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2012/01/02

「呪い」と「リトル・ピープル」と

 内田樹のおどろおどろしいタイトルの『呪いの時代』が売れていると聞く。そうだとしたら、それはここに書かれているにリアリティがあるからではないか。多くの人の、今の社会に対する現実感を言い当てているからではないかと思う。

 攻撃的な人が増えている。「呪い」の言葉を浴びせる人が。合い言葉は「待ったなし」。待ったなしの事態なのだからやるしかない。こうして他者を思考停止に追いこんでゆく。しかしこのとき思考停止をしているのはそこに追いやられる人ばかりではなく、まずもって「待ったなし」と号令している当の本人だ。待ったなしによって責任も回避される。なにしろ、待ったなしだったのだから。「呪い」の言葉を浴びせる人は自己承認に他者を必要とする。もちろん、もともと人は他者承認によって自己像を築くものだから内田が言うように“自分探し”はイデオロギーになる他ないけれど、他者承認の招来を待つことと他者承認を強要するのとは別のことだ。そこで、「呪い」の言葉を浴びせる人の他者承認は強迫的にならざるをえない。泳ぐのを止めてしまったら死んでしまうある種の魚のように、常に他者承認を求めずば彼らの自己承認は満たされない。かくして「呪い」は常に生産されてしまう。

 けれど、「呪い」は必ず自分へ回帰し自己に復讐するだろう。内田はそこで、「呪い」ではなく、「祝福」が必要なのだと書く。

 この文脈を引き継ぐように、「『腹の読めないおじさん」から「のっぺりしたリーダー』へ」では、政治のリーダーシップへ敷衍して、いつの間にか政治のリーダーも、「何を考えているのか分からない、けれど任せておきたいおじさん」から「チキンレースでブレーキを踏まないガッツな兄ちゃん」に交替したと見なしている。これもリアリティがあると言わなければならない。

 「チキンレースでブレーキを踏まないガッツな兄ちゃん」は、反対者を組みこめないから、人は思考停止に追いやられていく。思考停止のなかでは、人は幼児化する。厚木空港を降りたマッカーサーが日本人を指して、「十二歳の少年のようだ」と言った状況にすぐに逆行してしまう。戦後とはいったい何だったのか。「水戸黄門」は終わった。もう誰も紋所を出すことはできない。けれどそこで貌を出したのは意思を持った自立した個人ではなかった。ビッグ・ブラザーの時代から『リトル・ピープルの時代』(宇野常寛)に変わってしまったのだ。「チキンレースでブレーキを踏まないガッツな兄ちゃん」とは、さしづめ小ビッグ・ブラザー化を目論む者たちの謂いだ。

 宇野は<ここではない、どこか>を求めてもそれはなく、<いま、ここ>にどこまでも潜っていく他ないと云う。思考の運動としてはそうだろう。しかしぼくたちは生身の自然なのだ。縁無き場所からは立ち去るしかない。昨年の出来事は、地震と津波という自然と原発という人工とに晒されている身体は、生身の自然なのだということを突きつけた。ケアと祝福とが不可欠なことは言うまでもない。



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