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2012/02/01

与論シニグ・デッサン 4

 伝承のアージニッチェーが琉球軍に敗れたことにより、与論の短い按司時代が終わり、北山を中心とした琉球からの流入の時代を迎える。グスクマ(城間)サークラである。グスクマは多数の分離(別れ)サークラを持つ。

 城地区内の分離に止まったのが、

 ミーラ(見良)、メーダ(前田)、ホーチ(川内)、クチピャー(口平)

 であり、主に茶花、立長に散ったのが、

 イデン(伊伝)、トゥムイ(供利)、ハニク(金久)、トゥマイ

 である。これだけ見ても、琉球北部からの移入が相当な規模であったことを伺わせる。ここにきて、所有者不明の土地はグスクマ所有のものとなり、シニグは政治的な編成を受ける。そこで、寺崎、黒花をパルシニグとするムッケーも登場したのかもしれない。15世紀以降のことである。

 薩摩時代のことになるが、政治的編成傍証の一端として、増尾国恵の『与論郷土史』(1963年)にはハニク・サークラ発祥の経緯が書かれている。

 高井家は昔は今茶花地域に人家は一戸もなく無人地区であるたが高井家祖先は赤佐に広大の地所を所有してゐたので今の城に立長といふ小字がある見良の東隣に故川畑北仁家の隣東立長畑といふ所から一人赤佐移住した処が続々人が移住するやうになり遂に一小部落となつた。そこで川内与人から償として此のシニュグ祭を与へたと伝はる。(p.67)


 シニグを手がかりにみた与論の島人の形成過程は、南あるいは北からの先住者に対して、グスク時代になり主に北からの流入、そして琉球王国時代に南からの流入を迎える。それぞれの居住地を支えたのは、それぞれインジャゴー(麦屋井)、シーシチャゴー(木下井)、ヤゴー(屋川)の湧泉であった。この小さな島はその小ささの割には人口密度が高いのだが、それを可能にしたのは、豊富な地下水だったのだ。「ゆんぬてぃゅーる島やいにくさやあしが」、だ。

 その後、高地集落では人口が支えられなくなると同心円的に、扇状に、平地への移住が進む。そして現在、その同心円の外側、海岸沿いに新アマミキヨとも言うべき移住者が新しい島人の層を形成するようになった。こうみるとき、島内だけを取っても与論の歴史は移住の歴史でもある。


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