を必然として刻み込むように、シナリオはいくぶん変更され、「なぜ、今、福島に行くの?」という罵声や「俺達、もとの学校に戻れるのかな」という高校生のおしゃべりの中に、震災と原発以後の日常が取り入れられることになった。ぼくたちは映画の作品世界に入りこみながら、これらの台詞の度に重たい現実と地続きであるのを感じて我に返るような気になる。しかし、ここでも、この作品は、その現実に依拠していない。あからさまに言えば、現在の問題に便乗していない。

 作品は、福島で撮られた山並みや大木や湖や、そこを泳ぐ水鳥たちの美しい光景を差し挟みながら進行していく。それは福島ならではの広い美しさを湛えた景色であり、この作品の背景を彩るのに欠かせないのだけれど、それでも、それに依存していない。ここから、重たい現実とロケの場所の意味を抜き取ったとしても、この作品は作品として成り立っただろう。震災も原発事故も福島の自然もこの作品の背景をなしているにもかかわらず、『トテチータ・チキチータ』 はそれに依存していない。つまり、福島という印を求めていったのではない。むしろ、福島を特異点の印であるように風聞化されるのに抗い、福島をどこの日常にも接続しているありふれた世界として提示している。ぼくにはそのように感じられた。

 この作品は、戦争によって家族を失った娘が老いの世代に入ったときに、その両親と兄の生まれ変わりと再会するというファンタジーとして設定されている。まず、母の生まれ変わりで現在は小学生の女の子がそれを察知し、兄である中年の男性と父である高校生の男性に、「お兄ちゃん」、「お父さん」と名指すことによって再会の機縁は生まれる。そして東京大空襲の夜の記憶が蘇り錯乱する娘である老女の前に、母である小学生が再会することで家族はふたたび一堂に会することになる。

 しかし、現実とちぐはぐな彼らの行動は次第に周囲と齟齬をきたし、追い詰められてゆく。もっとも敏感に生まれ変わりを察知した小学生である母も、実年齢の少女として周囲の眼に負けるように福島を離れることを決意する。そしてふたたび別れることは生を終えることを意味する他ないのを悟るように、娘である老女は命を落とす。その時、少女である母は、想いを残して死んだ者は龍神となって家族を見守り、彼らが苦しいときに霧雨を降らせて慰めるという言い伝えを信じているのだが、それに従うように、霧雨は降り、物語は出口へと向かう。

 この物語を描くのに映画の時間は充分ではなかったのではないか。ふと、そう思う。それというのも、生まれ変わりを察知する少女と、娘である老女はそれを確信しているのに、兄である中年男性と父である高校生はどこまでそれを信じているのか、その内面は描かれない。むしろ、少女や老女から「お兄ちゃん」「お父さん」とそれぞれに名指されることで、彼らは兄であり父でありを引き受けるしかないように見えている。もう少しその時間があればよかったのにと思いかける。ところが、映画は一時間半が費やされ短いとは言えない時間は取っている。サプライズのシーンが連発してあっという間にクライマックスに引き込む類の映画ではないにも関わらず、時間は足早に過ぎ、もっと由来や内面を知りたいという、なんというか、短編小説にも似た感想を送ってよこす。

 この淡さはしかし、この作品の特徴なのかもしれない。名指されることによってしか、父や兄という存在のリアリティを確認できないということは、彼らの内面が明かされないということではなく、名指されることによってしか父や兄ではありえないという淡さを示しているのかもしれない。しかし、それは頼りないということではなく、むしろ名指すということの力であり、名指すことによって関係が生まれるという可能性なのではないだろうか。

 物語の出口に降る霧雨は淡く、希薄に降り注ぐ。それは、頬を濡らすほどもなく、頬をそっと撫でるように降り、そして消えてゆく。重たい現実と向き合うように霧雨が濡らすというのではなく、それに抗するような、淡い気配と化す霧雨。中島みゆきの作品をして、「私がせっかく乾かした洗濯物を、またじとーっとしめらせてしまう、こぬか雨のよう」と言い放った松任谷由美に、「霧雨で見えない」という失恋の喪失感を歌った作品があるが、そのユーミンの「霧雨」ですら、この作品の前では濃い。

