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2012/02/19

アーマンチュとアマミキヨ

 当山昌直は、アマン、つまりオカヤドカリの伝承をもとに、アマン神とアマミキヨの関係について、次のようなシナリオを描いている。

 古い時代、琉球にはアマン神(アマンチュ、またはアーマンチュ)にかかわる創世神話が民間に広く分布していた。一方、沖縄島玉城には比較的新しい時代の神話としてアマミキヨの伝承が残っていた。後の時代になって支配者はこれらの二つの神話をもとに支配者(王府)の神「アマミキヨ」を祀ることになった。この王府の「アマミキヨ」は、支配体制の中で奄美・沖縄へとひろがり、各地に存在していたアマン神はアマミキヨへと置き換わっていった。一方、王府の影響が少ない宮古・八重山諸島では王府のアマミキヨは民間には残らずに、特に八重山ではそのまま創世神話のアマン神が残った。(『奄美沖縄 環境史資料集成』 2011年)

 アマンチュ(アーマンチュ)はアマミキヨに取って代わられただけではない。アマミキヨ自体がアマンチュ(アーマンチュ)を言葉として元にしている。そしてそのアマミキヨは、奄美大島、喜界島周辺を去り南へ向かい、奄美から不在となった。

 祖神ははじめ、オカヤドカリというトーテムとして北上する。しかし、新しい祖神は農耕儀礼の神として北からやってきた。それを演じるもとになっているのがアマンという同じ言葉だとすれば、まるでブーメランのようだ。アマンは農耕儀礼の神に変態したのだ。「砂」は「米」となって戻ってきたが(cf.「砂州としてのユンヌ(与論島)」)、ヤドカリはその「米」の神となって返ってきた。言葉の壮大なドラマがここにある。


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2012/02/18

砂州としてのユンヌ(与論島)-注釈

 東恩納寛惇の『南島風土記―注釈 沖縄・奄美大島地名辞典』(1950年)における与論島の記述は次の通りだ。

 輿 論 島

 沖永良部島より南西約十七浬、沖縄島の北端より約十浬の海上にあり、周圍約三里、方一里に充たず。方音「ユンヌ」輿留濃に作り明人繇奴に作る。沖永良部と連稱して「ユンヌエラブ」と云ふ。古へ國頭並輿論永良部等の地方、共に「奥渡より上の扱理」の専管たり。姚姓又吉系譜伝、「萬暦年間、叙築登之座敷、敍黄冠、而後任惠良部島地頭職。萬暦四十二年甲寅、任輿留濃地頭職。」主邑茶花島の西端に在り、赤佐又赤座に作る。茶花は謝花と同格の地名なるべし。

 「任輿留濃地頭職」の「輿留濃」の箇所には、「ユンヌ」とルビが振ってある。これが出典の系譜伝に添えられているのか分からないが、1614年、与論は「輿留濃」と表記されたことがあった。島言葉で読めば「ユルヌ」となる。だがこれは、「ユルヌ」に「輿留濃」を当てたものではなく、「ユンヌ」の音に近い漢字として「輿留濃」をl当てたものだろう。仮に17世紀に「ユルヌ」と呼ばれていたのであれば、ユルヌからユンヌへの音韻変化はどこかに記述として残っていておかしくないはずだ。それよりは地名の慣性の方が妥当に思える。「輿留濃」はむしろ、「輿論」や「由論」と書かれる前段の漢字と見なすと変遷が理解しやすい。

 「砂州としてのユンヌ(与論島)」の注釈として書いておく。


 

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2012/02/12

『琉球独立への道』

 松島泰勝の『琉球独立への道』(2012年)を読み、沖縄の日本に対する心理的距離が修復不可能なほどに遠く隔たってしまっているのに気づく。松島は、日本とがんじがらめになってる「沖縄」という言葉を用いずに「琉球」という言葉を対置する。この言葉の選択そのものが日本と対で想起されることを嫌ったものだ。

 日本が沖縄に「植民地」を強いているという松島の主張は、パラレルにアメリカが日本に「属国」を強いているということを思い起こさせる。沖縄が日本に対して無力なのは日本がアメリカに対して無力であるのと同じである、というように。しかしよく聞くこの連想は思考停止を呼んでしまうが、そうしてしまえば、「属国」の象徴であり実体である米軍基地の多くを沖縄に強いていることから目をそらさせてしまう。しかし、日本が主権国家であるなら米軍基地は沖縄のみならず日本からも全面撤去されなければならないのは言うを待たないことであり、松島の怒りは至極、真っ当なものだ。

