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2012/01/22

パルシヌグの収奪?

 野口才蔵の『南島与論島の文化』(1976年)から。シヌグ祭グループの内訳メモ。

 合同サークラはだいたい近接。

1.ショウ、サキマ、キン、アダマ
・密集部落。サークラ間の婚姻も比較的容易になされる。

2.プカナ、ニッチェー、サトゥヌシ(スーマ)

3.ユントク、プサト、クルパナ(パルシヌグ)、ユクイ

4.城間(グスクマ)、前田(メーダ)、ティラサキ(パルシニグ)、ハジピキ
・前田(メーダ)サークラの高祖は花城与論主の長子、又吉里子の子
・城間(グスクマ)サークラの高祖は、同じく三男の屋口首里主

5.川内(ホーチ)、口平(クチピャー)
・高祖は同一祖先。

6.見良(ミーラ)

7.伊伝

8.トゥムイ、マスオ氏、福氏、田畑氏

9.金久(ハニク)

10.トゥマイ


 この整理で気になるのは、4のグループだ。ぼくたちはこれまで、ティラサキ・サークラを農耕技術を持った集団であり、アマミキヨ勢力であったと見なしてきた。そうであれば、パルシヌグとして、ムッケーサークラに迎えてもらうポジションを得てきたのだ、と。そうであるなら、ムッケー・サークラはティラサキ・サークラに対して古い集団であり、劣位を強いられた集団であると見なされる。しかし、城間(グスクマ)、前田(メーダ)は琉球からの流入者であり、ティラサキに対して優位な立場にある。これは矛盾ではないのか?

 野口もここで「ある時代に何か政治的工策がとられたのではなかろうか」としている。野口の文章は、広場に出す書物の体裁でありながら、同世代の島の人でなければ分からない文脈で半ば語っているので、ぼくにはうまくつかめないところがある。何とか文脈を掴みだしてみると、こういうことのようだ。

・寺崎はプカナ所属の龍野が土地の所有者だった。その頃は、ティラサキだけでなく、プカナもパルシヌグだった。
・龍野の高祖は花城与論主の二男殿内与論主。

二男殿内与論主の後裔の所属するプカナダークらから農作の神として神格化した現人神を城間、前田ダークラに迎えさせたのではなかろうか注目を引くところである。(p.146)

 つまり、寺崎の所有者は琉球系の末裔だったから、同じく琉球系の城間、前田を迎える立場にできたのではないか、ということだ。ここに「政治的工策」を見るのは当然だろう。ある時、龍野は寺崎の土地所有者になることによって、パルシヌグの立場を得たということになる。この時、本来のティラサキ・サークラだった者たちはその立場を追われた可能性がある。

 シヌグに与論の先住、後住の痕跡を辿ろうとする者からすれば、このことは現在あるシヌググループをそのまま元にしてはならないことを教えている。ここで踏まえなければならないのは、寺崎、黒花がパルシヌグの立場にあるというシヌグ構造を後住の強者が利用したということだ。いわゆる資本の本源的蓄積としての土地の私有地への転化は、この南の小島でも見られたことになる。こうしたことは島内だけでは起こりにくいから強大な権力を背景に想定しなければならないだろう。琉球王朝だ。

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