 少女の時代に家族を戦争で失い、生まれ変わりによってその再会を願うという孤独な老女を主人公の一人にし、震災と原発事故を抱える場所を舞台に選んでいるにもかかわらず、その重たさを希釈するように、作品は淡く、時折、笑い声が客席からも聞こえるようなユーモアを交えながらあっという間に終わる。エンドロールに流れる「美しい星」の歌も朗らかで愉しくどこか励まされる。それは監督の含羞が押しつけがましさを寄せ付けていないようにも思えるが、その控えめさが、1時間半という時間にもかかわらず、この背後には描かれない多くの言葉と世界があるに違いないという、愛すべき掌編とでも言うような、凝縮された印象を届けている。

 もうひとつ、琉球弧の内側から言えることを書いておきたい。監督は奄美の徳之島ゆかりの出身であり、そこから見える景色もあるからだ。監督がそれを意識しているのは、主人公の名が「一徳」と、ひそかに島の字を潜ませていることからもうかがい知れる。徳之島は、戦時中、特攻基地のあった場所であり、また、一昨年には普天間移設の候補としてその名が浮上したことは記憶に新しい。古勝監督にとって、戦争は年齢に比しても遠いものではない。

 また、姉妹が兄弟を守護するという「をなり神」、「えけり神」という兄弟姉妹の関係も、生まれ変わりを巡るこの作品の成り立ちに欠かせない要素になっている。父や兄との関係を察知し名指すのは母であり妹なのだ。龍神の伝承も生まれ変わりの信仰も、監督にとって頭だけで考えたものではない、その気配を知っている、不思議なことはあり得るという感得が身体のなかに、まだある。それが、龍神であり生まれ変わりであり、もっと言えば霧雨を実体化し強調し過ぎていない所以ではないだろうか。大袈裟に云わなくても、そういうことはある。とでも言いたくなる、奄美にはまだそういう場の力が残っている。そこに由来を持った人の作品であることは言い添えておきたい。監督がそう言っているのではなく、この作品がそのように語りかけてくるという意味で。


 映画『トテチータ・チキチータ』公式サイト

 映画『トテチータ・チキチータ』Facebookページ

 

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2012/04/07

体内言語から見た琉球弧

 吉本隆明の『ハイ・イメージ論2』『母型論』と吉成直樹の『琉球の成立―移住と交易の歴史―』から、体内言語である遺伝子からみた日本列島人を整理すると下表のようになる。

Dna_2


 吉成の解説に従って、場所を琉球弧に限り琉球弧人がどのように成立したかを見ると、まず、mt(ミトコンドリア)DNAのM7aが南からやってきて北海道まで北上する。また北からは、N9bが琉球弧まで南下する。縄文時代前期並行期には、曾畑式土器文化人と目されるY染色体DNAのD2が南琉球まで南下する。そしてオーストロネシア語族と目されるBが、琉球弧づたいに北上。次には、Dを東北アジアから追いやったとされるO2bが11世紀以降に南下し、南琉球まで到達する。

 これからの成果は、それ以前のものに比べると、より複雑になっている。歯列にしてもATLウィルスにしてもGm遺伝子にしても、おおよそ二系統で説明されていて、いわゆる二重構造説の考え方と符合している。むしろ、二重構想説という下敷きをもとに研究がなされた結果ではないかと思わせるくらいだ。

 歯列、ATLウィルスキャリア、Gm遺伝子の結果は、mtDNAやY染色体DNAときれいに一致するわけではない。与那国島で高い値を示すGm遺伝子の北方蒙古系は、O2bと似ているようにも見えるが、O2bの発祥の地はシベリア、バイカル湖付近かどうかは分からない。また、mtDNAでバイカル湖付近が発祥とされるAは、Gm遺伝子北方蒙古系と似た傾向を示さない。

 この表を眺めていると、日本人の語られ方と共鳴しあうように見えてくる。たとえば、養老猛司はどこかで、日本人は中国が嫌でやってきた人たちでしょうと語ったことがあるが、それはY染色体DNAのD2の動きに重ねてみることができる。また、ぼくたちが、無意識理にアイヌに親近感を抱く時、南と北で高い値をとるM7aを指している。さらに、少し前の琉球弧の世代が、何がなんでも日本人と云い張るために、天孫一族の末裔が私たちの「主体」であると主張したとき、O2bの流れにアイデンティファイしたものだと見なすことができる。