 松島が「沖縄」という言葉ではなく「琉球」と言うことには、与論島の者にとっては格別の意味がある。沖縄では含まれないが「琉球」なら奄美に対して開かれているからだ。だが、松島はその範囲は「沖縄県」と書いている。

その範囲は現在の沖縄県の島々とする。琉球文化圏という言葉もあるように、奄美諸島とは琉球王国時代に共通の歴史をもち、文化、気候、風土、動植物等において共通点を多くもっている。しかし、1609年の島津藩による琉球侵略以後、奄美諸島は島津藩の直轄領となり、王府の政治的影響力がほとんど及ばない地域となった。その後、鹿児島県の行政区域となり、戦後、激しい「復帰」運動を経て鹿児島県の一部となった。また奄美諸島には琉球王国により武力で王国内に編入された歴史がある。(p.ⅳ)

 この態度には、奄美の人からも「自分たちは含めないでくれ」と言われた背景も手伝っている。「奄美諸島は琉球王国により武力で王国内に編入された歴史がある」という言もまた、奄美大島の中から時折、聞こえてくる言葉だ。こう語られる時、琉球だけではなく、琉球、薩摩、アメリカがセットになることが多い。このどちらにも支配されてきた歴史がある、と。だが、個人的にも年長者からも具体的な被害を聞くことのない「琉球」による征討が、薩摩、アメリカと同等に語られるのは奇異なことであり、これは本来、立ち向かわなければいけない相手から目をそらすための方便に、ぼくには聞こえる。ともあれ、文化は近しいが歴史を異にするとよく言われる言葉を引くように、松島は独立構想の範疇に奄美を含めていない。また、こうも書いている。

さらに琉球では独立論者、独立党、独立に関する書籍、シンポジウム等が数多く存在するのに対して、奄美諸島では新元博文の主張を除いて独立論が多くないという状況もある。

 ここはぼくも他人事ではなく書かなければならない。『奄美自立論』を書いた時、出版社からのオーダーが「奄美独立論」がテーマだった。ぼくは「奄美独立」について一度も考えたことがないので驚き、「自立」というテーマを選択した。まず、「奄美」のなかに与論島は含まれる地理用語は理解していても「奄美」という言葉が自分のものであるという程の親近感はない。また、「奄美独立」と言ってもそれは名瀬中心を指すに過ぎず、奄美の周縁に位置する者は軽視されるに決まっているという偏見もあった。「奄美」は奄美をひとくくりにできる包括力を持っていない。そうであるなら、そこが独立することなど考えたこともないのは自然なことだった。ただ、仮に包括力があったとしても、沖縄の十分の一しかない人口で何もできないという無力感が襲ってくるだろう(松島がフィールドワークしている島嶼国家の独立例は人口が問題ではないことを教えるものなのだが)。

 松島は自己から日本人を区別し琉球人としてアイデンティティを置く。ぼくも自分を日本人として感じたことはない。けれど、その代替として奄美人にはリアリティがないし言葉そのものが熟していない。そうやって考えれば、最もリアリティを持つのは、与論人(ユンヌンチュ)である。それなら自称することができる。次に親近感があるのは琉球人である。けれど、琉球人を自称するのに、日常的で身近な交流の相手がいない。与論とはそういう位置だと思う。このような対置すべき規模のないアイデンティティが、それでもここ最近、抵抗感が下がっていると感じるのも確かだ。日本人だと思えるようになったということではない。「単一民族」という言説が容易に相対化されるようになり、言語についても単一のものではないことが明らかになりつつあり、日本列島にやってきたヒト集団の様相も少しずつ、単色ではないことが市民感覚としても共有されるようになってきたからだ。

 沖縄学は、東北学などのように日本国の多様性を明らかにする地域学の1つでしかないのか。植民地を対象とする学問は、当該地を統治し、支配するために学問が利用されてきたという歴史をもっている。琉球が日本とは別のネイションであることを前提としない沖縄学は、琉球の植民地支配に流用されるおそれがおおいにある。

