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2012/03/16

吉本隆明、逝く

 吉本隆明が亡くなったのを今朝、ツイッターで知った。デマではないか、というよりデマであってほしいと検索をかけたが、NHKもツイートしているのを見て断念。いつかはこの日が来るのを頼りなく思ってきたが、とうとう来てしまった。世界の根拠が揺らいでいる、という言葉が不意に浮かび頭をめぐった。世界の根拠が揺らいでいる。未明の地震はその徴だったのか、などと。

 自分のいる場所がさっぱり分からなくなってしまった二十歳の頃、新宿紀伊国屋書店で「『反核』異論」を買ったのが、吉本の本を手にした最初だった。本の中身より、そこに「自立」という言葉を見つけ惹き込まれ、その意味が知りたくてすぐに「『自立』の思想的拠点」を探した。大手書店にも在庫がなかったので、新橋(だったと思う)の徳間書店に直接、足を運んで買い、近くの喫茶店でむさぼり読んだのを覚えている。すでに巷はバブルの気配で浮き足立っていたがぼくの心は暗澹としていた。80年代の半ばに、学生運動の激化した時代の本に夢中になるなど、遅れてきた青年どころではない、遅れに遅れた青年という気分だった。

 「試行」という同人誌の存在も知り、まだやっているらしいので申し込み購読した。読み進めると、「南島論」という論考にぶつかる。なんと自分たちのことを正面から取り扱っている。そのことに驚愕して読み耽ったが、思えばこれが吉本のめり込みの決定打だったかもしれない。

 講演の追っかけも始まった。中央区の区民会館、リブロブックセンターと、東京の地の利を生かして講演の予定を知るたびに出かけていった。大学で講義を受けていた江藤淳の論理的かつ流暢な話しぶりとは異なり、「えーっと」を連発、「何ていったらいいんでしょう」と言い淀みながら、しかし気づくと巨大な光景を目の当たりにさせてくれるのに魅了された。頭をかきながら野太い低い声でのしゃべり口もすぐに真似していた。学生の分際で、名古屋まで追っかけをしたこともあった。詩の雑誌「鳩よ」主催のシンポジウムで、吉本は、岡田由紀子の自殺を引きながら、「格好いいとは何か」をテーマに話したと思う。

 そして1987年の「吉本隆明25時」。ぼくは当日の日経新聞朝刊でイベントを知り、遅いと知りつつ会場まで出かけたがチケット完売で入場は無理と言われた。いつもの自分ならすごすごと引き下がるところだが、何とかならないかと食い下がった。しばらくするとキャンセルが出て、幸いなことに24時間イベントに参加することができたのだった。追っかけは、2008年、昭和大学記念講堂と後日、紀伊国屋書店で中継された「芸術言語論」まで続くことになる。

 六年ほど前に、実際にお会いしたことも一度だけあった。40枚ほど書いた小論を、「もったいないから200枚くらいにして本にしたら」と励まされたのにかこつけて自宅にお邪魔させてもらったのだ。「多ちゃん」と電話越しにスケジュールの確認をされていたのを思い出す。ぼくが奄美や琉球の人の「日本人になる」ことへの衝迫について話すと、おもむろに日本の近代詩人の営為について語り始めた。あまりに関係のない展開に驚き、最近呆けてきたという意地悪な世評は本当だったのかと内心不安だった。切りのいいところで話題を変えようと待ち構える。すると、湯呑みを口元に運びかけたのでここがタイミングと思っていると、湯呑みに注がれたお茶は飲まれないまま再びテーブルに置かれ、吉本さんは話し続けてしまう。これはもう行くところまで行くしかないと、ぼくは諦めた。

 ところが、である。延々と解説した後に、近代詩人が西洋の詩と等価になることを詩作の隠れた主題にした、ある意味で不毛な努力は、漢字やひらがなを使った文字の表記の歴史が浅いことに由来しているのではないか、その時間の堆積の浅さが不安を招くのではないかというところに話しが及び、心底驚いた。吉本はぼくの投げかけにきちんと深いところから回答していたのだ。まだ、あった。カ行以降の五十音は、第三段目の音と母音で作ることができる。たとえば、カは、三段目のクに母音のアを続けると、クァのようにカの音になる。三段目の音と母音で日本語入力は可能だ。ただし、タ行だけは、三段目と母音の組み合わせでは、音を作ることはできず、トァのように五段目の音を使う必要がある。だから、日本語のなかでタ行は最初にできたか最後にできたかのどちからではないか、と語った。ぼくは原理的な思考の辿る、講演で見せてもらったような巨大な光景を目の当たりにして、圧倒された。こんな風に考えるんだ、こんな風に遠くまで行けるんだ、と。

 ぼくは書くことによる表現の魅力に引き寄せられていったと思う。ぼくもこんな表現を産み出したい。二十歳からの事始めは表現者としてあまりに遅すぎる出立だったが、「どんなことでも十年、毎日続ければ本物になる」という言葉を頼みに書き続けていった。

 ぼくは吉本隆明から、原理的な思考の深さと射程の遠さを学び、学び続けていると思う。生き方、ものの考え方の多くをこの人に拠ってきた。この人がいなかったら、ぼくの人生はもっとあてどなかったろう。読み漁ってきたなかで、最も心に食い込んでいるのは、

 琉球・沖縄は現状のままでも地獄、本土復帰しても、米軍基地をとりはらっても、地獄にきまっている。ただ、本土の弥生式以後の国家の歴史的な根拠を、みずからの存在理由によって根底から覆えしえたとき、はじめていくばくかの曙光が琉球・沖縄をおとずれるにすぎない。

 という「<異族>の論理」だ。また、敬愛を根底から支えたのは、このような言葉だった。

 <知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。(「最後の親鸞」)

 いまは吉本がいなくても考えていくことはできる。けれど、何を考えているかを知りたい読者のために、いつも倫理的な態度で自分の考えを表明してきたその肉声をもう聞くことはできない。そのことが心もとなく、そしてたださびしい。

 なんだか遅すぎる恋文みたいになってしまった。とおとぅがなし、吉本さん。

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コメント

お久しぶりです。ブログを書きながら、吉本隆明→島尾敏雄→喜山さんというベクトルを思い出しました。昨日、私にとって最後の卒業式になりました。この3月で停年退職です。今朝、吉本隆明さんの死を知り、大きなショックを受けました。私の人生も吉本隆明さんならどう考える?と背中に感じながらの人生でした。企業を辞め、教職に就いたのも背中を押したのは吉本隆明さんでした。「戦後の世界」を終え、私も4月から自分の考えで新しい世界に進みます。

投稿: tssune3 | 2012/03/17 15:28

tssune3さん

停年退職、おめでとうございます。

吉本さんの影響をそれほどに受けているとは存じ上げませんでした。哀しんでばかりもいられませんね。4月からのtssune3さんが楽しみです。

投稿: 喜山 | 2012/03/18 17:45

人は人に影響を与えることも出来なければ、
影響を受取ることもできません。

ただ<自分>が<自分>自身を
どこまでも深化させてゆくという
自己影響だけが<影響>です。

その原則をひそかに守ってきたという
吉本隆明さんにならって、
逝ってしまった吉本隆明さんを
受けとめています。

投稿: あんあん | 2012/03/27 10:25

あんあんさん

太宰の言葉を引いた吉本の言葉をぼくも心に刻んでいます。自己理解もなく他者に理解を求めるのは許しがたい傲慢であるという言葉も。

心を動かされたところからどれだけ自己問答をしてきたかが大切なのでしょうね。

投稿: 喜山 | 2012/03/27 22:06

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