ティラサキサークラの行路
1937(昭和12)年頃の寺崎シヌグ祭祀。
1.ティラサキサークラの座元と供人は物忌みをなし身を清め夕方、寺崎ウガン近くのガジュマルの木の下にこもる。
2.座元はその夜見る夢で、世柄、作柄のお告げを受ける。
3.座元には神が憑依し、神送りをするまでは、神として迎えられる。
4.座元は赤い神衣に赤い鉢巻きを被りヤマブドウの蔓をたすきのように身にまとう
5.供人は白い神衣をつけ、デークの束を持つ
6.座元、供人の他に座元親族等の関係者数十人(パルシヌグ一行)が同行してターヤパンタへ。
7.原野や畑地の神道(シヌグ道)を通り、途中四箇所の石の周囲を各々一回、左回りにまわって進む。
8.ハジピキパンタでも石を一周した後、しばらくそこでハジピキパンタの地主の接待を受ける。
9.ターヤパンタでむっケーシヌグの旗が立つとそれを目標に進む。
10.寺崎出発後、三時間でターヤパンタ到着。
11.ターヤパンタでパルシヌグとムッケーシヌグが対面。
12.グスクマサークラの座元はパルシヌグを迎え、今年の世柄、作柄について尋ねる。パルシヌグの座元は夢のお告げに従って告知。
13.子どもたちはパルシヌグの座元が身にまとっているヤマブドウを争って取って食べる。これを食べると次のシヌグまで無病で過ごせるという。
14.子どもたちは用意されたデークを分け持って、各家々のヤーウチに出発する。
15.一行はターヤパンタ近くの畑で宴を開く。
16.この時の人数はクルパナシヌグを合わせて200人以上。
17.宴を終えると、パルシヌグとムッケーシヌグは列を作ってサト地区へ進み、シチャーターという場所でウウクイをする。
18.東の海の方に向かってデーク、ヤマブドウ、シヌグ旗の竹竿を投げ捨て、「ワープニトゥ、ウラプニトゥ、ワープニヤパイベーク」と唱える。
19.パルシヌグの座元は赤い神衣を振りながら、カリユシドーと叫んで神送りする。
(これ以前の寺崎シヌグの座元の行動)
・当時は、プカナサークラも寺崎サークラの迎えシヌグとして、ターヤパンタに来ていた。
・寺崎サークラのパルシヌグ一行は、ターヤパンタでグスクマサークラと別れて、プカナと正サークラに行って酒宴の後、インジャゴーの辺りを通り、ウタナの井戸の傍にある小高い石の上に装束を解いて石の上に乗せ、拝礼してお送りをなした。
(「那間シヌグ」、平成19年。小野重朗の「与論島のシヌグとウンジャミ」を引用したものと思われる)
・ハジピキパンタでは地元のハジピキサークラと合流して祭事が行われた。
・ターヤパンタでは、ムッケーシヌグのグスクマサークラとメーダサークラの出迎えを受け、共同の祭事と酒宴が行われる。
(「シニグは農耕文化・歴史を後代に伝える為に先祖が想像した伝承遺産である」2006年、たけうちひろし)
ここで抽出したい構造は、
・シヌグが、神が憑依する側(パルシヌグ)とそれを迎える側(ムッケーシヌグ)に分かれていること
・以前は、ハジピキにもハジピキサークラが存在したこと
・以前は、プカナサークラもムッケーシヌグだったこと
・その頃、寺崎サークラはプカナと正サークラに行って酒宴を開いて神送りをしたこと
現在のシヌグは簡素化の一途を辿っている。『与論島―琉球の原風景が残る島』でも既に、寺崎サークラは考察の対象外になっている。また上記のような記録がなければ、ハジピキサークラの存在も、かつてプカナサークラが寺崎サークラのムッケーシヌグだったことも分からず仕舞いだ。最盛期のサークラ数は『与論島―琉球の原風景が残る島』に記憶されている17に、寺崎とハジピキを加えた19であるというわけでもない。野口才蔵の『南島与論島の文化』では、25をカウントしているが、これが最盛期の近似値だろうか。
シヌグも、他の与論の民俗事象と同じように雲をつかむような作業を強いられるのだが、ただそれでも、この寺崎サークラの行路から言えるのは、彼らが与論に農耕技術をもたらした勢力を象徴しており、パルシヌグとムッケーシヌグの合流に、在地住民との関係が凝縮されちるのではないかということ。また、寺崎サークラとプカナサークラが、シヌグの宴の後、正サークラに向かうという中には、与論の最古集団に対する儀礼も含まれていたように見え、シヌグが与論の共同体の成り立ちを証言するものであることを示す。その構造は抽出できるように思う。
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