 沖縄学が琉球の脱植民地化に役立つ学問になるにはどうしたらいいだろうか。何世紀にもわたる外部からの支配の下に生まれてきたアイデンティティを確認するために、言語学、歴史学、考古学を通じて「集合的自我」を再発見し、「エスニックの過去」の中に自分のルーツをつきとめることが重要になる。民族の学問を通じて、「受動的なエスニック共同体」を「活動的なエスニック共同体」つまり政治共同体、歴史の主体に転換することが可能になるだろう。(p.169)

 ぼくはここで引かれているアントニー・スミスの『ナショナリズムの生命力』をまだ確認していないので、ここでの文脈をいまひとつ追えないのだが、ぼくがやりたいと考えているのも、何がなんでも日本と同じ民族であるはずだという思い込みを、内側から開くことだ。そのために、『奄美自立論』をもっと大きな広場に出すには松島の次の視点は必要なものとして視野に入ってくる。

 島津藩支配下の奄美諸島において、厳しい砂糖収奪や奴隷制の世界史的意味も、三角貿易下にあったカリブ海諸島と比較してこそ明らかになるだろう。17~18世紀にかけて、西欧から武器・雑貨が西アフリカに運ばれ奴隷と交換され、商品としての奴隷がカリブ海諸島、アメリカ大陸にもたらされ、砂糖黍プランテーション等において酷使された。奄美諸島の場合は、島津藩が雑貨等を島にもたらし、島民を労働力として使うなど、奴隷制、砂糖黍プランテーションが同諸島内において完結していた。砂糖黍プランテーションは16世紀ポルトガルが自らの植民地、ブラジルをはじめ、その後、中南米、フィリピン、ジャワに拡大しており、奄美諸島における奄美諸島における砂糖搾取時代と同時期である。(p.12)

 この視点は問題意識として引き継ぎたい。

 ところで、『琉球独立への道』のアジテーションの核心は次の言葉だ。

琉球独立後、日本国には米軍基地を引き取ってもらいたい。(中略)。米軍基地が拡大した日本国では憲法「9条」の形骸化がさらに進むだろう、琉球国は「9条」を日本国から引き取り、自らの憲法に「9条」を明記する。琉球は国として日本国から分かれることで「戦争の島」から「平和の島」へと生まれ変わる。(p.ⅲ)

 国家としての日本はこの言葉を受けとめなければならないと思う。

◇◆◇

 松島の「琉球」は奄美に対して開かれた通路を最後に置いている。

 奄美諸島は、1609年以降、他の琉球とは異なる歴史過程をたどってきており、琉球連邦と対等な地位で参加するかどうかは、奄美諸島人民による議論と、住民投票を各島々で実施するなかで決定されよう。(p.249)

 これは、これまでどちらかと言えば決めつけられてきた態度からは一線を画するものだ。

 今年は沖縄「復帰」四十周年に当たる。1972年、松島は9歳。もう何事が起こっているかは理解できる年齢だ。松島の「独立」という選択は、問題意識を持った者が歩んできた生の四十年の帰結であり通過点である。松島のほんの少し北の境界線の向こうで「復帰」を見つめた松島と同年齢の者にとって、松島の歩みに目を向けずにはいられない。



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2012/02/11

砂州としてのユンヌ(与論島)

 与論の島言葉名であるユンヌは「砂」を意味するのはないかと、たびたび書いてきた(ex「砂の島、与論島。」)。いまもこの考えは変わらないので補強してみる。

 崎山理は、琉球語の「ユニ」の原義は「砂」であり、かつオーストロネシア語に由来するとしている。これまでもユナ系の地名は「砂」の意味であると語られてきたが、「ユニ」が起点であり、「ユナ」は与那国、与那嶺、与那原などのように複合語になった時の音であると捉えられている。音韻のバリエーションもさまざまだ。

 ヨネは、琉球諸方言の、たとえば、与那国島 duni、竹富島・鳩間島 yuni、波照間島 -yunee 、石垣島 yuuni 、首里 yuni と対応し、これらはすべて「砂州」を意味する。(「日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名」)

 ぼくがここで着目したいのは、石垣島の「yuuni」の音である。

 『与論町誌』にはこうある。

 もと鹿児島県立図書館副館長の栄喜久元氏は、「文献上にあらわれている“ゆんぬ”または“輿論”に関する古い記録としては、『奄美大島史』によるもののほか、明治三十四年に冨士房から発行された『斉日本地名辞典』(吉田東伍編)に中国の明人の書に“繇奴(ユウヌ)につくれり”とあり、また琉球の『中山伝信録』の中に三十六島の一つとして“由論”の名が出ている」と述べている。(p.2)

