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2012/02/11

砂州としてのユンヌ(与論島)

 与論の島言葉名であるユンヌは「砂」を意味するのはないかと、たびたび書いてきた(ex「砂の島、与論島。」)。いまもこの考えは変わらないので補強してみる。

 崎山理は、琉球語の「ユニ」の原義は「砂」であり、かつオーストロネシア語に由来するとしている。これまでもユナ系の地名は「砂」の意味であると語られてきたが、「ユニ」が起点であり、「ユナ」は与那国、与那嶺、与那原などのように複合語になった時の音であると捉えられている。音韻のバリエーションもさまざまだ。

 ヨネは、琉球諸方言の、たとえば、与那国島 duni、竹富島・鳩間島 yuni、波照間島 -yunee 、石垣島 yuuni 、首里 yuni と対応し、これらはすべて「砂州」を意味する。(「日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名」)

 ぼくがここで着目したいのは、石垣島の「yuuni」の音である。

 『与論町誌』にはこうある。

 もと鹿児島県立図書館副館長の栄喜久元氏は、「文献上にあらわれている“ゆんぬ”または“輿論”に関する古い記録としては、『奄美大島史』によるもののほか、明治三十四年に冨士房から発行された『斉日本地名辞典』(吉田東伍編)に中国の明人の書に“繇奴(ユウヌ)につくれり”とあり、また琉球の『中山伝信録』の中に三十六島の一つとして“由論”の名が出ている」と述べている。(p.2)

 明の時代、与論が中国から「ユウヌ」の音として漢字化されたことがあったというのだ。石垣島の「yuuni」、ユウヌはユウニが転訛したものと見なせるから、同じユニ系の言葉として捉えることができる。そこで、「ユニ」が「ユンヌ」になるまでの音韻の変遷を復元すると、

 yuni > yuuni > yuunu > yunnu

 となる。ユウヌをユンヌの手前の音韻と見なすわけだ。そこで、明人は「繇奴(ユウヌ)」と記した。

 はたしてユウヌはユンヌへと変化しうるだろうか。たとえば、津軽では「ちょうど」が「ちょんど」となり、下北では「ゆうべ」は「ゆんべ」、阿波では「しょうがつ」が「しょんがつ」になる。大阪では「ぼうさん」が「ぼんさん」。思いつくままに挙げても長音が撥音化される例は出てくる。これらの例からは濁音の前の長音が撥音化される傾向を認めるこのができるが、「ぼうさん」のように濁音の前以外でもありえると見なせる。実際にユウヌよりユンヌのほうが言いやすく音便に適っていると思える。

 また同じユニ系の地名を持つ与那国島について、村山七郎は伊波普猷の「朝鮮人の漂流記事に現れた十五世紀末の南島」を引いている。伊波に協力した小倉進平は、漂着した与那国島(1477年)を表したユンイシマと読める文字について、ユンは「与那・ユナグニ等におけるユノまたはユナに宛てたものと思はれ」、イは「特別の意味なく添へられたものだと思はれます」と言っている(『琉球語の秘密』村山七郎)。小倉はユノまたはユナにユンを当てたというように理解していると思われるが、実際にユンと聞こえたのかもしれない。もっと言えばユンイと聞こえたのかもしれなかった。ユニのユンヌへの転訛を考えればありえないことではない。

 ところで、オーストロネシア語の「砂・砂洲」としてのユニは琉球弧を北上し列島の大きな島に入ると、「米」の意味をまとうようになる。たとえば12世紀前半の『名義抄』にイネノヨネとあるのは、「米の実」を意味していた。

 南西諸島から西日本にまで移動し、すでに定住していたオーストロネシア語族が、縄文時代末期に渡来した稲の穀実を「砂」に見立て、このように命名したのである。

 「ユニ」は西日本に入り五母音化の影響を受けて「ヨネ」に変わる。そしてそれだけではなく、味気ない色の「砂浜」に憑依するよりは地名を離れて「米」に憑依した。琉球弧の白亜の砂浜はただ美しいだけではなく神聖な場所だった。「米」もただの食糧というのではなく、祭儀として昇華されたように信仰の象徴だった。「ユニ」が列島の砂浜ではなく米に憑いたことに、ぼくたちは合理より喩を選択した初期ヤポネシア人の詩的精神をありありと感じる。「砂州」としての「ユニ」は「ヨネ」に五母音化して、「米」に転移した。これは「ユニ」の詩的冒険だ。

 また、原義を離れて別のものの名となるのも珍しいことではない。崎山によれば熊本ではヨナが「火山灰」の意味になっているし、また沖縄の首里ではあられをユキと呼んだ。

 崎山は、「ユニ」の意味と転移だけではなくその時期も想定しており、オーストロネシア語族とともに「ユニ」が北上したのは縄文時代晩期から弥生時初期にかけてのことだとしている。上限は約三千三百年前に遡れるわけだ。管浩伸の「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」によれば、珊瑚礁としての与論島が海面に到達するのは約三千五百年前。沖縄島には一万数八千年前とされる港川人がおり、奄美大島のヤーヤ遺跡は二万年五千年に遡ることができるのを踏まえると、与論島は琉球弧のなかでも相当に新しい。そしてそこにほどなくして、オーストロネシア語族が南からやって来る。彼らの一部はその真新しい島の初期島人にもなっただろう。そこから「ユニ」が「ユンヌ」へと転訛する冒険が始まったのだ。

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