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2012/01/08

南下したアマミキヨと与論シヌグ

 谷川健一は『南島文学発生論』(『谷川健一全集〈第5巻〉沖縄1所収。『南島文学発生論』は1991年)で、アマミキヨは「日本本土から南下」したとしている。その「証拠の一つ」に、「奄美や沖縄では原料の得られない石鍋が」(p.453)奄美大島や沖縄本島に出土している、と。

 これに対して、吉成直樹は、『琉球の成立―移住と交易の歴史―』(2011年)で、「アマミ」という地名の語源を「アマン」、ヤドカリに求め、その意味を「ヤドカリをトーテムとする人々」に因むと仮説し、したがってアマミキヨも奄美から南下したものと捉えている(p.103)。

 そこで、おもろの詩句について、議論が分かれる。

 あまみや、すぢや、なすな
 しねりや、すぢや、なすな
 しやりば、すぢや、なしよわれ

 この理解について、谷川は、伊波普猷、仲原善忠、外間守善の「アマミヤの血筋をj否定すると解釈するのは明らかにまちがっている」(p.464)とする。

むしろ、アマミキヨ・シネリキヨの血筋を産めよ、という賛美にならなければならない。高い文化をもたらした北方の人々に対しての尊敬の念から、その血筋を産みたいと南島の人たちが思うのはとうぜんのことにちがいなかった。(p.464)

 当然のこととは限らないと半畳を入れたくなるのはさておき、吉成はこの点、伊波、仲原、外間と同様に、

おもろの主旨は、太陽神がアマミキヨとシネリキヨをお招きになって、島、国造りをさせ、そして太陽神がアマミキヨとシネリキヨの子どもを生むのではなく-この解釈には異論がある-、血筋の正しい人を生みなさいと命じたという内容である。(p.95)

 として、

 先に、アマミキヨを国人の始めとする伝説とは矛盾し、アマミキヨの上に日神(天帝)が重なっていることから、これが成文化したのは、封建王国成立後とする見解があることを紹介したが、これは支配者層(太陽神、天帝子など)を被支配者層(アマミキヨ)の関係が神話化されたものと考える。(p.100)

 と、アマミキヨが創世神でありながら、支配者ではない構造を浮かび上がらせている。谷川の断定調には辟易するが、それは置くとしても、吉成の議論の方によりぼくは説得される。

 谷川は、『中山世鑑』の島づくりの記述が、安須森、今鬼神、知念森、斉場獄、浦原、玉城、久高等々と続くことから、「これを見るとアマミク(アマミキヨ)が沖縄本島の最北端に足がかりを得て南下したことがはっきりする(p.455)」としている。

 ここについて、与論の島人としてのぼくを驚愕させたのも吉成直樹だった。『琉球王国誕生―奄美諸島史から』(2007年)で、おもろを読み解きながら、与論島が琉球王国成立の足がかりになった「根の島」のひとつとして紹介されていたのだ。(この本は与論の図書館にもあった)

(前略)与論島にも武力を行使する支配者がおり「島 かねる」行為を行っていたと考えられる。(p.273)
 トカラ列島の人々が航海に巧みだったことを考えれば「トカラ」の名を持つ神が航海守護を行うことは容易に理解できる。この事実は、トカラ列島から奄美諸島を経由せずに沖縄諸島に渡島したと考えられる集団は、与論島あるいは沖永良部島の奄美諸島南部の島々を足がかりにしたということを想定させる。それはすでに述べたように、沖縄島最北端の辺戸部落に「島渡りのウムイ」があり、この神歌を謳う辺戸部落の古老たちは、祖先神たちが沖永良部島、与論島を経て辺戸にとりつき、辺戸から沖縄の島の歴史が拓かれていったと固く信じているという指摘を踏まえてのことである。(p.275)

 歴史において一顧だにされないことを慣わしのようにしてきたぼくたちにとって、これは驚くべき記述だった。まだ、ある。

巻五-二三七
一玉の御(み)袖加那志 (玉の御袖加那志)
 げらゑ御袖加那志 (げらゑ御袖加那志を)
    神 衆生 揃て (神も人も揃って)
 誇りよわちへ (誇り給いて)
又奥武の獄大主 (奥武の獄大主)
 なです杜(もり)大主 (なです杜大主)
又かゑふたに 降ろちへ (与論島に降ろして)
 厳子(いつこ)達に 取らちへ (兵士たちに取らせて)

 他のおもろも紹介しながら、吉成はこう書く。

 二三七では「玉の(げらへ)御袖加那志」である神は「奥武の嶽大主」「なです杜大主」として与論島に降ろされ、兵士たちに何かをとらせる。二三五では同名の神が始原の首里城で国王に「上下の戦せぢ」を奉る。二三七で「厳子たち」が手にしたのは、まさに「上下の戦せぢ」であろう。
 巻五の始原構築おもろ群のなかで、このおもろ群はとくに難解である。ただ、琉球王国は与論島に始原世界と、武力の根源をみていたことは確実である。そのために、与論島はおもろで「根の島」と呼ばれていたのではないか。(p.279)

 以前も書いたけれど(「根の島としての与論島」)、ここでの驚きは二重にあって、ひとつは与論島が取り上げられていることと、もう一つは与論がおよそ縁遠そうな「武力」に関わるとされていることだ。「イューガマ」だけでなく、これも謎だ。

 吉成はさらに重要な指摘をしている。

アマミをヤドカリの意味にとるのであれば、アマミキヨ・シネリキヨの男女二神は、本来、アマミキヨの一神のみであったが、兄妹始祖のモチーフによって男女二神の組み合わせになったと考えなければならないことになる。これは、シネリキヨがアマミキヨの対句としてアマミキヨと同義、言い換えであることを意味しない。また、ヤドカリを祖先とする観念と兄妹始祖神話のいずれが文化史的にみて古いかについては不明である。(p.278)