 明の時代、与論が中国から「ユウヌ」の音として漢字化されたことがあったというのだ。石垣島の「yuuni」、ユウヌはユウニが転訛したものと見なせるから、同じユニ系の言葉として捉えることができる。そこで、「ユニ」が「ユンヌ」になるまでの音韻の変遷を復元すると、

 yuni > yuuni > yuunu > yunnu

 となる。ユウヌをユンヌの手前の音韻と見なすわけだ。そこで、明人は「繇奴(ユウヌ)」と記した。

 はたしてユウヌはユンヌへと変化しうるだろうか。たとえば、津軽では「ちょうど」が「ちょんど」となり、下北では「ゆうべ」は「ゆんべ」、阿波では「しょうがつ」が「しょんがつ」になる。大阪では「ぼうさん」が「ぼんさん」。思いつくままに挙げても長音が撥音化される例は出てくる。これらの例からは濁音の前の長音が撥音化される傾向を認めるこのができるが、「ぼうさん」のように濁音の前以外でもありえると見なせる。実際にユウヌよりユンヌのほうが言いやすく音便に適っていると思える。

 また同じユニ系の地名を持つ与那国島について、村山七郎は伊波普猷の「朝鮮人の漂流記事に現れた十五世紀末の南島」を引いている。伊波に協力した小倉進平は、漂着した与那国島(1477年)を表したユンイシマと読める文字について、ユンは「与那・ユナグニ等におけるユノまたはユナに宛てたものと思はれ」、イは「特別の意味なく添へられたものだと思はれます」と言っている(『琉球語の秘密』村山七郎)。小倉はユノまたはユナにユンを当てたというように理解していると思われるが、実際にユンと聞こえたのかもしれない。もっと言えばユンイと聞こえたのかもしれなかった。ユニのユンヌへの転訛を考えればありえないことではない。

 ところで、オーストロネシア語の「砂・砂洲」としてのユニは琉球弧を北上し列島の大きな島に入ると、「米」の意味をまとうようになる。たとえば12世紀前半の『名義抄』にイネノヨネとあるのは、「米の実」を意味していた。

 南西諸島から西日本にまで移動し、すでに定住していたオーストロネシア語族が、縄文時代末期に渡来した稲の穀実を「砂」に見立て、このように命名したのである。

 「ユニ」は西日本に入り五母音化の影響を受けて「ヨネ」に変わる。そしてそれだけではなく、味気ない色の「砂浜」に憑依するよりは地名を離れて「米」に憑依した。琉球弧の白亜の砂浜はただ美しいだけではなく神聖な場所だった。「米」もただの食糧というのではなく、祭儀として昇華されたように信仰の象徴だった。「ユニ」が列島の砂浜ではなく米に憑いたことに、ぼくたちは合理より喩を選択した初期ヤポネシア人の詩的精神をありありと感じる。「砂州」としての「ユニ」は「ヨネ」に五母音化して、「米」に転移した。これは「ユニ」の詩的冒険だ。

 また、原義を離れて別のものの名となるのも珍しいことではない。崎山によれば熊本ではヨナが「火山灰」の意味になっているし、また沖縄の首里ではあられをユキと呼んだ。

 崎山は、「ユニ」の意味と転移だけではなくその時期も想定しており、オーストロネシア語族とともに「ユニ」が北上したのは縄文時代晩期から弥生時初期にかけてのことだとしている。上限は約三千三百年前に遡れるわけだ。管浩伸の「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」によれば、珊瑚礁としての与論島が海面に到達するのは約三千五百年前。沖縄島には一万数八千年前とされる港川人がおり、奄美大島のヤーヤ遺跡は二万年五千年に遡ることができるのを踏まえると、与論島は琉球弧のなかでも相当に新しい。そしてそこにほどなくして、オーストロネシア語族が南からやって来る。彼らの一部はその真新しい島の初期島人にもなっただろう。そこから「ユニ」が「ユンヌ」へと転訛する冒険が始まったのだ。

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2012/02/05

アマン・アマミ・アマミキヨ

 崎山理は「オセアニア・琉球・日本の国生み神話と不完全な子-アマンの起源-」(1993年)のなかで、アマンがオーストロネシア語を語源とすると書いている。

 原オーストロネシア語の、(k)umang「ヤドカリ」が、西部ミクロネシア地域で、[q]emang という二次形が発生し、琉球諸語でこれに由来する形が保持されたとして、琉球祖語形として、[q]amangを立てている(p.11)。

