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2012/01/29

与論シニグ・デッサン 1

 驚くべきことに、大山彦一の『南西諸島の家族制度の研究マキ・ハラの調査』によると、ショウ・グループのシニグは、以前は、寺崎を起点に神路を通ったとあることだ。

 此以前のシニグ即ちパル・シニグでは島の北海岸にあるテダラキから高千穂の東を経て、又吉の東で赤崎オガンの方向に向って遥拝して解散した、大多数の氏子が叶、那間の遠距離であるので、又吉の東に於て東方赤崎オガンの遙拝に止めた。遙拝の祝詞の中に「大東、大口云云」とあった。「大口」は赤崎オガンの東方海上の入口で、此の大口の神は赤崎オガンに祭られている。「大東」はアマミキヨは東方海上より来れりと伝う。東方海上の神を遙拝したのである。(p.252)。

 さらにこれ以前には、赤崎ウガンの遙拝に止まらず、赤崎ウガンに行って祈っていたのだという。赤崎は寺崎とむすびつけられていたわけだ。ここで、与論に最初に上陸した島人は、最初は赤崎、次は寺崎と言い伝えられていることに対して、細い補助線が引かれる。これは逆転した言い方で、このショウ・グループの神路がこうした伝承の元になったのかもしれない。これは、東方への信仰のもと、赤崎の近辺に居を定めた島人ではあるが、その出自の重要なひとつは寺崎であった可能性を示唆している。

 あるいは別の可能性もある。アマミキヨたちによって稲作技術がもたらされたとすれば、彼らの島内移住経路をなぞって神路を設定した。そのルートは自分たちの出自そのものではないから厳密ではなく、またその後、行路の距離から辿ることがなくなってもよしとされた。

 ショウ・グループが寺崎からのシニグ神路を持っていたことは、ショウに始まり、サキマ、キン、アダマの島人全体がそうだったことを意味していない。そもそもそうであれば、神路は絶やされることなく続けられただろうし、ショウのグループが東方海上を入口として示唆することもないだろう。

 大山は別の箇所で、ショウ・グループがシニグの後半に行う「大峯山の弓引き行事は、沖縄に向かって弓を引く抵抗の姿勢である」(p.382)としているが、実際には、「うくやま ぴどやまぬぬ ししぬ まーまんなか」と書いている。これは、大山の言うような抵抗の姿勢というものではない。これはショウ・グループが狩猟を営んでいたことを示すものであり、沖縄島北部との交流あるいは沖縄北部からの移住の記憶を留めていると見なされるものだ。

 初期島人の生命の源泉となったアマンジョウはアマミキヨ文脈に引き寄せてアマミキヨの井戸と解されることが多い。しかし、地形の特徴を示すのが地名の原義であるとしたら、ヤドカリのいる井戸と解することができる。さらに、ショウ、サキマ、キン、アダマについて、サキマは徳之島のサクマ(作真)と同名であり沖縄にも同じ地名を見出すことができ、アダマは沖縄のアダ(安田)との類縁あるいは島尻のアザマ(安座眞)と同名を思わせる。キンは、以前考えたことがあるように(「津堅地名考1 チキンとは何か」)、金武、具志堅などと同様の地形を想定することができる。ショウについては、ぼくはまだ分からない。ただ、ジョウが清音化されてショウとなったという可能性はあるはずだ。あるいは地名の原義に従えば、今帰仁のショシ(諸志)、加計呂麻島のシュドン(諸鈍)と同じく「汐」に由来するのかもしれない。

 ショウの島人をそのひとつとする初期島人は、赤崎近辺に居住した。彼らの一部には寺崎からの流入もあったかもしれない。ただし、赤崎近辺だけが初期島人の居住地ではない。西海岸のイチョーキ長浜からは三千数百年前と推定される貝塚が発見されている。彼らはその後の行方が不明だとしても、島の東西南北に初期島人はいなかったと想定する方が不自然である。

 奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡(二万五千年前頃)には台湾、東南アジアに起源のある石器群が出土している。この頃はまだ与論島は海上に姿を現していないにしても既に南方的な海洋文化はこの時、存在していた。貝塚時代、つまり本州、九州における、縄文時代晩期から弥生、古墳時代の琉球弧は、「本土縄文文化の影響を強く受けながらも、さらに南方島嶼世界、ことに台湾、フィリピン、インドネシアなどを源流とする文化やヒトの影響も断続的に受けていた。」(『琉球の成立―移住と交易の歴史―』吉成直樹)。ついで、麦屋の上城遺跡も九州、本州の縄文時代晩期に当たるものだ。上城の島人がショウ・グループの人々に当たる確証はないにしても、約三千年前には現在に通じる島人の足跡を認めることができる。赤崎近辺の島人は集団として生きながらえてきた。そして、定住する次の島人集団と出会うまでには長いながい時が経過したのだ。

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