 ともあれ、体内言語である遺伝子の解明は、単一民族であると政治的に言われがちだった日本人像に風穴を開け、多様な種族の流れを含むものであることが明示され、風通しをよくしてくれる。

 ところで舞台を与論島に限ると、基層的な系譜であるM7aもO2bも関与しない。島はまだ海面に現れていなかったからだ。曾畑式縄文文化人の北からの流入も関与しない。与論は、オーストロネシアBの北上からが舞台であり、ついで、グスク時代のO2bを迎えるということになる。むろんその間もそれ以降も多様な流入と流出があったとしても、島が新しいということは、行き交う人の歴史もまた新しいということだ。与論は何もかもが古くなく見えるときがあるが、それはこうした島の成り立ちも加担していることなのだろう。


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2012/04/01

沖縄国際シンポジウム三日目の印象記

 休日を利用して「沖縄国際シンポジウム」の最終日に出かけてきた。

 「復帰40年沖縄国際シンポジウム これまでの沖縄学 これからの沖縄学」

 同時にいくつものセッションが開かれているので全貌を把握するのは無理。そこで、もっとも関心のあったパネルにまず足を運んだ。「琉球列島先史学最前線」。

 「最前線」という名づけの勢いが示すように、近年のこの領域の成果はめざましいのではないだろうか。得るところが多く刺激的だった。「世界の中の琉球列島史 島の先史学から」と題した高宮広土の報告。

 琉球列島の先史は、世界の先史学に貢献できる要素があるのではないか、として五つの特徴を挙げる。

1.旧石器時代にヒトがいた島嶼だった
2.島嶼環境であるにも関わらず、狩猟採集を営むことができた
3.自然と調和していた人々がいた島
4.狩猟採集から農耕への変遷があった
5.国家が成立した島

 これらのポイントは、世界でも稀有な例であるという。自然と調和していた、というのは、人が流入すると絶滅動物が生まれるが、琉球列島では今のところ、それは見当たらないということ。島嶼は狩猟採集が行われるには面積が小さい。しかし琉球列島ではその時代を持ち、かつ数少ない狩猟採集を持った島嶼は農耕へ移行することはないが、それも琉球列島では行われた。

 それぞれのポイントはぼくたちは無意識のうちに自明と見なしてきた事柄だが、他の例を当るとほとんど見つからないと指摘されて、琉球列島を見る眼差しに奥行きを与えられるような感銘を受けた。実際、いくつも想像をかきたてられる。たとえば、ふつう島嶼で狩猟採集を営むのは難しいとしたら、それだけ珊瑚礁の海の畑の恵みは大きいことを示しているのではないか。絶滅種に追い込むことがなかったのは、動植物と人間を区別する世界観を持っていなかったから。島嶼で国家が成立するのは稀有だということは、琉球王国の成立には人工的というか外的な要因が大きく働いたのではないか、などだ。

 吉成直樹が『琉球の成立―移住と交易の歴史― 』で、高宮の挙げたポイントを引いて「このような例はほかにないという」と書いているのを読んだときは、大袈裟な印象を受けたのだが、直接本人からの報告を聞き、そうなのかもしれないと思えた。そこに身贔屓にロマンを求める傾向を感じ取ることもできるが、それはぼく自身のものでもあり、今後の深化を待ちたいところだ。

 藤田祐樹は、港川人が華奢であることを、島嶼では動物が小型化する例を参照して一視点を与えたのも刺激的だった。また、いわゆるグスク人が中世日本人の頭骨と類似することから、中世日本人の移住を想定する向きが多いし実際そうなのだろうと思われるが、異種の人的交流がなくても頭骨、骨格は変化しうる例を、日本人の変化を例に挙げたのも、研究者ならではの冷静な視線を感じた。慎重でなければならない、ということだ。白保で発掘が進められている人骨が港川人以降のミッシングリンクをつないでくれるのか、これも今後の成果を期待したい点だ。