 そしてこの語源とヤドカリが登場する開闢神話を結びつける。八重山、白保の民間伝承。

大昔、日の神がアマン神に天から降り下界の島を作るよう命じた。アマン神は土砂を槍矛でかきまぜ島を作ったあと、アダン林のなかでアーマンチャー、すなわちヤドカリを作った、その後、神は人子種を下し、ヤドカリの穴から二人の男女が生まれた。

 この神話の形は、「人間の創造にあたって現れた不完全な子を、いずれも水生の小動物によって表現している天で共通する」(p.8)。オセアニア、ベラウ(パラオ)ではこの小動物はオオジャコになる。オオジャコがヤドカリに取って代わっている理由について、崎山はオオジャコが八重山にはほとんど見られないからとしているが、吉成直樹は「先島諸島でもオオジャコは生息しており、オオジャコからヤドカリに置き換わった理由は別に求めなければならない」(『琉球の成立―移住と交易の歴史―』p.96)としている。

 ぼくはヤドカリがそれだけ初期島人にとって普遍的な存在だったからだと考える。私的なことになるが、浜辺から数百メートルもない位置にあったぼくの家では、夜、周囲の石垣をひと回りするとバケツ一杯のヤドカリは容易に採れた。これは、子どもにとって魚釣りの前の晩の楽しみだったが、海辺近くに住んだ初期島人にとってヤドカリは最も身近な存在であったに違いない。崎山はそれを「不完全な子」として表現するが、それは近代的な解釈というもので、初期島人、あるいは神話を作った人々はヤドカリを「不完全な子」と認識していたわけではない。人間は動物と等価な存在だという認識がそこにはあり、人間がヤドカリの子孫であるということは信じられていたと思える。女性の手の甲のヤドカリをモチーフにしたハジチ(針突)はその信の深さを物語っている。

 崎山は続けてアマミキヨの神話にも触れ、アマミキヨもアマン由来のものであることを示唆する。吉成はこれを重視するが、ぼくもそう思う。ここで、ヤドカリ、アマン、奄美、アマミキヨが同一の根拠のもとに考えられる場所が生まれるからだ。

 首里ではアマミキヨはアマンチューである。アマンチューの語義は「ヤドカリ人」である。アマミキヨはアマミ+コ(子)」であり、コが口蓋化によって「キヨ」に変化したものである。したがって、この神話的な存在であるアマミキヨのアマミは、本来、ヤドカリを意味するにすぎないが、神話的な存在としてのヤドカリ、より具体的に言えば「トーテム(祖先)としてのヤドカリであっても不思議ではないことになる。(p.101)

 そこで吉成は「アマミ」という地名について、「ヤドカリをトーテムとする人びと」が住むことに因む名称ではないかと書くわけだ。

 与論の島言葉の語感から言えば、首里のアマンチューはヤドカリ人、八重山、白保の神話のアーマンチャーはヤドカリ人々の意味になる。657年、『日本書紀』に「海見」と書かれた当時、大島には「アマミ」という地名は無かったが、アマンチュー(アーマンチャー)は祖先神であった。大和朝廷勢力の人々は、その語感から「アマミ」と名づけたのではないか。この神名を地名とするのは、『古事記』における、伊予の国がエヒメ(愛比売)の命と同一であるとする名づけ方と同じである。

 もちろん、アマンチュー(アーマンチャー)とアマミの間には音韻の隔たりがある。けれどそれは漢字を当てる際の恣意性に依る可能性は考えられる。たとえば、ユナンに与那国を当てユンヌに与論と当てたように、それに当たる漢字がないかあったとしてもそれよりも妥当に感じられる漢字があればそれに添わせるのは起きうることだ。ぼくたちは「アマミ」という地名は他称であると見なしてきた。他称であることのなかに、アマンチュー(アーマンチャー)をアマミと置き換える自由度が生まれる。あるいは「海見」とする漢字の魅力に引き寄せられる余地が生まれる。谷川健一が(『南島文学発生論』(『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1』所収))で示唆したように、潮を見(p.455)て訪れる島々であることが彼らの実感だった。