 アマミキヨ一神だったのちに「兄妹始祖のモチーフによって男女二神の組み合わせになった」とぼくも考える。また、「ヤドカリを祖先とする観念と兄妹始祖神話のいずれが文化史的にみて古いかについては」、ヤドカリ祖先が古いと考える。人間と動物を同等とみなす観念は、古琉球以前に普遍的なものだと思えるからだ。

 さらにもう一つ。

(アマミキヨの南下の-引用者注)時期として、「アマミ」が考古資料からも、史料からも姿を消す十一世紀以降をひとつの可能性として考えたい。アマミキヨは、民間の神歌や『おもろそうし』では鉄や稲と結びついて伝承されており、それらがもたらされたのはこの時代であることが理由である。その場合、喜界島による「奄美人追討」によるものか、喜界島の交易拠点からの移住者に従っての南下なのかなどについては不明である。(p.164)

 ここで抽出したいのは、アマミキヨの南下が11世紀以降に可能性を持つこと。そして南下したアマミキヨは、既に農耕技術を持っていたこと、あるいは農耕技術を持った集団に随伴したかという可能性だ。

 さて、ここまでつまみ食い的に引いて、やりたいのは荒っぽく、与論シヌグの由来の背景を構想してみることだ。

1.もともとスク到来の予祝としての祭りがあった。踊りもあった。アマンを祖先とする信仰もあった。
2.アマミキヨの南下とともに、稲の儀礼が加わり、シヌグとして奄美南部と沖縄本島等に共有される。
3.倭寇勢力が、沖永良部島、与論島を足がかりに琉球王国成立に関わる。彼らは武力集団であり、シヌグのサークラを構成することはなかった。

 まだたったこれだけのことしか言えない。この構想のなかでは、南下したアマミキヨは、与論ではクルパナサークラとティラサキサークラを構成したということになり、その出自は奄美大島、喜界島の可能性を持つ。かつ、琉球王国成立に関与した人々ではないと見なすことになる。また、この構図のなかでは、シヌグの語源が男神シニグクに由来する可能性も生まれる。谷川の言う「しのくる」(踊る)に由来するのであれば、琉球弧の他島もシヌグ名を冠してもよいはずだからだ。


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コメント

 毎回しゃしゃり出て恐縮です。

 『琉球神道紀』や『おもろさうし』もそうですが、『中山世鑑』は薩摩侵略以降の編纂ですから、沖縄島中心となっていて、奄美諸島の情報が欠落していますね。

 アマミキヨが造った最初の聖地が「安須森」だったり「知念グスク」だったり。。。しかし神々の上陸地は、例えば与論では赤崎ですよね。
 久高島など沖縄島南部を聖地とするのも、琉球王朝の都合なのでしょう。

 それと「アマム」なんですが。。。名護博教授は「アマミキヨは島々に定着したわけではなく、季節を定めて来島し去って行った神々」とした上で、「奄美沖縄諸島で "宿を借りながら" 点々と活動していたのでは?」と掲示板に記しています。
 トーテムとしての「アマム」ではなく、アマミキヨの行動形態の可能性を考えていいと思います。

 あるいは、アイヌ語の「アマム(穀物)」との関係あるでしょうか。与論の「シニグ」とも合わせて考えると意外な意味解きができるかもしれません。

投稿: 琉球松 | 2012/01/08 14:30

琉球松さん

面白いです。すると、なぜアマミキヨはそんな旅人のような軌跡をたどったのでしょう。与論の場合、アマミキヨ伝承は赤崎に結びつられる場合もありますが、寺崎と結びつけられる場合も、両方のときもあります。定まらないんですよね。それが与論らしいと言えば言えるのですが、かえって来訪神や貴種流離譚としては受け入れやすい面もおります。

名護さんのお名前はよくお聞きするのですが、まだ読んだことはありません。こんど見てみます。

投稿: 喜山 | 2012/01/15 16:30

 外間守善先生は「与論から沖縄が見える」と、示唆的な発言をされていますね。
 これは地名の解読とも繋がるんですけど。。。氏は「アカ」と「テラ」は対語関係で、どちらも古代の海人地名だとされています。与論の場合は赤崎からも寺崎からも神々は上陸したのでしょう。

 多くの島ン人がこの「テラ」から連想するのは「寺」ではなく「太陽」ですから、神々はおおむね島々の東海岸を吉としたかもしれません?

 これは、考古学や島々の祭りをサーっと見渡した僕の推測ですが、アマミキヨは東側ルートで南下し、西側ルートで帰って行ったんじゃないかと。。。沖縄諸島東側へは与論島東海岸を経由、しかし帰郷は伊平屋島から与論をパスして沖永良部〜徳之島。。。

 弥生時代中期の「須玖式土器」を携えた北部九州の女達(男達も)の目的は、明らかに沖縄諸島(与論を含む?)の巻貝を手に入れる事だったでしょうから、与論からもこの土器と「巻貝集積遺構」が出土するはずなんですよ。

投稿: 琉球松 | 2012/01/15 18:24

琉球松さん

おかげで何だか少しずつほぐれて自分なりの観方を探っていけそうな気がしています。ありがとうございます。

そう考えると、アマミキヨは定着する者もあったかもしれないけど、貝を入手した後は去っていったと考えられますか? 

赤崎と寺崎は、与論を見ても赤と白の対応で、魅せられます。

投稿: 喜山 | 2012/01/22 19:10

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