 新里貴之の「貝塚時代の社会変化」も刺激的だった。動物性タンパクはリュウキュウイノシシ主体から魚類、貝類主体に移る。この後、ふたたびリュウキュウイノシシへ比重は移るのだと思うが、最初から魚類、貝類ではなかったのは驚きだった。驚きといえば、居住地は、洞穴から台地・丘陵地に移り、砂丘立地になる。ところが貝塚時代後期後半になると、再び台地・丘陵地に移行するという点だ。居住地については、漠然と洞穴を出て台地・丘陵地に移り、農耕とともに低地に移ると考えてきたので、行ったり来たりの変遷は新鮮だった。珊瑚礁環境が畑であるという視点や貝交易との関連など、これも想像力をかきたてられる。ヤコウガイの大量出土は、奄美大島北部、久米島だけでなく、与那国島にも認められる。そういう意味ではヤコウガイ交易の口は三つあると言えるのではないかという指摘も興味深い。また、ゴホウラ、イモガイ、ヤコウガイなど、ときどきの流行により産地は栄えるが、流行が終わると、産地も廃れるという指摘も当時の状況を考察する上での重要な視点に思えた。新里の報告は、事象のマッピング、図解にも優れ、思わずほぼ全部写真に収めてしまった。

Senshi

 瀬戸哲也は、いわゆるグスク人を中世日本人の流入によって説明する傾向が強いが、中国を含む多様な交流のなかにグスク人を登場させる必要があるという主張を含んでいた。

 白紙か淡色なイメージで済ませているが、高宮が指摘する通り、琉球列島の歴史の95%は先史時代であり、ここが掘り起こされるということは、自分たちの祖先の動きに手を伸ばすことができるということだ。尽きない刺激波を放ち続けてほしいと思う。

◇◆◇

 午後は時代を現在に取り、「米軍基地が地域社会に及ぼす影響-辺野古・高江・グアム」を聞いたが、これは期待外れだった。三人のパネラーの発表の後、コーディネート役の多田治が、悪役と断ったうえで、何のために誰のために報告を行っているのかと切りこんだが、真っ当な指摘だった。ぼくは主題の重さに比べ報告のおすまし加減に退屈して眠りかけていたが、多田の無双ぶりに目が覚めた。会場からの質問では、「地域社会が米軍基地に及ぼした影響」もあるのではないか、受け容れたと言うが、現に基地が目の前にあっても受け容れていないという抵抗の仕方もあるのではないかという声が出た。もうひとつ、グアム移転という話が出たとき、他者性が浮かび上がったが、他の地域が沖縄をどう見るのかという視点で言えることはないかという質問もあった。これらについても、パネラーからの応答は弱く、回答になっていなかった。時間的に会場を出なければならなかったので、最後までいなかったが、去り際に壇上を見つめる、そうは多くない聴取者の表情も厳しかった。

◇◆◇

 他に聞きたいものもあるけれど、これを外すわけにはいかないと三つ目は、「映像と歌でつづる琉球紙芝居」。

 「おきなわの始まり・察度王の物語」は、久万田普の即興ピアノをBGMにした宮城麻里子の朗読。神話のなかに登場するアマミクの来歴に想いを馳せながら、耳を澄ました。羽衣伝説にまつわるところは民話の持つ魅力があったが、察度がのし上がる辺りからつまらなくなり物語としても意外に貧相な印象を否めなかった。ピアノと明朗な声は終始、心地よかった。

 シーサーズによる「島建てシンゴ~沖永良部島ユタの呪詞」には感銘を受けた。土地の人が自分たちが育んできた民話や歌を取り上げられるとき、不快に思うか喜びを受けるかの境界はどこにあるだろう。シーサーズは、三線の他にバイオリンやパーカッションも加え、大胆なアレンジを加えていた。ぼくは島建てシンゴのオリジナルを知らないが、これらの編集にも関わらず心動かされたのは、沖永良部の言葉と音階に忠実であったこと、持田明美によるイラストもどこか島の魂(マブイ)を引き継ぐもののように感じられたこと、冒頭に島の唄者の紹介があったことなどがすぐに思い浮かぶ。けれど、それだけではなく、島建てシンゴをただの手段として扱っているのではない島の歌謡に対する敬意とそれを表現するシーサーズの力量が大きく与っているのに違いない。メロディの反復が祝祭の昂揚のように白熱化していき、大きな拍手とともに幕は引かれた。公演はシーサーズによる「島建てシンゴ」という作品になっていたと思う。沖永良部の島人が聴く機会がありますように。

Shimadate


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