 しかし、祖先神が記述される段階、『おもろそうし』に記される頃には、他称である「アマミ」の影響を受け、神名はアマンチューはアマミキヨと書かれた。それでも、キヨはチュ(人)であり、コ(子)が口蓋化したものではなく、チュが五母音化したものであり、アマンチューと呼んだ名残りを留めている。チがキとなるのは、キム(肝)がチムとも呼ばれるように琉球弧では馴染み深い音韻の転訛の範囲内のことだ。

 この仮説は学術的なものではない。しかし、アマンという語感に対する圧倒的な親近とアマミという語感への疎隔という島人の身体感覚からすると、少なくともぼくにはリアリティがある。

 ところで崎山は、このアマンという言葉の渡来時期は、古墳時代以降だと見なしている。

日本語形成に関与したオーストロネシア語族の時期区分によれば、アマンは、古墳期以降の、オーストロネシア第三期に属する語彙項目のなかに含まれる(「オセアニア・琉球・日本の国生み神話と不完全な子-アマンの起源-」p.13)。

 ここでいう第三期とは何か。「日本語の系統とオーストロネシア語起源の地名」(『日本人と日本文化の形成』1993年)によれば、崎山理は、日本語形成に与ったオーストロネシア語族の渡来を三区分に分けて、それぞれの時代を段階化している。

1.ハイ期(縄文時代後期)
2.ヨネ期(縄文時代晩期~弥生時代後期)
3.ハヤト期(古墳時代)

 これを見ると、アマンとはハヤト期に該当すると崎山は言っていると思える。なぜ、アマンが第三期なのか。根拠となる論考にぼくはまだ辿りつけていないのだが、本土以北へアマンの語が遡上していないことに依るのかもしれない。これをそのまま受け取ると、古墳時代が3世紀半ば以降だとすれば、アマンという語も相当に新しいと言わなければならない。

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2012/02/04

ヤドカリをアマミと呼ぶ地域

 吉成直樹が『琉球の成立―移住と交易の歴史―』で、ヤドカリをアマミと発音する地域があると書いているのを見て、どこか知りたいと思ったが(「アマンと「海見」」)、ちゃんと同書のなかにあったので、地図にプロットしてみた。


より大きな地図で ヤドカリをアマミと呼ぶ地域 を表示

 大島の小湊、屋鈍、加計呂麻島の薩川、於斉である。

 これがどうして重要かと言えば、「奄美」の地名の由来を「アマン(ヤドカリ)」を考えた時、実際にアマンではなく、アマミという地域があるのは有力な手がかりになるからである。吉成は、「しかもほかの地方にはみられないのである」(p.92)と強調している。


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2012/02/02

与論シニグ・デッサン 5

 確認できる範囲で、与論の初期島人はイチョーキ長浜貝塚を最古のものとして、島人の流入のメルクマールを記してみる。

1.三千数百年前

 初期島人

 与論が海面上に姿を現し琉球弧に仲間入りするのは約三千五百年前(「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」2010年、管浩伸)だから、イチョーキ長浜のある西の低地が陸地を形成する時間を考えると、初期島人の存在はもう少し後のことかもしれない。ただ、島形成の早い時期から島人が住んだとすれば、その頃には既に往来があったことを示すものでもある。与論島は新しい。けれどほぼ同じ時間だけ島人も与論島とともにあったということだ。


2.三千年前~

 ショウ・グループの一部(麦屋の上城遺跡をショウ・グループの島人であると仮定)

 弥生時代以降は、貝交易、ヤコウガイ交易で琉球弧、奄美北部は活発な動きを見せるので、与論にも何らかの接触があったはずである。「海見」の初見が657年(『日本書紀』)。ついで、「奄美」、「多祢」、「夜久」、「度感」の記述が699年(『続日本紀』)。8世紀の木簡には、「掩(実際は木辺)美嶋」、「伊藍嶋」とある。このいずれにも与論島は登場しないが、交流の渦中にいたのは確かだと思える。

3.千年~九百年前(11~12世紀)

 プカナ・サークラ

 いわゆるアマミキヨの南下に当たる。

4.六百年前(15世紀)

 グスクマ・サークラ

 こうしてみると、初期ショウのグループとプカナには二千年の開きがある。与論の西区、インジャ(麦屋)の言葉と朝戸の言葉が異なるのは当然のことだと言える。また、同様に、グスクマから茶花に移った島人とインジャ(麦屋)、朝戸の言葉が異なるのも。与論言葉も三区分できると言われるのは、島内への移住と島内での移住という時間と空間の差異から生まれたものだ。

