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2012/03/25

『書 文字 アジア』という贈り物

 石川九楊の『一日一書』を読み、漢字一文字の書が語りかけるものの豊潤さに驚いたことがあった。それは書をやってみようかと思いかけるほどだった。肉筆で書く機会もぐっと減っている今、そんな時間を持つまでには到底至らなかったのだが、規範的な重苦しさばかり感じてきた書に対する理解の端緒が得られた気がした。

 一方、それとは別にワープロで書くにしても、横に書くか縦に書くかは悩みどころだった。横にして書くとどうも気分が乗らないのだ。そこで手にした『縦に書け!―横書きが日本人を壊している』は、これまた漢字ひらがなを縦に書いてきた歴史性を深く捉えており、吹っ切れた。別に、日本人としてなどと大仰に考えたのではないが、縦に書くことに躊躇がなくなった。ミーティングのメモも原稿も縦に書くことに踏ん切りがついたのだ。

 石川の作品に触れたのはそれが初めてではなく、たしか、今は無き西武百貨店の美術書店アール・ヴィヴァンで、「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」から始まる親鸞の『歎異抄』の便箋を買ったのが最初だった。親鸞の言葉を縦横に張り巡らせた文字の上に自分のメッセージを乗せると、何か紙自体から肯定を受け取っているような気がして助けられるようだったのだ。便箋を壁に貼って眺めることもしていた。この商品があれば喜んで買うが、その後、お目にかかることがない。

 書も論考も骨太な石川だから、ぼくは吉本隆明と対談してほしいと編集者のようなことを思っていた。ところが、それは叶えられていたことを、最近、知る。吉本と石川の最新刊、『書 文字 アジア』は、まさに二人の対談と論考からなる。発刊を知ったのは吉本の死の直後で、かつ対談自体は二十年前に行われたものだった。吉本の死の直後、ぼくたちの手元に、彼の新著が、しかも、二十年前のそれが届けられたのだ。二十年前といえば、吉本はまだ自分の手で書ける健筆な時代である。晩年のように、インタビューを主体にしたものではない。その、かつての吉本の言葉を彼の死の直後に受け取れるなんて、思いもかけない贈り物だ。

 『書 文字 アジア』は、吉本の論理に対する厳しさと表意文字としての漢字が豊潤な意味を持って立ちあがってくる文体とが両方備わっていて懐かしい。

 石川の『日本書史』の書評。どこでもいいのだけれど。

 書史からみた日本の「中国時代」はやがて疑似的な「中国時代」へ、そして平安期の平仮名の発明が草化の極限で始まるとともに和国風の「日本時代」が始まる。この書史からみた時代区分の仕方は詳細をきわめ、この本の奥行きを従来なかった深さに到達させていて、力篇と呼ぶべきところまで到達させている。

 ああ、吉本だと思う。漢字の表意の生命力を豊かに手繰り寄せる緊迫が論理を骨太に展開させている。話し言葉全盛の現在ではこうした文体は流行らないけれど、この文体でなければ伝えられないことがあるのも確かだと思える。

 論理の厳しさがもっともよく現れるのは、文字の表音と表意が現在の形になったことについての必然と偶然を巡った議論。石川が「の」が「の」になる最初には、そうなる必然めいたものがあったのではないかということに対する吉本の回答。

 いや、ぼくは認めないですな。その必然を認めるのは母音だけですよ。母音だけは母音だけはぼくはあったと思いますよ。つまり、どういう必然かというと、いちばん明瞭なのは咽喉から上の身体的構造は人種によっていっこうに変わらないっていう、多少の部分的な違いはあっても、おおよその構造は変わらないということにしか必然の根拠というのはないと思いますね。それは母音の必然的根拠で、あとは全部偶然だと思いますね。

 吉本はこの後も繰り返し、必然ではなく偶然であると主張する。それは執拗なほどだが、必然性に重きを置いてきた思想家の重要な力点を読む方は感じ取る。

 ぼくは平安期ということで日本的ということを考えていますし、それから鎌倉時代をすっとばして室町期に入ってそこに日本的というのが継承されえちると考えています。またその以前的っていつかというなら奈良朝以前ですね。日本以前の日本っていったらいいでしょうか。それを考慮に入れるとだいたい南西太平洋の島とかインドからはじまってそのずっと大陸の沿海部に近いところとか、そういうところと日本の島というのとをまあまあ同列にあるいは同質に考えても間違いないと思うんですよね。ぼくの考え方だとそうなるんですけれども。(p.235)

 ここは『母型論』の頃の吉本の問題意識が貌を出し、ぼくたちは対談が行われた時代にこの本を同期させることができる。と同時に、南島や琉球を考える者にとって遺産でもある個所だ。

 『書 文字 アジア』は吉本からの思いがけない贈り物で、彼亡き後のぼくたちに、気落ちしている時ではないと語りかけるようだ。


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コメント

力のない浅薄な言葉が氾濫しているいまの世の中は、言葉が軽くなったぶん、まるで意味のない無駄なお喋りを吐き散らす饒舌な人間が増えた。
なによりも慎重に言葉を選ぶべきメディアの報道番組でも、ステレオタイプで退屈なだけのコメントをペラペラと垂れ流している。あんな空疎なお喋りを朝から晩まで聞かされていたら、いまどきの人たちが言葉の重みに鈍感になるのも当然だろう。
軽佻浮薄な言葉の氾濫が人々の心を荒ませているのはまちがいない。地に足の着いていない言葉は、人々の心を根無し草のように漂白させる。
なにか、いまどきの人々は「もののけ」にとりつかれているようにも感ずるが、この身辺を飛び交っているフワフワした言葉群こそが、現代の「もののけ」の正体ではないかと思っていた。
一字の漢字または二字熟語で的確に世界をあらわす、そういう世界をとり戻さなくてなイカンなと思う。
本文と関係ないようで、すみません。

投稿: かわうちけいし | 2012/03/25 17:13

言葉の意味概念と視覚像を両極として、
その中間を、
オルト、パラ、メタ、のイメージとして
三段階に分け「パラ・イメージ論」で
追いつめていたことを
『書 文字 アジア』ではっきり
聞くことができました。
圧巻でした。

投稿: あんあん | 2012/03/26 11:30

> かわうちけいしさん

そうなら、ネットは「もののけ」なのかもしれませんね。せめてじっくり書く場所を確保しなければと思います。


> あんあんさん

そうでした、そうでした。オルト、パラ、メタのイメージ論は、ソシュールのシニフィアンとシニフィエからは出てこない、表現としての言葉に着目してきた吉本さんならではのものですね。

コメント、ありがとうございます。

投稿: 喜山 | 2012/03/26 21:17

「咽喉から上の身体的構造は人種によっていっこうに変わらない」というのは三木成夫由来の知見ですね。『母型論』で心的現象論と三木成夫の解剖学が接続するところはマルクスが<経済>を発見する時みたいなイメージがありました。

共同幻想、言語美、心的現象の3部作以外にも読み返すと独りの思想家並みの本がゴロゴロしている感じがしますね。

投稿: 独解 | 2012/05/17 10:58

独解さん

お返事遅れてごめんなさい。とても親近感を持って、ブログの記事を読んだことがあります。

コメントいただけてとても嬉しいです。これから、どうぞよろしくお願いします。

投稿: 喜山 | 2012/05/27 14:07

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