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2012/02/02

与論シニグ・デッサン 5

 確認できる範囲で、与論の初期島人はイチョーキ長浜貝塚を最古のものとして、島人の流入のメルクマールを記してみる。

1.三千数百年前

 初期島人

 与論が海面上に姿を現し琉球弧に仲間入りするのは約三千五百年前(「琉球列島におけるサンゴ礁の形成史」2010年、管浩伸)だから、イチョーキ長浜のある西の低地が陸地を形成する時間を考えると、初期島人の存在はもう少し後のことかもしれない。ただ、島形成の早い時期から島人が住んだとすれば、その頃には既に往来があったことを示すものでもある。与論島は新しい。けれどほぼ同じ時間だけ島人も与論島とともにあったということだ。


2.三千年前~

 ショウ・グループの一部(麦屋の上城遺跡をショウ・グループの島人であると仮定)

 弥生時代以降は、貝交易、ヤコウガイ交易で琉球弧、奄美北部は活発な動きを見せるので、与論にも何らかの接触があったはずである。「海見」の初見が657年(『日本書紀』)。ついで、「奄美」、「多祢」、「夜久」、「度感」の記述が699年(『続日本紀』)。8世紀の木簡には、「掩(実際は木辺)美嶋」、「伊藍嶋」とある。このいずれにも与論島は登場しないが、交流の渦中にいたのは確かだと思える。

3.千年~九百年前(11~12世紀)

 プカナ・サークラ

 いわゆるアマミキヨの南下に当たる。

4.六百年前(15世紀)

 グスクマ・サークラ

 こうしてみると、初期ショウのグループとプカナには二千年の開きがある。与論の西区、インジャ(麦屋)の言葉と朝戸の言葉が異なるのは当然のことだと言える。また、同様に、グスクマから茶花に移った島人とインジャ(麦屋)、朝戸の言葉が異なるのも。与論言葉も三区分できると言われるのは、島内への移住と島内での移住という時間と空間の差異から生まれたものだ。

 今回のシニグ・デッサンでは、アマミキヨは11世紀以降、奄美大島周辺から南下したものという『琉球の成立―移住と交易の歴史―』での吉成直樹の仮説に従った。

 大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究マキ・ハラの調査』では、ショウ・グループで聞いた「アマミキヨは東方海上より来れりと伝う」(p.252)という伝承を記録している。一方、寺崎、黒花からの移入者については、「約六百年前、島の北岸、黒花、テラザキ・オガンの附近である」(p.381)と、北方からの渡来者と記すのみで、多くの古老から取材しているにも関わらず、寺崎、黒花とむすびつけてアマミキヨの伝承は記されていない。

 山田実の『与論島の生活と伝承(1984年)』によれば、1957年、ちょうど大山と同じ頃に茶花の竹内ウトゥ(当時88歳)に取材をしている。彼女の口からは、ハジピキパンタが島の創生として語られ、アマミクとシニグクが登場し、

 ユウヌ、パジマリヤ、ショオヌミヤ、デエタイ(p.20)

 「世の始まりは正の庭だったらしい」と言われた。このフレーズは、ショウ・グループが持っているものだ。こうみると、ショウとアマミク、シニグクをセットとみなすのが自然なのかもしれないが、稲作の祭儀としてシニグが編成された際に、アマミク、シニグクの信仰が流布され、それがショウのグループに強く残ったものとして、もともとショウ・グループが持っていた神話ではないと見なした。これは確信を持って言えることではなく、シニグ・デッサンでは、与論島人の由来を追ってきたが、シニグの起源も11世紀以前のアマミキヨの存在の有無も課題として残ったままということだ。

 シニグについて、ほんの少しではあるが、今までよりは少し眺望のできる場所まで来れた。自分の出自についても、父方は琉球の系譜、母方はおそらく北方の系譜という見当もついた。自分が育った場所の由来も知れた。いくぶんすっきり。シニグへの島内からの接近は、一端ここまで。次は、琉球弧の他のシニグやそれに類する祭儀から補助線を求める探究に出かけたい。

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