 今回のシニグ・デッサンでは、アマミキヨは11世紀以降、奄美大島周辺から南下したものという『琉球の成立―移住と交易の歴史―』での吉成直樹の仮説に従った。

 大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究マキ・ハラの調査』では、ショウ・グループで聞いた「アマミキヨは東方海上より来れりと伝う」(p.252)という伝承を記録している。一方、寺崎、黒花からの移入者については、「約六百年前、島の北岸、黒花、テラザキ・オガンの附近である」(p.381)と、北方からの渡来者と記すのみで、多くの古老から取材しているにも関わらず、寺崎、黒花とむすびつけてアマミキヨの伝承は記されていない。

 山田実の『与論島の生活と伝承(1984年)』によれば、1957年、ちょうど大山と同じ頃に茶花の竹内ウトゥ(当時88歳)に取材をしている。彼女の口からは、ハジピキパンタが島の創生として語られ、アマミクとシニグクが登場し、

 ユウヌ、パジマリヤ、ショオヌミヤ、デエタイ(p.20)

 「世の始まりは正の庭だったらしい」と言われた。このフレーズは、ショウ・グループが持っているものだ。こうみると、ショウとアマミク、シニグクをセットとみなすのが自然なのかもしれないが、稲作の祭儀としてシニグが編成された際に、アマミク、シニグクの信仰が流布され、それがショウのグループに強く残ったものとして、もともとショウ・グループが持っていた神話ではないと見なした。これは確信を持って言えることではなく、シニグ・デッサンでは、与論島人の由来を追ってきたが、シニグの起源も11世紀以前のアマミキヨの存在の有無も課題として残ったままということだ。

 シニグについて、ほんの少しではあるが、今までよりは少し眺望のできる場所まで来れた。自分の出自についても、父方は琉球の系譜、母方はおそらく北方の系譜という見当もついた。自分が育った場所の由来も知れた。いくぶんすっきり。シニグへの島内からの接近は、一端ここまで。次は、琉球弧の他のシニグやそれに類する祭儀から補助線を求める探究に出かけたい。

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2012/02/01

与論シニグ・デッサン 4

 伝承のアージニッチェーが琉球軍に敗れたことにより、与論の短い按司時代が終わり、北山を中心とした琉球からの流入の時代を迎える。グスクマ(城間)サークラである。グスクマは多数の分離(別れ)サークラを持つ。

 城地区内の分離に止まったのが、

 ミーラ(見良)、メーダ(前田)、ホーチ(川内)、クチピャー(口平)

 であり、主に茶花、立長に散ったのが、

 イデン(伊伝)、トゥムイ(供利)、ハニク(金久)、トゥマイ

 である。これだけ見ても、琉球北部からの移入が相当な規模であったことを伺わせる。ここにきて、所有者不明の土地はグスクマ所有のものとなり、シニグは政治的な編成を受ける。そこで、寺崎、黒花をパルシニグとするムッケーも登場したのかもしれない。15世紀以降のことである。

 薩摩時代のことになるが、政治的編成傍証の一端として、増尾国恵の『与論郷土史』(1963年)にはハニク・サークラ発祥の経緯が書かれている。

 高井家は昔は今茶花地域に人家は一戸もなく無人地区であるたが高井家祖先は赤佐に広大の地所を所有してゐたので今の城に立長といふ小字がある見良の東隣に故川畑北仁家の隣東立長畑といふ所から一人赤佐移住した処が続々人が移住するやうになり遂に一小部落となつた。そこで川内与人から償として此のシニュグ祭を与へたと伝はる。(p.67)


 シニグを手がかりにみた与論の島人の形成過程は、南あるいは北からの先住者に対して、グスク時代になり主に北からの流入、そして琉球王国時代に南からの流入を迎える。それぞれの居住地を支えたのは、それぞれインジャゴー(麦屋井)、シーシチャゴー(木下井)、ヤゴー(屋川)の湧泉であった。この小さな島はその小ささの割には人口密度が高いのだが、それを可能にしたのは、豊富な地下水だったのだ。「ゆんぬてぃゅーる島やいにくさやあしが」、だ。

 その後、高地集落では人口が支えられなくなると同心円的に、扇状に、平地への移住が進む。そして現在、その同心円の外側、海岸沿いに新アマミキヨとも言うべき移住者が新しい島人の層を形成するようになった。こうみるとき、島内だけを取っても与論の歴史は移住の歴史でもある。


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